前日譚(※短編版『騎士団長と嫁』)
自宅に備え付けられた魔法陣から突如現れたのはこの家の主、ヴィンセント・スタンフォードその人であったが、家の管理を任されていたシルヴィアは驚いた。
今夜彼率いる第四騎士団は魔獣討伐に行っており、帰ってこない予定だった上に血みどろだったからである。
「団長殿?! 大丈夫ですか?」
いつも冷静なシルヴィアもこれには慌てて駆け寄った。
ヴィンスはハァハァと荒く息を吐きながら、血で染まった騎士服の上着を乱暴に脱ぎ捨てる。バサリ、と重めの音を立てて上着は床に落ちた。中のシャツは思いの外綺麗だ。どうやら返り血らしい。
シルヴィアが近付くとヴィンスはすかさず身体を翻し、シルヴィアを抱きしめた。
「さぁ、私に掴まって……」
彼が自分では上手く動けずもたれかかってきたのだと思ったシルヴィアはそう口にしたが、次の瞬間ヴィンスに思いも寄らぬ行動を取られ言葉を失った。
というか、言葉を発せなくなった。
唇を塞がれたのだ。
噛み付くような激しい口付けの末、ヴィンスは自らのシャツのボタンを引きちぎりながら脱ぎ捨てると、とんでもないことを口にした。
「責任はとる、抱かせてくれシルヴィア」
──翌日の朝、シルヴィアがヴィンスのベッドで目を覚ますと、美しく四角になった鋼のような肉体が視線の先にあった。
視線の先、というのはベッドの斜め下……床と額の距離は0cm。
それはもう見事としか形容できない程の美しい土下座だった。
「要はモンスター討伐に行って攻撃をくらい魔物の毒……媚薬にやられた、と」
だからと言って何故家に戻ってきた、娼館に行けよ……シルヴィアはそう思ったが、彼女も28。処女だったのと、初めてなのに半分無理矢理(割とさっさと諦めた)だったためクッソ痛かったが、別にとっといた訳でもない。
昨夜は安全日だ。結婚をする予定もない。
今更感は物凄くあるが、正直なところヴィンスなら構わなかった。
ただ……まぁ貰って困るものでなし、慰謝料位は貰ってやってもいい。
「顔を上げてください団長殿、私は別に怒っておりません」
「……ヴィンス、と呼んでくれシルヴィア」
未だかつて聞いたことのない甘い声でヴィンスはそう言った。
そういえばコイツいい声だったなぁ……と今更のように思い出す。あまりにも喋らないのでシルヴィアもあんまり意識したことがなかったが。
「え、なんですいきなり」
驚きのあまり間の抜けた台詞を返してしまった。
「順番が逆になってしまったが……結婚してくれ」
「そういや責任とか言ってましたね。勘弁してください。 別に処女も、とっといた訳ではありませんし」
処女という言葉に反応してヴィンスは顔を赤らめ、恥じらいから顔を逸らす。お前は乙女か、とシルヴィアは突っ込みたかったが我慢した。
恥じらいながらも嬉しそうにヴィンスは言った。
「シルヴィアの、初めてを……貰えたのは光栄だった」
今そんな話はしてないからな?
どこまでも恥じらってるけど、28なのに処女とかいう告白で恥ずかしいのはこっちの方だが。何故お前が照れる。
シルヴィアは言いたいことを悉く飲み込み、話を進めようと試みる。飲み込みすぎて若干語彙を失った。
「とにかく、いいです」
その言葉にヴィンスは何故か瞳を輝かせた。
「いい、ということは了承してくれたんだな!」
「今の流れでどうしてそうなります? 人の話はちゃんと聞」
「すぐに指輪を持ってくる!」
ようやくの突っ込みも虚しく、ヴィンスは話をちゃんと聞いていなかった。
彼もいっぱいいっぱいで、悪気は無いのだ。だからこそたちが悪いとも言う。
ヴィンスは全裸のまま部屋を出ると、リビングに脱ぎ散らかした上着のポケットから小箱を取り出した。片膝を付き、整った顔をきりりとシルヴィアの方に向け、蓋を開けて指輪を捧げる。
シルヴィアは一瞬その真剣な瞳に心臓を大きく跳ねさせたが、すぐに彼の全身を見て冷静になった。
格好はつけていても、服は着けていない。
ただの一枚も。
「さぁシルヴィア、はめてくれるな?」
「いやはめませんて」
ヴィンスは首を傾げて『どうして?』という顔をしたが、『どうして?』はむしろシルヴィアの台詞だ。
言葉は通じるけれども、話が通じない。
ヴィンスは指輪とシルヴィアをまじまじと見比べ、何かに気付いたかのように青い顔をしてハッと息を呑んだ。
「……まさかデザ」
「いや、デザインが気に食わなかったとかじゃありませんよ?」
シルヴィアはヴィンスの言葉を予想し被せた上で、『取り敢えず服を着ないか』という提案をした。なんせ二人共、真っ裸なので。
シルヴィアの身体は事後にも関わらず綺麗になっていた。考えたくはないがヴィンスが清めてくれたのだろう。
なんとなく感慨深い……
ようやく大人になれた気がしたシルヴィアだが『相手がヴィンスだったからこんな形で破瓜を迎えてもこう思えるのだ』とわかってはいる。
──しかし、それと結婚とは話が別である。
シルヴィア・ラスは騎士舎に勤めている28歳の女性だ。
20歳の時に親元を離れ、田舎から辺境の地ソルドラの中心都市エルネへ出て、騎士舎への職を決めた。その1年後、当時まだ分隊長だったヴィンスに頼まれて、騎士舎に勤める以外に彼の家の管理もしている。
ヴィンセント・スタンフォードはシルヴィアの2つ上……現在30歳。
彼は無口で実直な男だ。そして堅物で有名。
遠征や夜勤がある上、仕事が忙しいのでほとんど騎士舎の方へ戻るヴィンスの為に、家を掃除しておくのがシルヴィアのここでの仕事だ。
シルヴィアにとってこの仕事はとても有難かった。なんせヴィンスの家には鍵付きの自室も用意されており、ほぼほぼ快適な一人暮らしなのだ。
稀にヴィンスが帰ってくるときだけ、いつもの家事に加えて食事と風呂の準備をすればいい。
だが、まだエルネに出てきたばかりでとにかくお金が欲しかったシルヴィアとはいえ、住み込みの管理など、彼の頼みでなければそう易易とは了承しなかっただろう。
雇用関係、とは言ってもやはり年頃の男と女……始めの頃はシルヴィアも多少身構えた部分はあった。
しかしヴィンスはシルヴィアに全く手を出すことはなく、気付いた頃には7年が過ぎていた。
7年もの間で揺るぎない信頼関係を構築し、二人は上手くやっていた……筈だった。
その長い均衡が昨夜、崩されたのだ。
普段ヴィンスは喋らない代わりに、穏やかな顔でシルヴィアの話を聞いてくれる。食事の時などがそうだ。シルヴィアもそうお喋りな方ではないが、ヴィンスに求められて他愛ない話をするのは嫌いではなかった。
雇用関係にあるヴィンスと自分が一緒に食事を摂るのはおかしいと思い、初日はヴィンスの分しか食事を作らなかった。
するとヴィンスは耳障りの良いバリトンボイスで
「一人で摂る食事は味気ない、是非一緒に食べてくれないだろうか」
……などとのたまっていたことを、シルヴィアは服を着ながら思い出していた。
そもそも何故彼は娼館に行かずここに来たのか。
そして何で上着のポケットに指輪が入っており、あまつさえそれがシルヴィアのサイズなのか。
考えられる理由はただひとつ。
シルヴィアはモテる訳ではないが、そこまで鈍感なわけではない。
確かにヴィンスは自分に対して土産を買ってきたり、好意とも取れる行動に及ぶことは度々あったが……それでも7年もの間一つ屋根の下で、一緒に泊まることすらあったのに何もなかったのだ。
シルヴィアがむしろ「勘違いしないように」と考えるのも仕方がないことだ。
有り体に言うと、ヴィンスはクソヘタレだっただけなのだが。
ヴィンスは美丈夫という程ではないが、高身長で涼しい目元、そして鋼のような逞しい肉体……好みの別れる感じのそこそこのイケメンだ。
無骨で朴訥、おまけに無口なので戦術向きではないが、努力家で武術には定評のある彼は、モンスター討伐隊とも呼ばれる第四騎士団団長としてトントン拍子に出世も果たしている。
つまりヴィンセント・スタンフォードは、一般的に言うところの高スペック男子……優良物件なわけだ。
はっきり言ってシルヴィアは腰が引けた。
田舎者の自分では釣り合いが取れない。
食住がタダで給料も出るというこの割のいい副業のおかげで、齢28の女性としては通常有り得ない程の相当な貯金がシルヴィアにはある。
現在不満なく生活を送れているシルヴィアに『今から騎士団長の妻として相応しくなるべく努力をしろ』というのはとても酷なことだ。
(せめて言うんなら、もっと若い頃に言ってくれればよかったのに……!)
本音はソレ。
まったくもって迷惑な話だ。
しかし愛されているのはよくわかった。
残念ながら初めての行為が巨大ワームの毒のせいであったことも、その証明とも言える。
何もなければ、このまま何もなかったかもしれない。
服を着終わってリビングへ戻ると、期待と不安の入り混じった瞳をこちらに向け、ヴィンスが椅子から立ち上がる。
「シルヴィ……ッ!!」
彼女の名を呼ぼうとしたヴィンスの声は、ガンっという音と共に途切れた。立ち上がり駆け寄ろうとした拍子に、自分の弁慶の泣き所をテーブルの足におもっくそぶつけたのだ。
おもわずヴィンスはしゃがみこんだ。
(締まらない人……)
先程のプロポーズも然り。
でもまぁ……そんなところも嫌いではない。
断っても結局状況は変わってしまうのだ。おまけにオイシイ食と住まいをなくすことになるのはイタイ。
小さく溜息を吐いてシルヴィアはこう言った。
「……仕方ありませんね、謹んでお受けいたします。 ヴィンセント・スタンフォード様」
──これがシルヴィア・ラスがヴィンセント・スタンフォード第四騎士団団長の嫁になることを決意するまでの経緯である。
この時点では彼女はまだ知らない。
指輪は5年以上前に買われたものだったということを。
……どんだけヘタレだよ。