8 神様は、上辺だけを見て奇跡を起こす
それはまさしく恐怖だった。
「ぐはっ!!」
腹を、巨大な紙の群れに殴り飛ばされる。
あれはまさしく恐怖だ。いたぶろうとしている訳でも、殴り殺そうをしている訳でもない。
何というかそれは……やはり恐怖としか形容できない。殴殺よりもより激しく、一瞬で命を刈り取るような────そういうものは、俺にとっての恐怖だった。
「容赦はしないよ──」
巨人の主の呟く声が脳内で反芻される。
氷槍も、火球も、もうあらわれない。脅威は一つ。目の前にある巨人のみ。どうにかしないといけない。でも、どうしようもないと考えてしまう。頭ん中が怖さでいっぱいになる。
一発の拳だけで、今までの脅威とは一線を画していた。
怖い。そんなこと分かっていた。逃げたい。そんなこと思ってはいけない。視界には入らない。でも、守るべき存在が確かにいるんだ。
負けるなんてあり得ない。折れるなんて……ただの紙の拳如きに、潰されるなんてあり得ない!
拳はすぐに飛んでくる。何十、何百もの紙の群れが襲いかかってくる。あと二発以上受けたら、多分ひとたまりもないだろう。肉の形してれば万々歳──そう思ってりゃ、否が応でも切り抜けないとって思えるだろ。なら、そう思えばいい。
最小限の傷でも、意識は刈り取られるだろう。半分くらいで命も取られる。だけど、ここで死んでしまったら何の意味もない。
──それに、助けてやるって豪語したことが、嘘になってしまう。それは嫌だ、絶対にしたくない。
なら、どうしろと言うのか。そんなもの、決まっている。
「──ああ、容赦なんかしなくても別にいい」
立ち上がった。胸の打撲はまだ痛い。だけど左足の穴はもう血は出ていない。動けば血は出るだろうか?
問題ない。その程度の傷なら、切り抜けられる。
「分かった。なら本気でやらせてもらうっ!」
巨人が動いた。もさっとしてはいない、その拳は速い。大きいから遅い、大きいから速さに弱い。そんなもの、フィクションの中だけだ。大きければその分速いし、その分力もある。大は小を兼ねる。
「だけどな、一つ忘れてるんじゃねーか!」
大きいことの弱点。それは、取り回しが悪いこと。そして、攻撃が大振りだから、いつ殴られるか分かることだ!
「────『吸収』ッ!!」
触れる瞬間。俺に触れる瞬間。俺の身体に触れた、その瞬間の、刹那の次元での話だ。脳天をかち割るレベルで、頭に直接狙ってきた拳。それを完全に触れる瞬間で無力化する。一秒違えば死に至る。触れるより前でも死に至る。だからその瞬間だけが、生きていられるラインだ。
「なっ、腕が!」
腕の楽譜の結合は解かれ、その巨大質量が自分の方へと返ってくる。吸収しただけではない。俺からの衝撃はまだ残っている。
「ごめんなブロック。ここまで来て退くなんて、そんな考えもうねぇんだわ」
「ふっ、まだだ。まだ右手が残っ──」
「『吸収』」
まだ会話の途中だった。巨人の腕が振り下ろされる瞬間。
殴った。拳を、拳で相殺した。
「まあ、結局のところ。これって身体のどっかに当たってればいいんだ。頭でも、手でも。やったことは無いけど、ふくらはぎとかでもできるんじゃね?」
「……調子に乗るなよ昭城嶺! まだ足も残ってる──腕も再生する! だからもう、諦めろよ!」
だから、と。俺の言葉はまだ続く。
「諦められないってさっきから言ってんだろ! お前の方こそもうやめれば!?」
──何も知らないくせに。そんな言葉を、俺は目の前の男に言われた。
そうだよ、俺は何も知らない。リリンに複雑なものがあったりだとか、そんなことも。目の前の男が、悲しい過去を背負っていたとしても。
それは今の俺の憤慨と、まったくもって関係無い。
ただ単に、リリンを傷つけられたことに、ちょっとだけ苛立っているだけだ。
「それともご自慢の巨人を全部分解してやろうか!?」
「テメェにそれが出来んのか?」
「ああ、できるさ。巨人の結合部分を、全部分離させてやることだってできる。それが『王冠』の力だから。だけどな、そこまで楽に終われると思うなよ!」
ブロックは、少しだけ笑っていたように見えた。憐むように、無知な子供にため息を吐くように。
「そんなもんに、命かけてやるなよ。王冠とか……結局さ、神様や天使、悪魔なんて上部だけしか見てくれない」
「神? 天使? ブロック、お前何が言いたい!?」
見据える彼は笑っていなかった。今さっきのも、もしかしたら笑いではなかったのかもしれない。そんな風を、彼はまとっていた。
「だから、簡単な救いに頼るなって言ってんだよ」
それが少し、頭にきて。
「簡単な……救い? ──んなもんねーだろ馬鹿野郎。それに夢見てるようだから言うけどな、神と悪魔なんていねーんだよこの世界には! だけど……まあ、そんな奴らがいるとしたら、それこそ吸血鬼くらいか?」
「ボクも、神様とか信用できないけど……自惚れを生ませる悪魔はいるんじゃないかな?」
喧嘩を売った。勝てると思った。それに相手は取り乱していると思った。神や悪魔を引き合いに出してきた時点で、もう人並みに考えることもできないほど怒っていたと思っていた。
ため息だったか、意気込みだったか。俺にはそれはわからないけど。ブロックという男は俺を見据えて、言った。
「昭城嶺──もういいかな、終わらせても」
俺にも、返す言葉があった。それは短いけど、俺を表すのに十分な長さだったと思う。
「俺が勝つけど」
挑発さえ、彼は何も反応しなかった。巨人がまた形成されていき、俺を叩き潰すために最適な形に変化していく。
「11弦を、解放せよ」
「さあ、来い……ブロック!!!」
その拳は、俺の真正面に形作られていく。拳を引き、今にも射出されるかのようだった。
轟音はなかった。空気を押し通るような、重々しい風だけが吹いていく。もう目の前の拳しか、見えないほどに集中する。チャンスは一回、生死のジャッジも多分一度きり。
……拳を見据えた。距離は、位置は、速度は、まるでさっきと変わらない。
ギリギリ、ギリギリで……狙いを定めて能力を放つ!
「悪いな、ブロック……『吸収』っ──」
「そっくりそのまま返してやるよ、昭城嶺。一回しか見てないけど、王冠の力とかもう、見飽きた!」
ギュインと、目の前で拳が止まった。王冠による能力では無い。電波警戒にも、そんな能力はない。つまりは、そうつまりは。
「甘いね、昭城嶺。その程度の行動はバカでも予知できる。──巨腕よ、もう一度動き出せ」
彼が、吸収のタイミングをずらしたということ。
「やべッ、『吸収』────── っはぁッ!!」
理解が追いついた頃にはもう、遅かったのかもしれない。もう一度動いたその巨腕は、無慈悲にも俺の腹を抉って吹き飛ばしていた。幸いかどうかは分からないけど、衝撃をかなり吸収することはできた。
だけど……いや幸いだった。ここまで頭が動くのは、本当に幸いだったと思う。
だけど、
「巨腕よ──」
無理だった。避けれない、どのタイミングで吸収すれば良いのか、俺にはもう分からない。
惨敗。と言うべきなのだろう。これは、完全に負けだ。
──そもそも最後。俺は、俺のために戦っていた。リリンとか、別にどうでも良くなっていた。ブロックをぶっ飛ばしたい。顔を歪ませたい。そう思っていた。まったく、良いことではない。その時点で負けていた。その時点で勝敗はとうに決まっていた。
今になって思う。あの時、吸収ではなく『分離』を使っていたらどうなっていただろうか。腕はボロボロバラバラになって、拳は俺に届かなかったかもしれない。でも、そんなことさえ考えられなかった。吸収すれば良いと、たかを括っていた。
走馬灯はなかった。割とあっけなかった。
ブロックを見る。彼は本気だ。──このあときっと、リリンも殺すのだろう。
それだけはやめてほしいと思っていた。自分のことは二の次でもなんでもないけど、彼女は殺さないで欲しかった。
「いくよ」
拳が近づく。死が近づく。戦意は、剥がれ落ちていた。
だけど、彼女をどうにかしなければと、それだけは考えていた。どうにかしてあいつを、この目の前の男の刃から遠ざけたかった。
まだできていないことだって沢山ある。フードコートじゃなくて、もっと旨い飯を食わしてやりたかったし、もっと飯作りたかった。沢山の服着せ替えたかったし、あの笑顔をまた見たかった。星とか、映画とか、水族館とか。そんなところも見せてやりたかった。──あいつ一人なら絶対に行かないようなところ。あいつ一人なら絶対に見ないところ。まだ出会って二日しか経ってないけど、なんとなくでわかった。
ここで驚いているんだ。ここより人が多いところを見たら、あいつはきっとびっくりするだろう。
拳が近づく。死が近づく。それでもなお、残念な俺は。
ああ、生きていたい。そう、思った。
「やめて」
声だけが先行して聞こえた。当たり前だ、眼などとうに瞑っていたから。
羽だけが俺に映った。暗くて禍々しいはずのその羽は、今は天使にも思えてきた。
服の裾が少し焼けていた。最後に、あいつだと分かった。
「リリ、ン……」
俺の声は、届いていただろうか。その音は、きっと拳に掻き消された。そう思っていた。
拳が、巨腕が、止まった。
「おいリリンッ! お前は何故、また邪魔をする! どうしてそいつに手を伸ばした!」
ブロックの怒鳴り声。彼は怒っているのだろうか。いつもより言葉が荒れていた。
「わたしは、まだいきていたい。だから、まもってくれたひとをたすけた!」
「ふざけるなよリリン! お前に、そんなことを言う権利なんてッ! ある訳ないだろ──ッ!!」
もう一度拳が飛んだ。見ていることしかできない。身体は多分、もう動く。でも、ダメだった。どうしてかダメだった。
でもまた、彼の拳は止まってしまった。
「……ちっ」
舌打ちがあった。でもそれより近くに、リリンの後ろ姿があった。
きっと彼女は、真剣な眼差しでブロックを見ているのだろう。その背中が、どこか遠かった。守るべき人に守られた。そんな感覚。それは不思議な感覚だった。
やっと立ち上がれる。腰をあげ、後ろの壁に体重を預ける。
「あれのおかげで命拾いしたな、昭城嶺!」
彼の声が、フロアに響く。ギターと楽譜は、とうにギターケースにしまわれ、多分手でピックを遊ばせていた。
「もうボクは手を出さない」
それは、意外な言葉だった。
「嘘じゃないさ、だからこの場所の洗脳も解く。リリンには手出しはしない」
すぐに理解することは出来なかった。だけど、理解せざるをえない状況はあった。もたれかかる俺と、歩き去るブロックの間には、無数の人だかりができていた。人払いをしていた広場に、人が流れ込んできたと言うことだ。
「ブロッ、ク!」
「だからさようなら、『王冠』の少年」
「待、て!」
口ではそう言いながら、動くことはできない。
「そいつの殺処分──お前に任せるからな」
無責任な言葉が、俺の心を貫いた。痛めつけられて、グサグサと心臓に針が刺さる。俺はもう一度へたり込んでしまった。
そうやって動かないまま、どれくらい過ぎただろうか。
周りの人間は、俺とリリンに興味さえ示さない。たとえ服の裾が焼けていても、視線すら感じない。
「れい」
不安げに、俺の名前を呼ぶリリン。
「ごめん、負けちゃった!」
笑った。笑わなきゃ、どうにかなりそうだった。
一番近い感情は、恥ずかしいだろうか。それでも、この感情を完璧に形容できてはいない。色んなものが混ざって、複雑に折り重なっていた。
「……もう、帰ろうか」
やっと動けるようになった。歩けるようになった。
「うん、そうする」
一歩、家へと向かう。その時、リリンは手を出していた。
「ごめん、リリン」
軽率に、その手は掴めなかった。ダメな気がした。
「──て、にぎって?」
ああ、弱いな俺は。すごく非力だ。無力で、そして……。
「──少しだけ、甘えても良いかな」
だから簡単に、彼女の手を握った。
その手を二度と、離したくなかった。
だけど反対の左手は、爪の痕がつくほど強く握っていた。
そのことに気づいたのは、家に帰ってきた時だった。
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