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馬車に揺られる事数十分、馬は動きを止め目的地に到着した事を告げた。
道中、ロデリックは私が話しかけても上の空で、何を言っても曖昧な返事を返すばかりだった。本当にどうしたんだろうか。
「お手を」
「ありがとう」
先に降車したロデリックの手を借り地面に足をつけ、目の前に広がる光景を見に焼き付ける。
延々と続く青空に向かって伸びる背の高い木々。深緑の葉は風で揺らめかせながら私たちを出迎えた。
小さい頃にこの国の事を勉強した時、家庭教師の先生に「この森は隣国へと続いています。しかし、森の奥深くには凶暴な狼がいるとの噂もありますので絶対に近づいてはなりませんよ」ときつく言いつけられていたのを思い出し、途端に不安に駆られた。
「ロデリック。昔この森には狼がいると聞いた事があるのだけれど……その、大丈夫、よね?」
後ろに控えていたロデリックを振り返ると、強張った顔を少しだけ和らげ私を安心させるように微笑んでくれる。
「大丈夫ですよ。昔はよくそんなことが言われていましたが、今はもうそんな噂も聞きません」
「そう、よね……もしいたとしても、ロデリックがいれば安心だし!」
「……えぇ、行きましょうか」
ロデリックは一緒に来た騎士達に馬車を離れないように言いつけると、先導するように私の前を歩いていく。
道無き道を進んでいくこと暫く、随分と森の深いところまで歩いてきた。最初は地面まで届いていた木漏れ日も無くなり、薄暗く不気味な雰囲気が辺りを包んでいる。
「ね、ねぇロデリック、どこまで行くの?」
「もう少しの辛抱です、」
ロデリックは森に入ってから私がついてきているか確認するように何度か振り返ったが、それ以外は私をなるべく見ないようにしているように感じる。
「……」
もしかしたら、私が知らない内にロデリックの気に触るような事をしてしまったのだろうか。彼は明らかに私を避けているし、目を合わせることは愚か視界に入れようともしないなんて、余程のことを仕出かしてしまったのかもしれない。
そう思うと、自然と顔から血の気が引いていくのを感じた。
ロデリックは唯一、私が心の内を明かせる人間だった。侍女達はお母様に言いつけられているのか私が話しかけようとも何の反応も示さない。友人と呼べるような人もいない。そんな中、ロデリックだけは私を以前と変わらず妹のように可愛がってくれたのだ。
そんな彼に嫌われてしまえば、私はどうやって生きていけばいいのだろう?
目の前を歩く背中に手を伸ばしかけたその時、ロデリックは不意に振り返って口を開いた。
「着きました」
気がつくと、そこは幾らか開けた草原だった。見上げればぽっかりと穴が開いたようにまあるく青空が広がっている。
草原の至る所には白く小さな花が咲いていて、とても美しい場所に思えた。
「素敵な場所ね……ここに来るのは初めてなの? ロデリ────ロデリック?」
周りを見渡していた私が彼に視線を移すと、ロデリックは傅くように座り込み、私に向かって頭首をもたげていた。
「どうしたのロデリック? 何か────」
「っ申し訳ありません!」
ロデリックは声を張り上げた。その震えた声は深く懺悔しているような、後悔の色を濃く孕んでいる。騎士団を指揮する彼の威勢の良い声は幼い頃からよく聞いていた。強く、芯のある低い声だ。
今はその芯をも震わせ、深く頭を下げる彼がとても弱々しく感じた。
「本当にどうしたの? 私は謝られるような事は何もされていないわ」
「いいえ、これから、私は貴女に酷い事を……っ!」
跪き、できる限り優しく彼の肩に触れる。逞しく鍛えられた体は震え、俯いた顔からはぽたぽたと、涙が溢れていた。
今まで彼が泣いている姿など一度も見たことがなかった。これほど苦しんでいる姿など、ただの一度も。
私は困惑を隠せないまま彼の背中を摩った。
「よく、意味がわからないわ。ねぇロデリック、貴方さっきから変よ? 一体何があったの? 私が何かしたのなら正直に言って」
ロデリックは俯いたまま何度も首を振った。その拳は強く握り込まれている。
「いいえ……いいえ! 私は貴女にこのように優しくされる価値すら無いのです!」
私はますます意味が分からなかった。何が彼をそこまで追い詰めているのか、彼は何を謝っているのか。
ロデリックは突然顔を上げると、とめどなく流れる涙に構うことなく私の両肩を強く掴んだ。
甲冑を着ている彼の金属製の指が食い込み痛みを感じるが、必死の形相の彼の真剣な眼差しから目を逸らす事は出来なかった。
「────お逃げください」
「っ、」
私に口を挟む暇を与えず、彼はこう告げた。
「お妃様は、私に貴女を殺すように命じたのです」
森のさざめきが、ロデリックの甲冑の金属音が、自身の息遣いすらも、私の耳には入ってこなかった。
目の前が真っ暗になって、全身の力が抜ける。
……お母様が、私を殺せと?
どうして。なんで。
頭が真っ白になって、それからロデリックの言葉がまるで呪詛のように夥しく頭の中を覆い尽くしていく。
そしてぽとりと、零れ落ちたのは単純な疑問だった。
何がいけなかったのだろう。
私の、何が駄目だったのだろう。
出来る限り、お母様の言う通りに良い子にしていた筈だった。例えお母様が私を疎ましく思っていても、私にとってはたった一人のお母様で、お父様が亡くなってからはたった一人の家族だ。
────そのお母様に、私は捨てられたのだ。
目の前が真っ暗になった時、ロデリックは私の肩を掴む手に更に力を籠めた。
「私に、そのようなことは出来ない、出来るはずがない! 今まで貴女を、烏滸がましくも妹のように思っていた貴女をっ……殺すなどと……!」
絞り出すように紡がれる言葉だけが私の耳に届く。
涙を流しながら、唯々私を想ってくれている彼。忘れちゃいけない家族が、目の前にいた。
小さな頃からずっと私の面倒を見てくれた兄が。
そうだ。私には私のことを大切に思ってくれる家族がちゃんといたのだ。
ロデリックの顔が滲んだかと思えば、瞬きと共に頬を冷たい何かが伝った。
「もし私が今回の件を断ったとしても、お妃様は必ず貴女を狙います。もう城内ですら、姫の安全は保証されないでしょう……っこのような事になるなど、私はリリア様の墓前に合わせる顔が御座いません……!」
私の生みの親である人の名前を口にする時のロデリックは、いつもどこか遠いところを見つめていた。尊敬している。その事がありありと伝わってくるのだ。
それが今は悔悟の念以外のものがない。
「……姫。ここを真っ直ぐに進めば、隣国に繋がる道に出ます。私が隣国までお送りしたいのですが、あまり遅いと部下に怪しまれてしまう……ですから、」
「────分かった」
震える声でなんとか返事を返した私に、彼は驚いて目を見張った。掴まれていた肩から、手が離れていく。
ふーっと深くため息を吐いて、目を閉じる。
────覚悟を、決めなければ。
自分でも、こんな状況で冷静さを保っていることに驚いている。
でも、彼は私を逃がそうとしてくれている。もし私を逃したことがバレれば、彼は良くて国外追放、最悪死刑だ。そんな危険を冒してまで私を守ろうとしてくれているのに、私がこんな所でうじうじしている場合じゃない。ロデリックの瞳を見てると、そう思えた。
「ロデリック。今まで本当にありがとう。私きっと、貴方がいなかったらとっくに駄目になってたと思うの。私……私本当に貴方のことを家族のように、兄のように思ってた。最後まで私を守ってくれて、本当に感謝してる」
「……っ姫、」
涙に濡れた彼の頰に、小刻みに震える手で触れる。
精一杯笑って。それが彼に出来る唯一の恩返しだ。
「ありがとう、ロデリック。私を愛してくれて。妹のように思ってくれて……感謝してもしきれない程の恩があるわ。貴方の笑った顔が好きだった。貴方の優しい手が好きだった。貴方が騎士団を指揮する真剣な顔が好きだった。芯のある、通る声が好きだった。数えだしたらキリがないけれど……────大好きよ、ロデリック」
くしゃり、ロデリックの顔が歪む。
日の光に彼の涙が反射してキラキラと光った。
私たちはお互いの姿を焼き付けるように、じっと見つめ合った。眉の形、鼻、目、唇、髪の毛。細部に至るまで全てを忘れないように。
そして、ロデリックは覚悟を決めたように涙を止め、真剣な眼差しで私を射抜いた。
「姫、貴女は私の光です。私の中で、欠けてはならない存在。ですからどうか、どうか生きて」
ロデリックは籠手を外すと、私の両手を握りしめた。直に感じる無骨な彼の手の感触。いつも優しく頭を撫でてくれた、大好きな手だ。
「姫、少ないですがこれを」
ロデリックは腰に下げていた小さな赤い革袋を私に差し出した。
何だろうかと思いながらそれを受け取り中を覗くと、金貨が沢山詰まっていた。
「こんなに、そんな、貰えないわ!」
慌てて返そうとする私の手を押し返すと、ロデリックは微かに笑った。
「いいえ、これはリリア様に『もしもの時は使え』と言われていたものですので遠慮なさらず。それに受け取ってもらわなければこれは一生日の目を見ることはないでしょう」
そう言われれば、断るものも断れない。私はそれを腰紐に結ぶとロデリックに向き直る。
「……また、会えるよね?」
「────必ず」
優しく微笑んだロデリックは力強く頷いた。
それだけで、十分だった。例えそれが果たされない約束だとしても、今はそれでいい。それがいい。
先に立ち上がったロデリックに手を借り立ち上がると、私は彼に背を向けて森の奥を見据えた。
ここから先、全く何が起こるか分からない。不安で押し潰されそうになる心に知らないふりを決め込み、私はゆっくりと一歩を踏み出した。
* * * *
次第に小さくなり薄暗い森の中を進んでいく姫の背中を見つめながら、自身の無力さを呪った。
まだ十六の姫をこの広大な森で一人にするなんて……隣国へ逃すような事になるなど、騎士失格だ。
代々王家に仕えるファンブルトン家の長男に生まれた俺は歴代最年少騎士となった。既に国王の近衛騎士として務めていた父はとても厳格な人で、俺が騎士に就任しても笑顔ひとつ見せないどころか「もっと精進しろ」と難しい顔で言うような人だ。今思えば、あれが父なりの精一杯の激励の言葉だったのだろう。
成人すると同時に王家に就いた俺は、リリア様と国王陛下に随分と可愛がられた。母親が幼い頃に死んだ俺には母親という存在が分からなかったけれど、「これが母親というものなのだろう」とリリア様を見てそう思った。
姫が生まれた時はそれはそれは嬉しかった。世の中にこんなに愛らしく神秘的で、心奪われるものがあるのだと初めて知った。そして同時に思った。
────この子を守らねば、と。
か弱く壊れやすい、「白雪」と名付けられたこの小さな命を、俺が守らなければ。胸の中に宿ったこの温かな感情の名を、俺はまだ知らなかった。
そして、それから一年と経たずリリア様は亡くなられた。元々お体の弱い方だったのもあり、流行病に侵されたと思えばそこからは早かった。
「白雪を頼みました、ロデリック」
そう言って旅立たれたリリア様の儚げな、けれどしっかりとした母親の表情を俺は一生忘れないだろう。
国王は二度目の妃を迎えられた。お美しい方だ。しかしその御心は、決して美しいとは言えないものだった。姫の世話は乳母に任せきりで会おうともせず、国民の金を浪費しては侍女達に我儘を押し付ける始末。城に仕える誰もが、何故国王は彼女と御結婚されたのだろうかと不思議に思っていた。
そんなお妃様とは反対に、姫は周りの期待通り、それ以上にすくすくと健やかにお育ちになられた。元々可愛らしかった顔も、成長するにつれどんどんとお美しくなられた。少しお転婆な所も愛嬌があり、心優しく誰にでも平等に接する姿勢は正にリリア様の生き写しのようだった。
俺の名前を呼んでは、「字を書けるようになった」「中庭の花が咲いた」「一緒にお菓子を食べよう」と花が咲いたように笑う姫にまた胸がじんわりと温かくなる。
その時にやっと気付いた。これが「愛しい」という感情なのだと。親愛や家族に向ける愛情なのだと。その感情を自覚することでより一層姫に対する庇護欲が自分の中で大きくなるのを感じた。
姫の背中が、見えなくなる。
握り込んだ拳を開き、髪をぐしゃりと掴む。
────この手で守ると決めたのに。
昨年の姫の十六の誕生日から突然表立って姫を虐めるようになった妃には何度も進言したし、姫と妃を出来るだけ会わせないように手を回した。そうして、どんな事をされても気丈に振る舞う姫に己の無力さを知った。周りの騎士達や侍女達は妃を恐れているため姫の味方はゼロに等しい。俺が妃に反抗すれば、それこそ姫を守る者が居なくなる。
止むことのない姫への非道な行いに、どれほど姫を蔑ろにすれば気が済むのだろうかと思っていたところだった。
あの名ばかりの妃が俺を呼びつけ、「白雪を殺せ」と口にした時は息の根が止まったかと思った。いくら非道な妃であろうと何もそこまでしないだろうと、勝手にそう思い込んでいたのだ。そうまでして姫を消し去りたい理由も分からないし、どんな理由だろうと姫を殺していい理由などあるはずもない。
しかし、もし俺が断ったとしても妃は誰か別の人間に姫を消し去るよう頼むに違いない。
ならば。ならば俺が引き受け、どうにか秘密裏に姫を逃すしか方法はない。城内に信頼できる人間はいない。俺がやるしかなかった。
妃は姫を殺した証拠に肺と肝臓を持ち帰るように言った。あの妃にはその内臓が人間のものかどうか区別がつくとも思えない。そう思った俺は、森まで行って姫を逃し、森にいる適当な獣を仕留めその内臓を持ち帰ることにしたのだ。
帰り道に遭遇した大きな猪を剣で一刺しし、その内臓を布袋に入れると肩に引っさげ馬車に戻る。
上手く騙せるか、騙せたとしても姫が無事に隣国まで辿り着けたのか分からない。
それでもやれる事をやらなければ。
待たせていた部下達は俺が下げた布袋を見た途端、悔しそうに顔を歪ませた。姫を逃した事を誰にも言うつもりはない。こいつらがもし姫のことを心から大切に思っていたとしてもどこから漏れるか分からない以上無闇に口にする必要はない。
木々の間から頭を出した遠く見える城を睨みつける。
俺に出来る最大限を。