9
男は外套を翻し椅子に少年を座らせると、怒りを露わにして迫った。
「どういうつもりだサンデイ」
眉間に皺を寄せ、男は静かに語気を荒げた。蜂蜜色の瞳は翳りを見せ、少年──サンデイを睨みつけている。
「どういうつもりも何もないよ。ただ彼女が君のことを気にしていたみたいだから────」
「俺が言いたいのはそういう事じゃない分かってるだろ!」
サンデイの胸倉を掴み上げ、声を荒げる。その口からは二本の牙のような歯が見え隠れして、サンデイを威嚇した。
「ヴァスティ、手を離してくれないかな」
サンデイは冷静だった。ヴァスティの怒りを物ともせず、淡々とした口調で静かにそう言ったのだ。
ヴァスティは手を離すも、鋭い視線は尚目の前の少年を射抜いている。
「人間を連れてくるなんて、お前一体何がしたいんだ?」
まるでこの世で最も忌むべき存在だとでも言うように吐き捨てる。
「君にもそろそろ『変化』が必要なんじゃないかと思ってね」
「変化だと? 余計なお世話だ。俺はそんな事は望んでいないし、頼んだ覚えもない」
サンデイの言葉を鼻で笑ったヴァスティは白銀の髪をくしゃりと掻き混ぜ、憎々しげに玄関のドアを睨め付けた。
「……完全に見られた。どうしてくれる」
「どうもこうもないよ。白雪は『そういう』人間じゃない」
サンデイのさっぱりとした物言いが気に食わず舌を鳴らす。
二人の間に、少しの沈黙が流れた。
ヴァスティの頭に浮かぶのは先ほど自分の姿を見て驚いていた女の顔だった。
────人間に見られた。
ぐっと拳を握り締め、食いしばった歯の間から言葉を絞り出す。
「……あいつは誰なんだ?」
「僕たちの大切な人さ……そして君にとってもね」
「……どういう意味だ」
「別に、なんとなくそうなるかなって思っただけだよ」
ヴァスティは含みを持たせた言い方をするサンデイが昔から苦手だった。見た目と釣り合わない老成した話し方。達観した眼差し。気に食わない。
ふーっと、抑え込んだ感情をため息に混ぜ吐き出す。
「帰ってくれ」
「年長者の言うことは聞いておくものだよ」
「こう言う時だけ大人ぶるな」
楽しそうに笑うサンデイに苛つきながら、その首根っこをもう一度掴んで玄関から外に放り投げた。
* * * *
必死で頭を回転させる私の耳に、いつか聞いた家庭教師の先生の言葉が反芻していた。
『この森は隣国へと続いています。しかし、森の奥深くには凶暴な狼がいるとの噂もありますので絶対に近づいてはなりませんよ』
そして、書庫で読んだ国の歴史書。
『古くから世界各地で確認されている人の形をした狼。その姿は人間と酷似しているが、獣の耳と尻尾が生えている為区別はつきやすい。後に人間と区別するために《人狼族》と呼ばれる種族である』
────────人狼族。
多分、それが彼の正体だ。
この国の人狼族は絶滅したと、そう先生に教わっていた。人間による差別、そして一部の人間達の暴動によってその種は絶えたと。
私を見たときの彼の反応、かなり動揺していた。
それにこんな森の奥深くに住んでいるのだ、恐らく彼にも事情があり隠れて生活していたに違いない。
……よくよく考えると、森で見かけた程度の人間が突然家を訪問してきたなんて失礼にも程がある。
それに、凄く傍迷惑な事をしていることに気づいた。
図書館の本で読んだことがある。とある女性が街で一目惚れした男に、自分がご令嬢であるという身分や親のコネを利用して嫌がる男と無理やり結婚するという話だ。
……もしかして私、とんでもない失礼を……?
よく考えなくともちょっと考えれば分かることなのに、私はなんて事を。
自分のしたことに頭を抱えていると、突然ドアが開いてポーンとサンデイが投げ出された。
「いったた……相変わらず乱暴だな、全く」
「だ、大丈夫!?」
地面に倒れ込んだサンデイは上体を起こしながら服についた草を払う。
一体中で何があったのかとサンデイに駆け寄り一緒になって草を払っていると、乱暴に閉められたドアの奥から「二度と来るな」と低い声が呼びかけた。
「ごめんね、白雪。今日のところは帰ろうか。彼恥ずかしがり屋だから君と話すのが怖いんだって」
サンデイが言い終わるより先に、抗議するように家の中からドンと何かをぶつける音が聞こえる。
彼を怒らせてしまったことくらい、馬鹿な私にも分かる。
……私のせいでサンデイまで彼との関係に亀裂が入ってしまったのだろうか。
そう考えると、サァと顔から血の気が引いていくのを感じた。
「ご、ごめんなさい! 私が彼に無理を言ったの! だから彼は何も悪くないわ。私ももう……ここには来ないと誓う。突然押し掛けたりして、本当にごめんなさい」
立ち上がって、ドアの向こうにいるであろう彼に頭を下げる。
多分彼は、私が彼の姿を見てしまったことを一番怒っているのだろう。外套を深く被っていた事や私の姿を見て走り去っていったのも、きっと姿を見られない為だ。
それなのに私は彼の事情も考えず図々しくも家に押しかけるなんて、無神経にも程がある。
「信じて、貰えないかもしれないけれど……私、誰にも言いません。言う相手もいませんけど、誓って言いませんから」
中からの返事は無かった。
「行こうか、白雪」
「……えぇ」
帰りの道中、サンデイは私が何か話すのを待っているようだった。考えが纏まらず、赤い屋根が見えてきた頃漸く私は口を開いた。
「……彼は、人狼族……なのよね?」
長い間考えていたのに、出てきた言葉といえばそんなものだった。それでもサンデイは真摯に答えてくれる。
「そうだね……彼が最後の生き残りなんだ」
そして、ポツリポツリと、サンデイは語った。
昔は人間とも仲の良かった人狼族だった。人間と人狼の種族を超えた結婚もよくあることで、この国でもよく見られていたそうだ。
しかし中には彼らの人間を超越した力を利用しようとしたり、人間とは違うという理由で差別をする人間がいて、徐々に彼らの間に溝ができ始めた。
そして遂には「殺し」が起きた。人間によって、一人の人狼が嬲り殺されたんだ。その頃にはもう人間と共存する人狼もおらず、溝は深くなっていた。人狼達はすぐに人間に報復しようとした。
人間よりも力が強く俊敏なことや、よく効く鼻や耳を持っていた彼らが負けるはずは無かった。
しかし、何せ数が少なかった。
戦いは人間の勝利、人狼達はこの森に追いやられた。
その後も人間による人狼達への迫害は止まず、そのまま種族を減らし続けた。
私は記憶にある歴史と照らし合わせながらサンデイの話を聞いていたが、そこには私の記憶と大きく違う部分があった。
「私が読んだ本には、『人狼が人間を殺して、それが戦いや、人間による差別のきっかけとなった』って……」
国の歴史書には確かにそう書いてあった。その文章の隣には恐ろしい顔をした人狼が人間を襲っている挿し絵があり、いつもそのページをめくる時は恐る恐る開けていたのを覚えている。
サンデイは哀しげな目を伏せて、首を横に振った。
「人間は都合の良いように記憶を書き換えるからね。そういう本があっても頷けるよ。だからこそ、人間達の迫害は止まなかったんだ」
なんと言えばいいのか分からず、私は口を閉じた。
いつのまにか家に着き、その日はぼんやりとした頭のまま一日が過ぎていった。
脳裏に浮かぶのは、やっぱりあの白銀だった。