一周目、二周目、八周目 8
リリーナは心からの喜びをぽろりとこぼしてしまっただけだ。
だが、これはボンクラの神経を逆撫でする結果に終わった。
「ふざけんな!」
ガッと音がして、リリーナの顎が蹴り上げられた。
もちろん、蹴り上げたのはアインザッハだ。
リリーナが鼻血をふいた。
俺もチヒロも止める暇などない、本当に一瞬の出来事だった。
「なんで『喜んで別れます』みたいな雰囲気出してんだよ!」
リリーナが鼻を押さえながら頭を下げる。
「も、申し訳ございません」
「あーあ、本当にお前はバカでいやんなっちゃうよ、俺は一国の皇子じゃん? その俺が大喜びで婚約破棄されたとかさあ、他国に対して外聞悪いよね、わかる? あー、わかんないかー、女じゃあ、政治のことはわかんないよねー」
「申し訳ございません、配慮が足りませんでした」
「俺が婚約破棄したい、だけどお前は未練たらたらで別れたくない、泣いて縋って追いかけてくるお前を俺が捨てる、そういうふうにして欲しいわけよ」
「申し訳……」
俺はたまらずに声をあげる。
「リリーナ、そんな奴に謝る必要はない!」
俺に遅れて、三人の御令嬢も駆けつけてきた。
「女には政治はわからないですって! なんて失礼な!」
「いくらボンク……皇子殿下とはいえ、女性に手をあげるなんて、恥を知りなさい!」
「チヒロさんの世界では、そういう方をDV男と呼ぶのですってよ!」
御令嬢たちは自らを肉の盾とするべく、アインザッハの前に並び立つ。
リリーナは彼女たちの背に向かって弱々しく手を伸ばした。
「おやめになって、危ないわ」
しかし、三人とも、誰も動こうとはしない。
だが、たしかに危険だ。
相手は公爵令嬢であるリリーナの顔さえ躊躇いもなくサッカーボール感覚で蹴り上げるような男だ。
相手がリリーナよりうんと格下の家格の令嬢たちであるのだから、さらに容赦ない暴力を振るう可能性が高い。
現に今も目が据わっているし、ニタァーっと酷薄そうな笑みを浮かべている。
「お前らはリリーナの取り巻きか。悪い奴ってのはよく群れるものだ」
冷たく言い放つ声に、俺の背筋がぞくりと冷える。
「やめろ、危ないから下がれ!」
俺の声にも三人の御令嬢は動かない。
三角形に布陣を敷いてアインザッハをにらみつけている。
のっぽ令嬢が背後のリリーナに言う。
「リリーナさま、今のうちにお逃げください」
リリーナがガクガク音を立てるほど震えながら、それでも立ち上がろうと足元を踏ん張る。
「だめ……ダメですわ、あの方は女性にも平気で手をあげる方、あなたたちもケガをさせられますわよ」
「そんなにヤワではございませんのでご心配なさらないで」
「いや、ダメ……私が……」
立ち上がろうとしていたリリーナの膝が恐怖で震えて崩れる。
「お願い、立って! 立って!」
彼女は苛立ったように自分の膝を叩くけれど、震えは止まらない。
アインザッハはその様子を眺めて大喜びだ。
「哀れだな、リリーナ、仲間すら守れないとは」
「ひっ!」
「あきらめろ、悪は正義には勝てない、それが世の倣いってやつだ」
アインザッハは三人のご令嬢に向かって手を振り上げた。
その掌はぽっちゃり令嬢の右頬に振り下ろされて、パチーンと肉打つ高い音をあたりに響かせた。
「ひっ、ひいいいいいい!」
瞬間、リリーナが飛びあがり、そのまま後ろも見ずに走り出した。
「仲間を見捨てて逃げるのか、リリーナ! この卑怯者!」
背中に向かって投げかけられるアインザッハの言葉にも振り返らず――というか、振り返る余裕もないほどおびえきって、リリーナは必死に走る。
俺は、そんな彼女を追うべきか、それともここに残って戦うべきかを悩んでいた。
いくら華奢とはいえダレスは男だ、三人のご令嬢を盾に使って、この場から逃げ出すのはちょっとカッコ悪い。
「くっ、リリーナは後だ、皇子殿下、俺が相手だ!」
「おおっ、かっこいいね、いいよ、相手になってやるよ」
俺と皇子はこぶしを構えてにらみ合う。
まさに一触即発。
だが、俺たちはすっかり忘れていたのだ――ここまで会話に口も挟まず、ずっと不機嫌な顔でうつむいていたチヒロの存在を!
この場で最強を名乗るにふさわしい人物がいるとしたら、小柄で華奢なダレスでもなく、暴力的ですぐに手をあげるアインザッハ皇子でもなく、チヒロ――彼女以外にない。
チヒロは唸るような声をあげた。
「よくもまあ、女の顔をぽんぽんぽんぽん蹴ったりぶったり……マジでさいてー」
そう吐き捨てる彼女の手の中には、マシンガンが握られている。
「ちょっとイメージがまとまんなくて時間かかっちゃった」
薬師○ひろ子ばりに軽々とマシンガンを構えて笑うチヒロは……いや、ごめん、かわいらしくまとめようとしたけど無理。
チヒロのマシンガンの構え方ってラ○ボーに似てるんだもん。
ともかく、がっちりとマシンガンを抱え込んだチヒロは俺に鋭く命令した。
「あんたはリリーナたんを追って! ここは私が引き受けた!」
「え、でも……」
「フッ、安心して、殺しはしないから、ただ、少し踊ってもらうだけよ」
「そ、そうか」
「いいから、リリーナたんを追いかけなよ!」
「わ、わかった!」
俺はリリーナが走り去ったその方向へと駆け出す。
「あ、待て、逃げるのか、卑怯者!」
アインザッハの声が追いかけてくるが、俺は振り向かなかった。
「無駄口叩いてんじゃあねぇ、おら、踊れ!」
ばららっ、ばららら
チヒロの声と銃声も聞こえたような気がしたけれど、俺は振り向かない。
「リリーナ!」
鼻血を流したまま逃げ出した彼女のことだけを思って、俺は、ただ、走った。




