8
「えっと、ここでの生活に慣れました?」
いきなり、シェルアがそう尋ねてきた。俺は口をつけていたカップを受け皿に置く。
「そうですね、リーゼさんにもよくしてもらってますので、かなり慣れてきたかと」
「そうですか。それならよかったです」
それはとってつけたかのような、どことなくぎこちない会話だった。
思い返してみると、リーゼとは殆ど話しておらず、ほとんどがダメ出しと説教だった。
この世界にきてようやくまともに話をすることができる機会だと思うと、少しだけ体に力が入ってしまっていた。
なにより、相手がシェルアだというのも大きい。
黒い髪は陽の光を浴びて艶やかな光沢を放っており、長いまつげが光に当てられているのが見える。
こうしてみると彼女のまつげはとてつもなく長いことに気が付いた。
整った鼻筋に薄い唇、今日の服装も黒を基調にしたドレス。
相変わらず似合うが、どことなく暗い印象を与えてしまっているような気がしてならない。
彼女のような美人なら、きっと白とかの明るい服が似合うだろう。
ふと、キラリと何かが光った。
見ると首元から胸元にかけてネックレスの鎖が伸びているのが見える。
隆起する服に一瞬バツが悪くなり慌てて目をそらしてしまったが、再度ゆっくりと視線を合わす。
なんとも際どい位置にあるそれは、なんだか不思議な雰囲気を醸し出していた。
ネックレスの先端は隠れていて見えないが、鎖はかなり古く、ところどころ錆びている。
リーゼなら真っ先に錆びを落とす気がするが、あれだけは例外なのだろうか?
「あの、サトーさん?」
名前を呼ばれて、俺は慌ててシェルアの顔を見た。
どうやら考え事をしていたからかボーっとしていたらしい。
不思議そうにこちらを見るシェルアに対し、「すいません、少し考え事を」と返す。
シェルアはそうですか、とだけ返し、再度また沈黙が流れてしまう。
情けないくらい話題がない。
いや、あることにはあるが、触れていいのかまるで分からない。
だが、ここでこうしていつまでも黙っているわけにはいかない。
そう考え、俺は意を決してシェルアにこう尋ねる。
「普段はどのような本を読まれるのですか?」
するとシェルアはぱぁっと表情を明るくさせ、ドレス姿とは思えない俊敏な動きで本棚に向かう。
見れば履いている靴のかかとが少しだけ高い。
内心あれでよく動けるなと感心してしまう。
そうして持ってきたのは十は超えるほどの本の山だった。
一冊一冊がかなり厚く、読み込まれているのか背表紙のあちこちに痛んだ跡がある。
「これが私のおすすめの本なの!『イデアの大冒険』っていうんだけど、主人公のイデアがフクロウと一緒に世界を旅して回る話でね!」
満面の笑みで、一番上に置かれた本をこっちに差し出す。
「これが第一巻で、ここから物語が始まったの。最初はただただ道を歩いているだけなのだけど、その情景がありありと浮かんでくるの!歩いている道の音、風のにおい、太陽からの日差し。それらがはっきりと、鮮明に映し出されているの!」
俺はそれを受け取ると、軽くページを開いて、やはりかと軽く落胆した。
そこに書かれている文字が全く見覚えのないものだったのだ。
例えるなら、カタカナと英語のアルファベットの中間くらいだろうか。
最初に浮かんだのはローマ数字だが、あれほど法則性の感じない文字がある。
文章のところどころに不自然な空白があるので、恐らくそこが段落なのだろう。
とすれば左から読むのが正解と考えるのが自然だ。
パラパラとページをめくっていると、心配そうにシェルアが声をかける。
「もしかして、好みと違いました…………?」
どうやら無理に合わせているように見えたのだろう。
俺はやんわりと首を振ると、苦笑いを浮かべながら弁明をした。
「生憎ですが、自分は文字が読めないらしくて…………」
「あ、そうでしたか。考えもしませんでした。申し訳ありません」
深々とお辞儀をしそうになるシェルアを留める。
流石に文字が読めないこちらに非があるのだから、謝られても困ってしまう。
「いえいえ!こちらこそすいません。まさか文字の読み方すら忘れてしまうとは…………」
「そうですか…………それにしても、文字が読めないのに、会話は成立できるのですね…………不思議な話です」
「この国では皆学校に行くのですか?」
地域や環境によっては、文字の読み書きができない子供が多くいる場所も存在すると聞く。
それは貧困や宗教などが原因となることが多いが、単純に文字を使う機会がない可能性もあった。
「残念ですが、地方では学校というものはあまり普及していません。ですが、大抵の子供は親から文字の読み書きを習うのです。ですので、基本的には文字を扱うことができる、とお聞きしてます」
お聞きしている、という言い方はなんだか伝聞か何かのようなとらえ方だと感じたが、よく考えたらこの人はお嬢様なのだ。
だとしたら庶民の生活の仕方を知らないのも当然である。
「なるほど、それだと文字の扱いくらいはできるようにしておきたいですね…………いくら記憶喪失とはいえ、あまり長い間お世話になるわけにもいきませんし」
「そんな、別に私は構いませんよ?一人増えたくらいでは特に支障が出ることもないですし、それに人が多いと楽しいことのほうが多いはずです」
シェルアはそういうが、やはり甘えてはいけないと思う。
この世界で生活する以上、まずは自立する必要があると思うし、当てはないがこの世界がどうなっているのか見て回りたい。
少しだけ落ち着いた今、それが自分の考えるしたいことだった。