一周目、二周目、八周目 9
相手はドレスを着る機会も多い公爵令嬢である。
床に届くほど長いスカートを優雅にさばくことで脚力は鍛えられているわけだ。
しかも今は動きやすいジャージ姿で、その脚力を存分に生かすことができるわけで。
「リリーナ、待って、リリーナ!」
「ごめんなさい、お願い、追いかけないで!」
俺はやっとの思いでリリーナに追いつき、その片手を捕らえた。
「待ってって!」
俺の声が大きすぎたのだろうか、リリーナがビクッと肩を震わせて凍りつく。
「あっ、ごめん、怒ったわけじゃないんだ」
彼女を引き寄せて腕の中に抱く。
「大丈夫だから、落ち着いて、はい、深呼吸して」
腕の中から、小さなつぶやきが返された。
「制服が汚れてしまいますわ……」
「鼻血か、気にするな」
「気にしますわよ……」
「いいんだよ、気にすんな」
さらに強く抱きしめれば、彼女は俺の胸に顔を押し付けて「ふぐっ」っと嗚咽をこぼした。
「私……悔しいです」
否定せず、「そうか」と短い相槌を打つ。
これがきっかけとなったのか、リリーナはわあっと大声で泣きだした。
「本当は、私ッ、アネッサや、ベネッタや、セシールのことを守ってあげたかった!」
あのご令嬢たち、名前あったんだ、という驚きはあったが、それを口にするのは野暮だ。
俺は「うん」とだけ答える。
リリーナはさらに深く俺の胸に顔をうずめる。
「ううっ、うぐっ、ひっく……でも……でも……怖くって、彼女たちを盾にして逃げた……私、卑怯者なんです!」
これ以上は、相槌すら思いつかない。
俺は泣き叫ぶリリーナを抱いて、ただ黙っていた。
鼻血と涙で胸元がじっとりと濡れているけれど、こどものように泣きじゃくるリリーナを手放すなんて、俺にはできなかった。
あんなDV男から日常的に暴力を振るわれていては、逆らう気力など封じられて当然だ。
やつらは女を自分の支配下に置くという、たったそれだけの目的のために暴力を振るう。
その痛みと恐怖を思い出して逃げ出したことをとがめる者はいない。
だからといって気軽に「君は悪くない」なんて声をかけても、傷ついて震えているリリーナの慰めになるとは思えない。
だから俺は、せめて存分に泣けるようにと、彼女の体を黙って抱きしめていた。
どのくらいそうしていただろうか……ひとしきり泣いた後で、リリーナは俺の胸から顔を離した。
「ごめんなさい、みっともないところをお見せしましたわね……」
「気にしなくていいよ、少しは気が晴れた?」
「ええ、でも、あなたの制服を汚してしまったわ」
「ちょうど洗濯屋に出そうと思っていたところだし」
「ふふ、あなたは……本当に優しいわね」
ふっっと小さく微笑んだリリーナは小さな――ようやく聞き取れるくらいの小さな声でつぶやいた。
「あなたが私の婚約者ならば良かったのに……」
「え、なに?」
俺は聞き返すが、リリーナはふわっと華やかな笑顔を浮かべてきっぱりと言い切った。
「なんでもありませんわ、お気になさらず」
リリーナが俺に向かって片手を差し出す。
「さあ、帰りましょう」
「え、この手は?」
「エスコートしてくださいませ」
「あ、はい」
彼女の手をそっと握ると、細い指先がわずかに震えていた。
「別に、怖いから手を握ってほしいっていうわけじゃないんですからね!」
言葉とは裏腹、彼女の膝は未だ震えているのだし、笑顔はわずかな愁いを帯びている。
じつにわかりやすい。
俺は出来るだけ気安く見えるように肩をすくめてみせる。
「はいはい、そういうことにしておきますよ」
「なっ、本当に、怖いわけじゃありませんのよ!」
「わかったわかった」
「もういいですわ、行きますわよ!」
ツンと鼻先をあげたリリーナは、もう震えてはいなかった。
傾き始めた夕日を浴びて俺は歩きだす。
隣を歩くリリーナの頬が赤く見えるのは夕日のせいだろうか、それとも……
だが、そんな幸せなひとときをぶち壊す無粋な声が。
「あら、あらあら! まあまあ! もしかしてラブラブ?」
もちろんチヒロだ。
彼女の神出鬼没っぷりにもだいぶ慣れたし、驚きはしないが。
「ふうん、いい雰囲気じゃん?」
ニヤッと笑って、チヒロはリリーナの顔を覗き込んだ。




