憑き物が憑いたのは誰だ?
「――憑き物が出るって噂なんだ」
深刻そうな表情でそう切り出したのは野戸だった。神谷は寄り合い所に呼び出されて早々のその切り出しに少々の戸惑いを覚えていた。
「憑き物っていうと、オサキ狐とかクダとかイズナとかって人間に憑く妖物の類のこと? 姿形は小さな狐やイタチに似ているってケースが多い」
そう言ったのは吉田だった。彼と神谷は腐れ縁の仲だ。
「僕、そういう方面はそんなに詳しくないんだよね」
そう続けたが、充分に詳しいように神谷には思えた。野戸は深刻そうな顔で頷くと、
「憑き物に憑かれると、本人がただ単に誰かを妬んだり、誰かの物を羨ましがったりするだけで、憑き物がそれを盗んで来たりするらしい」
なんて説明をして来た。
「ありがた迷惑だな」と、それに神谷。
補足説明だとばかりに吉田が続けた。
「誰かが裕福になったことに対する妬みからそういう噂がつくられたってのが、一般的な見解らしいよ? だから、“嫌われ者”に憑くのだと思う」
目撃例があるって話を完全に無視ししている。マイペースだ。
「で、その憑き物が何処に出たんだ?」
神谷が尋ねると、「いや、それが……」と野戸は言葉を濁す。
何か言いたくない事情でもあるのだろうか?と彼は訝しんだ。
「それが、猪俣さんと一緒にいるってのを見たって言うんだよ」
「猪俣さん?」
猪俣さんは、何故かまったく喋らないが、信じられないくらいに人が好い事で有名だ。怒ったのを見た人はいないし、困っている人がいるとまず助ける。
「いやいや、それはないだろう? 憑き物ってのは嫌われ者に憑くんだろう?」
吉田の説明を信じるのならそうなる。それに猪俣さんが誰かを羨んで憑き物に物を盗ませるなんて彼には想像もできなかった。
「うん。俺もそう思うんだ」
野戸はあっさりとそう言った。そして、
「……だから、もしかしたら、憑き物は俺に憑いているのじゃないかと思うんだ」
などと続けたのだった。
ふざけているのかと思ったが、相変わらず深刻そうな様子だ。
「何があったんだ?」と吉田。
野戸は軽く溜息をつくと口を開いた。
――先日、俺はちょっと酷く落ち込んでいたんだよ。仕事で失敗しちゃってさ。深酒をして、家に辿り着いて、そのまま眠った。朝起きて、頭がガンガン痛くて、まぁ、当然、朝飯なんか作れるはずがない。
が、何故か、食卓の上に温かいご飯と梅干と味噌汁が用意されてあるんだよ。
「一体、誰が?」
と、俺は目を白黒させた。
そして、その時にふと見ちまったんだ。小さな狐みたいな生き物が、部屋の窓から逃げていくのを……
「――つまり、どっかの家の朝ご飯を、お前に憑いた憑き物が盗んで来たのかもしれないっていうのか?」
神谷の質問に野戸は大きく頷いた。
「ああ」
それが本当に憑き物の仕業だとするのなら、なんともしょぼい。その程度では、金持ちになんか絶対になれないだろうと彼は思った。いずれにしろ、何かの勘違いだろうと彼は考えたのだが、そこで声が聞こえた。
「いえ、もしかしたら、僕に憑いているのかもしれません」
声の方を見ると、園田タケシ…… 通称ソゲキという年下のお調子者がいつの間にか近くの席に座っていた。
「この前、風邪で寝込んでいたんですが、いつの間にかスポーツドリンクとお粥が届けられていまして。玄関を見ると、小さな狐っぽいものが出て行くところだったんです」
また変な主張をする奴が増えたと神谷は頭を抱える。そしてやっぱりしょぼい悪事だ。
「お前ら、不思議に思う気持ちは分かるが、そんな程度で憑き物って言われてもな。他には何も盗って来ていないのだろう?」
そもそも憑き物なんているはずがない。彼はそう思っていた。きっと何かの勘違いだ。が、そこで再び声が聞こえて来たのだ。
「いいえ、きっと、憑き物が憑いているのはこのわたしよ」
今度は柏葉という女性だった。子持ちだが、離婚していて生活は厳しいらしい。
「この前、ちょっとお金に困っていたのだけど、そうしたら、机の上にいつの間にかお金が置かれていたの。足跡が残っていたのだけど、小さな狐くらいのサイズだったわ」
金額はどれほどか分からないが、お金となるとちょっと話は違って来るような気がしないでもない。
が、それでも憑き物はない。彼はそう思っていた。そもそも、三人が三人ともちっとも裕福ではない。
ところが、そこで吉田が声を上げたのだった。
「――ちょっと待ってくれ」
なんだ?
と、そこにいた全員が彼に注目をした。
「憑き物は、憑いた家の主の欲望を叶えるのだろう? 何かが欲しいと思ったら、それを奪って来る。
じゃ、憑いた家の主が“誰かを助けたい”って欲望を抱いたらどうなるんだ? 自分の持ち物を誰かにあげちゃうのじゃないか?」
それを聞いて神谷は「一体、そんなの誰が……」と言いかけて口を噤む。“猪俣さんが憑き物と一緒にいた”という話を思い出していたからだ。
「……そういえば、最近、猪俣さん、少し痩せてきてないか?」
野戸がそう言った。
皆は黙る。
そして、「町内の皆に声をかけて、差し入れでもしようか」と吉田が言うと、皆はそれに大きく頷いたのだった。