1
──────記憶と辿らずとも、そこが地獄であることを知っていた。
どこまでも続く暗闇。
お世辞にも広いとは言えない空間に、汚い姿の人が押し込められていた。
皆一様にやせ細り、寝たまま動かなくなることもよくあった。
常に悪臭が漂い、汚物があちこちに放置され山のように積み上がる。
どうして自分がここにいるのかは知らない。
気が付いた時には、私はここにいた。
だからか、「出たい」という感情は皆無だった。
幸いなことだったのは、私の体は丈夫だったこと。
驚くほど頑丈で、数日何も口にしなくても平気だった。
私を見下ろす大人はいつも不気味がっていたけど、その訳を知ったのはずっと先だった。
身に着けている服はボロボロで、気になるものは手の甲にある不思議なマークだった。
手の甲に押された烙印は、自分の身分を示すものらしく、この国で一番身分が低いことを示していると聞いた。
だけど、ここ以外の世界を知らない私にとって、それは単なる模様でしかない。
なにより、烙印のない人と会う機会の方がずっと少なかったのもあっただろう。
時折、その部屋から出されたこともあった。
広い部屋で服を脱がされ、それ相応のことをされたこともあった。
愛好家、とかなんとか言っていたが、何を言っているのかまるで理解できていなかった。
されるがまま、その時間が終わるのを待つだけだった。
当時の私の境遇は、はっきり言って酷いものだろう。
百人聞いても百人がそうだと肯定するに違いない。
だけど、私は違った。
そこで過ごした日々に絶望も悲観も落胆も、更に言うなら何の感情もなかった。
淡々と、息をするだけの日々。
規則的に訪れる誰かが、時間の経過を示す唯一の存在。
流れる水を眺めるように、私は私に興味がなかった。
だから、そこを出たのは単なる偶然だった。
仕切られているそれはいとも容易く壊すことができた。
私の前に立つ人も、おおよそ小石くらいの存在でしかなかった。
触れれば、砕ける。
押せば、弾ける。
だから、外に出た。
目的も、目標も、行先も。
何一つないまま。
歩いて、歩いて、歩いて、歩いて。
強いて言えば誰もいないところがいいと、たどり着いたのは無人の山だった。
そこで一人で暮らしはじめ、その生活に慣れ始めた頃だった。
「ははぁん。アナタが噂の『羅刹』ね。思ってたよりずっと可愛いじゃない」
甲冑を身に着けた数人の大人が来た。
これまで何度か来た彼らは、どういうわけか私に襲い掛かってくるのだ。
怪我は嫌だったし、好き勝手に住み家を壊されるのも癪だったから、殺さない程度にボコボコにして山から返した。
そんなことが、ぴたりと止んだ頃に。
やけに勝気な女が、私の前に現れた。
「た、隊長…………!流石にこの人数では無理ですって…………!」
「なに言ってんの!アンタらいつもの元気はどこ行ったわけ?」
「そ、それとこれは話が別です!」
先頭に立つ女に、それらを囲む複数の男。
男らは皆体が大きく、これまで来た人達のなかでも上だと感じた。
そんな彼らはどういうわけか、まるで猛獣と対峙しているかのようにブルブルと震えている。
「数か月前からこの山に住み着いた謎の子供、その強さは依頼を受けたA級冒険者を再起不能にしたって噂のあの『羅刹』ですよ!いくら隊長が強いからって、あれを一人で相手するのは不可能です!」
「なに?アンタたち、私が負けると思ってるわけ?」
「い、いえ!そういうわけじゃ…………せめて加勢させてください!」
「馬鹿言わないで。こんな面白いこと、譲るわけないじゃない」
言葉の意味は分からない。
習ってもないし、使う機会もなかった。
だけど、恐らく男たちは私に怯えていて、女はまるで怖がっていないのだけは理解できた。
女は腰に下げていた剣を抜くと、その赤い髪を靡かせながら私にこう言った。
「ちょーっと乱暴に行くけど、まー殺しはしないから」
その瞬間、女の纏う空気が一気に変化した。
なんてことない、意識すらしたことのないそれが。
それが燃え盛る炎のように、グンと一気に跳ね上がる。
身の危険。
それを察知した私は全身に力を込め、音を立てて息を吐き出した。
「ひぃ…………!」
「すっごい…………!あれが噂の『羅刹』の残光!」
獣のいななきか、龍の吐息か。
吐き出された瞬間、森が一気にざわめきだした。
まるで天変地異が起こるかのような、その前触れを知らされたかのようだった。
木の後ろに隠れる男たちを放ったまま、女は更に空気の温度を上げた。
舌なめずりをすると、あまりに獰猛な笑みを浮かべたまま私に襲い掛かる。
そうして始まった戦いは、連日昼夜を問わず轟音を鳴り響かせた。
女は強かった。
こっちがどれだけ当ててもすぐに反撃してきた。
かと思ったらいきなり休憩し始め、そうしたと思ったら即座に襲い掛かってきた。
まるで獣だと、山暮らしの私が思い始めた頃。
丁度、戦い始めて六日が経過していた。
女も私も、疲弊しきっていたため動くことができなくなっていた。
女は地面に大の字で寝転がり、私は木に背中を預けていた。
「アナタ、名前は?」
名前。
丁度誰かにつけられたのがあったはずだ。
唯一知っている単語、別に感慨はないが、発するのはほんの少しだけ緊張した。
「────リゼ」
「へぇー。リゼちゃんか。あ、私の名前はスカーレット。スカーって言って」
ニシシと屈託のない笑みを浮かべる彼女は、なんだか懐かしい感覚がした。
これが出会い。
止まっていた時間が動き出した、物語の一ページのようなシーンだった。




