13
ここに来て初めての曇り空かもしれない。
ウェンズデイとサースデイがお休みの今日、五人を仕事へ送り出して見上げた空は分厚い雲が覆っていた。
今日は洗濯物を干そうと思っていたけれど、仕方ない。明日に回そう。
そうと決まれば、家の中でできることを探そう。確かマンデイの服が数着穴が空いてたり糸がほつれていたりしたから、お裁縫をするのもいいかもしれない。お城の中で一日を過ごさなければいけなかった時暇潰しにしていた刺繍が役に立つ時が来たようだ。
この前掃除をしていた際箪笥の奥に新品の裁縫道具があるのを見つけ、七人に尋ねるも誰にも覚えが無かった。サンデイが言うには、誰かが裁縫をしようと買ってきたはいいが一、二回使って出来なかったから諦めたのだろうという事だった。
マンデイのベッドの上に脱ぎ散らかされた服を拾い上げると、裾がほつれているわボタンは取れかけているわでぼろぼろだった。それでも使っているということはよっぽどこの服を気に入っているのだろうか。
椅子に座りテーブルの上に裁縫道具を広げ早速縫い物を始めようとしていると、外で薪割りをしていたウェンズデイとサースデイが窓からひょっこり顔を出した。
「白雪! 僕昼に魚が食べたくなっちゃってさ、今からサースデイと一緒に川へ行こうと思うんだけど、いいかな?」
「おい、俺は行くなんて一言も言ってないぞ!」
「いいじゃん行こうよ!」
窓枠の外にいるサースデイが抗議の声を上げている。この二人は特に仲が良いらしく、よく一緒にいるのを見かける。
「行ってきて大丈夫よ。私も今日はお裁縫をしようと思ってたから、特に用事はないし……でも、今日は曇ってるけど大丈夫?」
「そこの魚は曇ってる方が釣れやすいんだ」
「あら、そうなの」
それじゃあ行ってきまーす、というウェンズデイの元気な声が窓から聞こえ、その後を追うようにサースデイの怒ったような声が続く。次第に二人の楽しそうな声は遠ざかっていき、遂には静けさが辺りを包み込んだ。
「静かね……」
静けさも好きだったが、七人と暮らすようになって毎日が騒がしいせいか少しだけ寂しくも感じる。
私は手元の針に視線を落として裁縫を始めたが、ふとサンデイに「一人の時は戸締りをするように」と言われていたことを思い出してテーブルの上に服を置いて窓を閉めに行く。
そして今度こそと椅子に座り、暫し縫い物に没頭する。
どれくらい経った頃だろうか、コンコンと誰かがドアをノックしたのだ。
手元に集中していた意識が引き戻される。
誰だろうか。
少なくとも、七人ではない事は確かだ。七人は必ず私の名前を呼んで、何かしらの声を掛けるだろう。じゃあ誰が、と考えると同時にある人物が私の脳裏に浮かんだ。
……人狼の、白銀の彼だろうか。
だとしたら、どうしよう。今この家には私しかいない。彼は私と顔を合わせたくないだろう。このまま居留守をするか、それとも、何か。
コンコン、もう一度ノック音が響く。
いや、そもそも彼かどうかも確認していないのに、早計過ぎたかもしれない。窓から少しだけ覗いて、相手を確認しよう。
そう思って私はゆっくりと窓に近づき、そっと玄関の方を見ようと顔を出した時だった。
ぎょろりとした目が、向こう側から此方を覗いていたのだ。
「きゃあっ」
思わず悲鳴を上げて後ろに仰け反る。
窓の外から此方を覗いていたのは、腰の曲がった老婆だった。紫色のマントのようなもので全身を覆い、杖をついていないのが不思議なくらいに腰が曲がっている。
こんな森の奥深くに、一体どうしたのだろう。
兎にも角にも、家の中に居ることがバレてしまった以上応対しないわけにもいかず、私は窓を開けてお婆さんに話しかけた。
「……何か御用ですか?」
お婆さんは私の問い掛けににっこり笑うと、マントの下から布が被せてある小さな籠を出して私に見せた。
「良い品を売りにきたのさ。お一つ買わないかい?」
そうは言われても、布が被せてあるのでは何を売っているのかも分からない。
「何を売りにきたの?」
「紐だよ。上質な絹でできた色とりどりのね」
お婆さんが布を取り去ると、そこにはいかにも高級そうな色彩豊かな紐が山ほど盛られていた。
「とっても素敵ね……でも、ごめんなさい。あまり高級なものは買えないの」
私は首を横に振った。七人が頑張って貯めたお金を、私が無駄遣いするわけにはいかない。
お婆さんはそう言われると分かっていたかのように、焦る様子を見せない。
「そう言わずに! ……お嬢さんの腰紐、随分とボロボロだねぇ。それにお嬢さん、とっても綺麗だから、銅貨三枚に負けてあげるよ」
「え、銅貨三枚って、これが……!?」
破格の値段に、思わず大声を上げる。どう見ても銀貨五枚はしそうな程に上質なものだ。それを銅貨三枚だなんて。
それくらいなら、と妥協しそうになった所を、なんとか踏み止まる。
「……やっぱりいらないわ。この腰紐も、まだ使えない事もないし。ごめんなさいね」
頭には今し方縫っていたマンデイのボロボロになった服が思い浮かんでいた。
彼らがあんなに物を大事にしているのに、それを私だけが贅沢するなんて、銅貨三枚でもしたくはなかった。
お婆さんの沈んだ様子に少しだけ罪悪感を抱きながらも、私は断ったことに後悔はしていなかった。
「そうかい……それは残念だよ。あぁ、お嬢さん。腰紐が解けそうになっているよ。せめてそれだけでも私に結び直させておくれ」
「え、そうですか? ……じゃあ、お願いします」
私にはそうは見えないが、罪悪感も手伝って申し出を受けることにした。
私がドアを開けて外に出ると、お婆さんは早速解いたボロボロの腰紐を持って私の腰に腕を回した。
────次の瞬間、ぐっとお腹が締め付けられ、味わった事のない痛みが私を襲った。
見下ろすと、腰紐が私のお腹を締め上げていたのだ。
「っは、」
息が出来ない。
お婆さんはギリギリと力の限り紐を引っ張っていた。
マントに隠れてその顔は見ることが出来ない。
視界に火花のようなものが散る。
苦しい、痛い、苦しい。息が詰まって、段々と視界がぼやけてきた。
お婆さんの手は、力を緩める事なく一層強くなり私の息の根を止めようとしている。
苦しみに悶え、声も上げられない。
意識が遠のいて行く。
意識手放す直前、誰かの声が聞こえた気がした。
* * * *
ヴァスティはテーブルの上に置いているバスケットを前に悩んでいた。
先日サタデイに渡されたこのバスケット。中身はクッキーとマフィンで、それはとても美味しかった。そう、食べたまでは良かったのだ。
「……」
問題は、このバスケットを返さないといけないということだ。
いや、今までであれば別に返すだけの事をここまで悩む必要もなかった。人狼族は脚も速く、その気になれば七人の住む家まではすぐに着く。
しかし、状況は変わった。あの家には人間がいる。どういう経緯で人間があの七人と一緒にいるのかは知らないが、家を訪ねれば十中八九いるだろう。
散々思い悩んだ末、ヴァスティはある事に気付いた。
何も自分から届ける必要はない。
ヴァスティは普段、森で狩った獣を売って生活していた。同じ獣類としては少し罪悪感もあるが、生活していくためには仕方のない事だといつも感謝の気持ちを忘れない事で気持ちを保っていた。
しかし、それを自ら街に売りにいく事は人狼の自分では出来ない。だからいつも七人の少年達に仲介を頼んでいたのだ。
二週間に一度、彼らはヴァスティの獲物を引き取りに来る。バスケットはその時に渡せばいい。
一人でそう納得して、バスケットをテーブルの端に置いた。
それから約三日間。ヴァスティはテーブルの側を通るたびに視界に入るバスケットの存在を毎回気にすることとなり、遂には苛立ちを覚え始めた。
視界に入る度に、バスケットに入っていた手紙、サンデイやサタデイの言葉、そして二日前にも湖で見かけた「白雪」と呼ばれていた女がぐるぐると頭の中を煩わしいほどに飛び回る。
ヴァスティは思い立ってバスケットを引っ掴むと家を出た。
こうしてずっと悩むのは主義じゃないし、バスケット一つに振り回されている自分がなんだか情けなくなったのだ。
びゅんびゅんと走るスピードを上げる。人狼族の敏捷さで右に出るものはこの森にはいない。
あっという間に赤い屋根の家の近くまで来て、スピードを緩める。
ヴァスティの耳に、誰かの話し声が聴こえてきた。まだ少し家と距離はあるが、恐らくそこからだろう。
ヴァスティは聞こえてくる声に耳を傾けた。
『……それは残念だよ。あぁ、お嬢さん。腰紐が解けそうになっているよ。せめてそれだけでも私に結び直させておくれ』
ひどく嗄れた声だ。この前の「白雪」とは違う、年老いた声。あの七人は老婆とまで一緒に暮らしているのか?
『え、そうですか? ……じゃあ、お願いします』
こちらは聞き覚えがある。「白雪」だ。
この二人の他に気配を感じない。七人の誰も家にはいないらしい。
……出直すか。いや、どうせここまで来たしな……と、たたらを踏んでいた時だった。
『っは、』
ふと、妙な音が聞こえた。「白雪」が息を呑んだような音。
次いで苦しそうな呻き声が聞こえ、思わず目を見開いた。
何かが起きている。ヴァスティは走り出した。
聞こえるのは苦しそうな声だけだ。
赤い屋根が見えたと思えば、視界に入ったのは白雪の体が力なく崩れ落ちるところだった。
その傍らには紫色のマントを被った人物がこちらに背を向けた状態で白雪を見下ろしている。
「っおい!!」
俺の声に驚いたのか、マントの人物は到底老婆とは思えない速さで走り去っていった。
追いかけるかほんの一瞬迷ったが、今は「白雪」の安否の方が先決だ。いくら憎い人間だからといって、目の前で死なれるなんて寝覚めが悪い。
ヴァスティは地面に横たわる白雪に駆け寄ると、その青い白くなった顔に唇を噛んだ。