28
そのころ、ヴァンは一人宿の裏手の広場にいた。
「…………ふッ!」
腹の底から息を吐き出すと、グンと全身に力を込める。
感覚が広がる。
どこまでもどこまでも、遮るものなど何もないまま、自由にそれは広がっていった。
初めて来た街でも同じことができたことに、ヴァンは安堵していた。
これができるか否かで、状況はかなり変わるだろう。
不慣れなことではないものの、それでもやるまではどうなるか分からなかったのが実際のところだった。
しばらくの間、ヴァンは同じ体勢のままそうしていると、誰もいないところに向けてこう言った。
「なんの用っすか?」
「…………いやなに?起きたらいなくてねぇ。探してたら見つけたってだけ」
暗がり、誰もいないように見えた位置から姿を現したのはシャグラだった。
日中身に着けていた鎧は全て脱いでおり、今は簡単な服を着ている。
寝間着のような身軽な姿にヴァンは小さく嘆息した。
「嘘はよくねェっすよ。見たら分かるんで」
ジッとヴァンに睨まれ、シャグラは肩を竦ませた。
「そっか。そりゃ分かるよねぇ」
「流石に侮りすぎです。オレじゃなくても分かります」
シャグラの体がほんのわずかに熱を帯びていた。
髪は少しだけ乱れ、息も注視すれば分かる程度に乱れている。
なにより、こんな深夜に剣を持って外を散歩する必要も、そこまで息が乱れるようなこともない。
シャグラの動きに冴えが見え始めたのは偶然ではない。
毎晩、もしくは早朝に、彼は一人で鍛錬を行っているだけの話だった。
昔の感覚を戻すために続けているそれを、知っているのはヴァンだけだろう。
尤も、知られたくないというシャグラの意図を汲んでいるだけかもしれないが。
「それで、君は権能の訓練?」
「そっすね。いつでもどこでも、誰が何をしているのか知っておきたくて」
勿論、女性の部屋は一度だけ把握してから外しているし、仲間の部屋は最初から対象の外側だった。
それ以外の、ほぼ全ての空間を把握する訓練。
ヴァンが行っていたのは昔から続けている習慣だった。
「言い方があれだけど、あんなにボコボコにしたのにやるんだねぇ」
その言い方は、呆れよりも驚きの方が多いように聞こえた。
ヴァンはそこで、シャグラはこちらの権能の範囲と効果をきちんと認識していることを確認し。
だからこそ、ヴァンの回答はシンプルだった。
「プレサスさんに言われたんすよ。できるかできないか、じゃなくて、やるかやらないかってなァ。実力は行動に伴うとも言われた以上、ここで辞める理由がねェんで」
「変わらないねぇ、あの人は」
シャグラは懐かしそうにヴァンの言葉を嚙み締める。
その姿はまるで若き頃を思い返すかのようだった。
「まだそんな歳じゃなくねェッすよねェ?」
「そうでもないよ?これでもあちこち痛むんだから」
そういった爽やかに笑うシャグラを見て、ヴァンはもうちょい仕事を増やそうと心に決めつつ、ある質問をする。
「そういや、プレサスって人とシャグラさんは、どういう関係なんすか?」
「騎士団時代の上司と部下だった。まぁ色々あって会ったのは久しぶりだったんだけどねぇ」
シャグラの生い立ちをヴァンは彼と会う前から知っていた。
それは爺さんが生きていたころ、何度かその名前を口にしていたからだ。
エルフィン王国の騎士団の団長補佐。
騎士団の実質的なナンバーワンにして、当時八傑と互角に戦うことができるとさえ噂されていた人物。
その強さから『鬼人』と恐れられており、爺さんですら勝てるか分からないとよく話していた。
だから、彼の上司があのプレサスだと聞いて、驚きはしたが同時に納得もした。
あれだけの武勇伝を誇るシャグラであれば、彼とも親交があってもおかしくない。
なんなら、強さの系譜を継いでいる可能性だって十分にあった。
幼い頃、こんな夢を見たことがある。
いつの日か、彼らと出会い戦うことができたらなと。
ただそれは、あの中では叶わぬ夢であり、現に具現することはないと悟っていた。
「恵まれてるなァ、オレは…………」
「ん?なにか言った?」
「いや、なんでもねェっす」
ヴァンの呟きが聞こえなかったのか、シャグラがそう聞き返す。
ヴァンは適当に返事をすると、満天の星空を見上げた。
夢はこんなにも呆気なく叶うものかと驚くこともあった。
目指す相手がいて、目標にできる人もいる。
強く、憧れる存在までいる。
こんなに至れり尽くせりな場所は探しても見つからないだろう。
そう思うほどに、ここは居心地がよく、一緒に来てよかったと心の底から思った。
(そう思えるからこそ、諦めたくねェんすよ)
感謝しているからこそ、できることは全てしたかった。
試せる努力をしないのは、与えられた環境に対して無礼が過ぎる。
故に目指すのは、最も困難で険しい道のり。
星は何にも遮られることなく、煌々とその光を湛える。
そんな光を帯びながら、顔を落とす人物がいた。
「すー…………すー…………」
「すぴー…………すぴー…………」
寝息を立てる二人を、その人物は静かに眺める。
月の光を貯えたような銀色の髪の少女は、そっとシェルアの頬を撫でる。
「…………」
その顔には慈愛が満ちていた。
まるで聖母のような、優しさが満ちた笑み。
それを親しいものが見ればさどかし驚くだろう。
なにせその顔は、普段の彼女とはかけ離れたものだからだ。
「…………よく、眠ってますね」
そう呟きながら、彼女はシェルアの頭を撫でる。
一度。
二度。
三度。
優しく、長い時間をかけそれを繰り返す。
シェルアが起きる気配は、ない。
それでいい、と彼女は思った。
シェルアは変わった。
確実に、彼が現れてから。
それを喜ぶべきか悲しむべきか、最初は分からなかった。
いつしか彼女が、自分の知らない存在になるのではないのかと。そう不安になることもあった。
だけど、変わった彼女は誰よりも素敵だった。
明るく、常に前向きで、自然と人々を惹きつけてしまう。
それは、間違いなく王としての素質だった。
それを彼女から感じる日が来るとは思ってもいなかった。
優しすぎる余り、誰かと関わるのを拒み続けた彼女が、今では必死に冒険者として歩き出そうとしている。
幼い頃の夢を、今かなえようとしている。
「……………………っ」
不意に何かが溢れそうになり、ぐっとこらえた。
ダメだ。
それはもう、流さないと決めたのだ。
それだけは、決して人にも自分にも見せてはいけないと、そう覚悟を決めたはずだ。
目を閉じ深呼吸をする。
遅かれ早かれ、この時が来るのは分かっていた。
覚悟は、とっくの昔に済んでいる。
「………………………………さようなら、お嬢様」
そうして彼女は部屋を去り。
二度と、戻ってくることはなかったのだった。




