14
──深く、暗い海の中にいる。
なにも聞こえなくて、息も出来なくて、暗くて。身体は重く、どんどんと深い海の底に沈んでいく。
光さえ届かない、暗い海。水面はもう随分と遠くなった。
もう目を開けているのさえ億劫になってきた。
海底に沈んでいくことに抵抗することなく、私は目を瞑ろうとした。
「──…………!」
誰かが、私に呼びかけているのが聞こえる。海の中じゃ聞こえないわ。
「────!」
何を言っているの?
そう思った刹那。
まるで釣り上げられたように、物凄い勢いで水面に引き寄せられる。もう水面はすぐそこまで──────
「っかは、」
突如肺に入ってきた大量の酸素に、寝転がっていたらしい私は身体をくの字に曲げて咳き込んだ。足りなかった酸素を吸おうと不規則な呼吸になり、それが時間が立つにつれて段々と規則的になっていく。
「っは、ぁ、はぁ、」
漸く落ち着いてきた時、ふと傍らに誰かの気配を感じて、無意識に蘇る恐怖感に咄嗟に身を引いて振り返る。
そこにいたのは、困惑した様子の人狼族の彼だった。彼の手は所在なさげに私に伸ばされていて、私はなんとか状況を理解しようとした。
意識を失う前、確か腰紐を売りに来たお婆さんがいて、それで「紐を結び直してあげる」と言われてそれから……。
「お、おい……大丈夫か」
「あ……」
彼が助けてくれたのだろう。彼の側に切れた腰紐が落ちている。
私はお礼を言おうと口を開いた。しかし、肝心の言葉が何も出てこないのだ。頭が混乱しているのか、まだ頭もぼうっとする。
「……」
彼は複雑そうな顔をして私を見つめた。その視線から逃れるように、私は俯いて震える手を握りしめた。
「あれ、白雪にヴァスティ?」
「そんなところにすっ転がって何してんだ」
その声に二人して振り返ると、ウェンズデイとサースデイが釣り道具を持った状態で怪訝そうな顔をしてこちらを見つめていた。
「あ、の……えっと」
自分の口から辿々しく発せられた声は思ったりも掠れていて、咳払いする。
そしてもう一度声を出そうとするが、やはりなんと言えばいいのか分からず言葉に詰まった。
「誰かに殺されそうになっていた」
「え?」
「は、」
白雪を代弁するように口を開いた人狼の彼の言葉に、ウェンズデイとサースデイはぽかんと口を開けた。
「相手は誰か知らないが、俺が来た時にはこの腰紐で締め上げられて息が出来ず意識を失っていた」
落ちていた腰紐を掲げて見せる彼を二人は暫く見つめ、正気に戻ったと思うと血相を変えて私に駆け寄った。
「大丈夫かよ!?」
「兎に角中に入って、ベッドで安静にしてなきゃ駄目だ!」
二人はその小さな身体で私を助け起こすと、玄関のドアを開けて中に入れてくれた。
「ヴァスティ、君も中に」
「いや、俺は……」
「事情を聞きてぇんだよ」
「……分かった」
彼を巻き込んでしまったことに申し訳なさを感じながらも、私は少しフラつく身体を二人に支えてもらいながらベッドに向かった。
ベッドに横になると、ウェンズデイが布団を被せてくれる。
「白雪、今は何も考えず眠るといい。大丈夫。僕たちが家にいるから誰も君を傷つけないよ」
そう言って、ウェンズデイは私の額にキスを落とすと私の手を優しく握る。
まるで魔法のように、混乱していた頭から少しずつ熱が引いていくような気がした。それと同時に、私は襲い来る疲労感と睡魔に耐えられず、今度は心安らかに意識を手放したのだった。
* * * *
「それで、一体何があった?」
ウェンズデイが寝室から戻って来たのを確認して、サースデイはヴァスティに尋ねた。怒りん坊の彼の顔は、意外にも凪いでいた。しかし、ヴァスティやウェンズデイは知っていた。彼は今一番の怒りを抱えていることを。
「さっき言った通りだ。俺が来た時にはもう締め上げられて意識を失ってた。相手は紫色のマントを被った老婆。会話の内容は途中からしか聞いていないが、腰紐を結び直すと言って殺そうとしていた」
俺が分かるのはそれだけだ、とヴァスティは口を噤んだ。
二人はそれを聞いて、それぞれに何かを考え込んでいる。
「詳しくは白雪に聞いてみないと分からないね……」
「だからこうなる前にあいつに事情を聞いとくべきだったんだよ!」
サースデイは誰に腹を立てているのか自分でも分からなかった。白雪か、白雪を殺そうとした何者か、自分か。
白雪が起きる、とウェンズデイは小声でサースデイを窘めた。そういうウェンズデイも顔を顰めて、拳を強く握りしめ必死で感情を抑えている。
「今はゆっくり寝かせてあげよう……皆が帰ってきたら、白雪に話を聞く。それでいい?」
「……あぁ」
ウェンズデイとサースデイは互いに頷き合い、ヴァスティに向き直った。
「ヴァスティ、ありがとう。君がいなかったら、きっと白雪は……」
「別に礼を言う必要はない。もう用は済んだだろう。俺は帰る」
ヴァスティは外套を被り直すとさっさと玄関を開けて出て行った。
二人が慌てて彼の背を追い玄関を出た時には、ヴァスティの姿はもうどこにもなかった。
「この礼はいつか必ず」
耳の良い彼には聞こえているだろう。サースデイはそう信じて、小さく呟いたのだった。
* * * *
ヴァスティは来た道を戻っていた。聞こえてきたサースデイの呟きに、らしくないなと思う。
誰かに感謝されるような生き方をこれまでしてこなかった自分にも、普段怒ってばかりの彼にも。
赤い屋根から少し離れると、走るスピードを落としゆっくりと歩き始める。
思い出すのは、蒼白い顔でぐったりと横たわっていた「白雪」という人間の姿だった。
紙のように白い顔をしていたあの人間が死ぬと考えた時に、咄嗟に「助けなければ」と思った。
自分と何の関係もない人間の命なんて、どうでもいいと思っていた筈なのに。
ヴァスティは自嘲気味に笑った。
「俺も存外、期待を捨てきれていないらしい」
────あの「白雪」という人間を見ると、どうしても思い出してしまう人がいる。
『人間を、どうか嫌わないで』
あの人の言葉は子供の俺にとって酷く残酷なものだった事を、あの人自身分かっていたのだろうか。
ヴァスティは再び走り出し、余計な事を考えないようにした。
しかしその足もすぐさま止めることになる。
草むらに何かが落ちているのを視界の端で捉え、急ブレーキを掛けて立ち止まった。
「……」
それが何かを認識した瞬間、ヴァスティは頭を抱えた。
それはヴァスティがあの家に赴いた目的、バスケットだった。あんな事があったからすっかり頭から抜け落ちていたが、本来これを返しに行くために家を出たのだった。
ヴァスティはバスケットを拾い上げた。
「白雪」と老婆の会話が聞こえて、まずいと思いこれを投げ出して走り出してしまったのだ。
どこも壊れていないか確認して汚れを払うと、ちらりと七人の家の方向を振り向いた。
「……出直すか」
返しに行くだけだが、あちらは今それどころじゃないだろう。それにまたあの家に戻るのも面倒だ。
ヴァスティはバスケットを手に、今度こそ自分の家に帰って行った。