18
「…………ん?」
頬に硬い感触を感じ、シェルアは目を覚ます。
「え?」
そこは森だった。
どこを見ても木しかなく、生き物の気配なんてどこにもありはしない、漆黒に包まれた空間。
「なんで、私、確か…………」
ついさっきまで私は自室にいた。
お茶の用意を片付け、一冊の本を手に取り、椅子に腰かけた。
だが、そこからどうやってここに来たのか、そもそもここがどこなのかまるで見当がつかない。
誰かに鋏で切られたかのように、記憶が途切れていた。
「どうしよう…………あ、そうだこういうときは確か星を…………」
愛読書であるイデアの冒険譚において、主人公イデアが山中で遭難した際、夜空に浮かぶ星を頼りに現在地を割り出したのを運よく思い出す。
そこで、見晴らしのいい木の上に上ることに決めた。
幸いなことに、木の登り方は幼い頃のリーゼに教わっている。
ここら辺の木であれば容易であるはずだ。
体を固定し、足を引っかけ、ゆっくりと木に登る。
体力の衰えのせいか、昔より上がるのに時間がかかった。
やっとの思いで登りきると、周囲を一瞥しほっと息を吐いた。
「よかった…………お屋敷が見える…………それほど離れてない…………」
少し距離があるものの、お屋敷の灯りが光っているのが見える。
となれば、ここは周囲に広がる森林の中であり、歩いて帰ることができる距離だ。
再度ゆっくりと木から降りると、記憶した方向を頼りに歩き始める。
星を頼りにしようと思ったが、これなら必要なさそうだった。
と、その時だった。
「──────っ!?」
突如、悪寒が全身を貫いた。
そう思った時には、既に頭を抱えしゃがみこんだ。
直後、巨大な何かが頭上を通り抜け、周囲の木々が音を立てて倒れていく。
「なっ…………」
振り返ると、そこにいたのは一体の生物だった。
暗がりの中にいるそれは自分より三倍は大きく、四肢は筋肉で隆起している。
姿は雌の獅子と酷使しているが、牙が口に収まっておらず、なにより目が二対も存在している。
その眼は暗闇の中でも煌々と輝き、今まさに自分のことを見ているのが分かった。
「なんで、こんなところに…………」
それは本来であれば、森の奥深くに生息している存在だ。
普段は決して人を襲わず、己のテリトリーに足を踏み入れた相手のみを襲うとされている。
本の中でしか読んだことのない存在が、よもやこんな館近くの森の、すぐ目の前に現れるはずがない。
そんな疑問も、対話の余地もなく。
それはいきなり大振りな右前足での薙ぎ払いを放つ。
狙いはもちろん、シェルアだった。
「きゃ…………」
後ずさった拍子に木の根っこに足をひっかけ、運よくギリギリでそれを躱した。
頭上を通り抜けた右前足は近くの木に当たり、メキメキと音を立てて倒れていく。
「あんなのが直撃したら、ひとたまりも…………」
物語の中でしか知らないそれを間近にして、シェルアの全身が完全に動きを止めてしまっていた。
無理もない話だ。
これまで、殆ど外に出たことのない少女に、迫る危険を対処しろというのは酷な話だった。
だからこそ、この直後に起こる出来事を、彼女は全く予知できていなかった。
「おぉぉぉぉぉぉぉりゃぁぁぁぁあああああ!」
叫び声と同時に、背後から何かが飛んでくる。
それは真っすぐそれの顔面に直撃し。
パァン!!
けたましい音と光を発生させた。
「よっしゃ顔面どストライク!シェルア!無事か?」
「サトーさん!?」
そこにいたのはあの青年だった。
青年はシェルアの手を取ると、怪物とは逆の方向に走り出した。
暗闇の中、足元はあまり見えないはずなのに、青年は器用に走り抜ける。
何度かよろけながらも、転ぶことはなく。
掴んだ手は、一度も離すことはなかった。
「てか何あの怪物!?めちゃくちゃ怖いんだけど!なんかすげーでかい気がしたし、それに牙とかてっかてかに光ってね!?」
「あの!どうしてここに?」
枝葉を手に持つ小刀で切りながら、サトーは言う。
その小刀にも見覚えはなかった。
少なくとも、前に会った時にはなかったはずだ。
「リーゼさんが異変に気付いてすぐに駆け出したの!とりあえず適当に探そうとしたら、木が倒れる音がするから慌てて駆けつけた!とりあえず無事でよかった!」
握られた掌はよほど急いでいたのか、汗でびっしょりだった。
よく見てみると、身に着けている服もまたあちこちがこすれている。
それだけで、きっとあちこちを駆け回ったのだと理解できた。
会って数日の私のことを、彼はこんなにも真剣に探してくれた。
その事実が、どうしようもなく嬉しく思えてしまった。




