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「エメラルドの湖?」
夕食中彼らが話していた明日の仕事の話の中に、気になる単語が聞こえ思わず口を挟んでいた。
ここに来て約一週間、彼らが仕事の話をしている時には邪魔にならないようになるべく黙っていたけれど、彼らの口から出てきた「エメラルドの湖」という単語に反応せずにはいられなかった。
「うん。あそこの近くにはとても珍しい薬草が生えているんだけど、そろそろそれが生えてくる時期なんだ!」
エメラルドの湖と聞いて思い浮かぶのは、この森に入ったあの日見た美しい湖だ。
森に迷った私が偶々見つけられたあの場所。出来ることならもう一度行ってみたいと思うのは、あの場所を訪れたことがある人なら誰もが思う事だろう。
「それ、私も行っていい? 勿論お仕事の邪魔はしないと誓うわ」
私の言葉に七人は顔を合わせて安心したように微笑んだ。
予想外の反応に首を傾げていると、サタデイが慌てて口を開く。
「あ、その……白雪、初めて自分から『こうしたい』って言ってくれたなって……」
「え、」
戸惑う私に、サースデイが言葉を続ける。
「お前が何にも我儘言わないから、こっちは心配してやってたんだよ!」
「こんなの……我儘の内にも入らない……」
寝惚け眼のフライデイももごもごと後に続いた。
みんながそんな風に思ってくれていたなんて思ってもいなかった。私はただお世話になっている彼らに恩返しをしたい一心だったし、わがままを言わないようにしているつもりもなかった。
「明日エメラルドの湖に行くのはマンデイだから、彼について行くといい。折角だし楽しんで来なよ。薬草を採りさえすればマンデイも自由にしてていいし」
「わーい! 白雪とお出掛けだぁ!」
「お出掛けじゃなくて仕事もしっかりしろよ」
両手を上げて楽しそうにするマンデイを呆れた顔で見つめるチューズデイはふんと鼻を鳴らして席を立った。
「それじゃあ明日はよろしくね! マンデイ」
「うん! えっへへ、楽しみだなー」
見た目相応の少年らしい純粋なマンデイの笑顔に、私の頰もだらしなく緩む。
「さて、夕食も食べ終わった事だしそろそろ寝ようか」
「だな」
サンデイの言葉を合図に、食器を片付け寝支度を済ませるとそれぞれ自分のベッドに潜り込む。
私も同じようにベッドに入るが、頭を占めるのはエメラルドの湖のこと。
あの日見た光景は、忘れようにも忘れられなかった。日の光を受けて緑色に輝く湖。それを取り囲む花々。ほとりで遊ぶ青い鳥。
あの時のシマリスは元気だろうか。くりっとした大きな目でこちらを見つめるリスの可愛さと言ったらなかった。あげられる餌がなくてごめんねって謝ったけど、頬袋から木の実を取り出したリスの得意げな表情。
思い出してふふっと笑みがこぼれた。
それで、膝に乗ったリスを眺めてたら後ろから物音がして……────
そうだ。あの時確か、誰かが私を木の陰から見ていて、道を尋ねようと声を掛けたら逃げてしまったんだ。追いかけたけれど追い付かなくて、諦めた所にこの家を見つけたんだ。
……結局あの人影は誰だったのだろう。七人からは誰か他の人間の名前を聞いたことがない。森に住んでいるなら多少なりとも彼らから話は出てきそうだし、それなら街の誰かが偶々森に来ていただけ?
だとしてもどうして逃げてしまったのかしら……。
いや、と首を振る。
考えて答えの出る問題じゃない。明日湖に行った時にでもマンデイに聞いてみよう。
目を瞑り、湖の風景を思い浮かべる。そうしてゆっくりと襲ってくる睡魔に身を任せ、私は眠りについた。
翌朝、お弁当を持った私とマンデイは他の六人と別れ、エメラルドの湖を目指し森の中を進んでいた。
マンデイと二人で行動するのは初めてだったが、道中はとても楽しかった。あの七人の中で一番やんちゃで「おとぼけ」と呼ばれている彼は始終笑顔でいつも楽しそうに笑っている。まるでピクニックにでも来ているような気分で二人で歌を歌いながら湖までの道を歩く。
こうして二人になってみると、まだまだお互い知らないことが多いのだと気付かされた。マンデイの好きな食べ物や好きな色、雨の日は嫌い、朝早く起きるのは得意。他愛もない話だったが、それがとても楽しかった。
「あ! 白雪、薬草この道から少し外れた所にあるんだ。湖はほら、見えるでしょ? 俺、薬草採ってくるから先に行っててー!」
「分かっ……って、もういない」
びゅーんと弾丸のように駆けて行ったマンデイに笑いながら、既に前方に見えている湖に向かった。
木々の間を抜けあの美しい湖に感嘆の声が漏れそうになった時、視界に入った黒い何かに私は目を凝らした。
小さなエメラルドグリーンの湖を挟んで向かい側。黒い外套を頭から被った人物が、木の枝に乗っているシマリスに手を差し出していた。その顔は外套にすっぽり隠され見ることは叶わないが、外套から伸びた手は女性にしてはごつごつとしていたから男の人だろう。私は無意識のうちに気配を消して、その場でじっとその人を観察していた。
シマリスは慣れたように男の人の手に乗り、じっと顔を見つめている。その人はもう片方の手で何かをシマリスに渡し、受け取ったリスはそれをぱくりと小さな口に入れた。
そして、チチッと小さく鳴いたリスの頭を撫でたその人が少しだけ首を傾げその横顔が見えた瞬間、まるで彼に縫い付けられたかのように目が離せなかった。
────白銀の美しい髪を風に揺らめかせ、リスを見つめる優しく細められた蜂蜜色の瞳。鼻筋は通り、薄い唇は緩やかなカーブを描き微笑みを携えている。
彼の前では、私の心に強く残ったあのエメラルドの湖さえも霞んで見えた。
「しらゆきぃー! お待たせー!」
まるで金縛りから解けたように、背後から走ってきたマンデイを振り返る。マンデイはパンパンになった布袋を腕からぶら下げながらこちらに手を振っている。ぶんぶんと手を振るたびにユラユラと袋が揺れた。
「いやぁ、思ったよりも採れたよ!」
「そ、そう……良かった」
ご機嫌な様子のマンデイに言葉を返しながらもう一度あの男の人の方を振り返るも、男の人は忽然と姿を消していた。まるで最初から誰もいなかったように、リスだけを木の上に残して。
「白雪? どうかした?」
私の様子がおかしいのを感じたマンデイは心配そうに私を顔を覗き込む。
なんでもないわ、と微笑みかけプラチナブロンドの指通りの良い髪を撫でると、不思議そうな顔をしながらもどこか気持ち良さそうな表情をするマンデイ。
……せっかくのマンデイとの休日、楽しまなければ損だ。
気になるけど、今はあの人の事は頭の隅に追いやって二人の休日を楽しもう。
「さて、お昼ご飯まで暫くあるけど何をしましょうか?」
「うーんと、じゃあまずは────」
「それで? 今日は二人は何をしてたの?」
ウェンズデイがそう口を開いたのは夕食の席だった。サラダやポトフ、焼き魚が並ぶテーブルの上を行ったり来たりして食事に夢中だった六人の視線が、一斉に私とマンデイに向いた。
「んー、殆どリスとか鹿と一緒に遊んでたけど、強いて言うなら鬼ごっこかな!」
すぐ終わったけどねー、と笑うマンデイ。
六人は不憫そうな目を私に向けた。
マンデイとの鬼ごっこは、彼の言う通り一分と経たずして終わった。そもそも二人しかいない時点であまりゲーム性はないのだが、マンデイはそれこそ鬼のように、いや、チーターのように足が速かったのだ。私が逃げる側なら十秒もしないうちに捕まり、鬼役なら捕まえることは勿論彼の半径五メートルにすら入れないのだ。
そんな感じで、私は元々体力が無いため直ぐに疲れ果て、マンデイは私が弱すぎて面白くないさろう。そう思って早々に鬼ごっこは中止になったのだ。
六人の反応を見ると、彼らもマンデイとの鬼ごっこは経験済みなのだろう。
鬼ごっこをやめた後は、湖を訪れる動物達と戯れて過ごした。驚いたことに動物達はとても友好的だった。マンデイはこの森に住んでいるし彼に懐いていても不思議じゃないが、余所者の私にも臆することなく近づいて来てくれたのには本当に驚いた。
マンデイは、
「白雪が優しい人だって分かるんだよ!」
と言ってくれたけれど、私は彼が信頼されている証なのではないかと思っていた。
マンデイに擦り寄る鹿や鳥達は、信頼できる彼と一緒にいたからこそ私が側にいる事を許してくれたような気がする。
「森の動物達、とても可愛らしい子達ばかりで本当に楽しかったわ」
「楽しかったなら良かったよ」
サンデイはまるで子供を見守る、いや、孫を見守るような慈愛に満ちた瞳で私を見つめた。
サンデイは七人の中で一番大人で、物知りで、リーダー的存在にある。
彼なら、知っているかもしれない。
私の目に焼き付いて離れない、あの白銀を。
「一つ質問があるんだけど、いい?」
「……? 何?」
「今日、湖で男の人を見かけたの。黒い外套を頭から被った。私、前にもその人を見かけたのだけれど……」
七人はなんとも言えない表情で顔を見合わせた。その表情を見るに、七人は彼の事を知っているらしい。いつかと同じようにお互いに頷き合った彼らは、いつにも増して真剣な眼差しをしていた。
そして、サンデイの瞳は真っ直ぐに私を射抜く。
「気になる? 彼のこと」
常とは違う様子に戸惑いながらも、一度だけコクリと頷いた。
「気になるなら会いに行くといい……白雪ならきっと大丈夫」
その言葉の意味知る術を、私は持ち合わせていなかった。