38話 バタフライ・エフェクト その1
ティアに手を取られて引っ張られるエステルは、わけもわからずに王城の通路を疾走している。
「エステル女王!」
「捕まえるでおじゃる! エステル姫が攫われてしまったでおじゃるー!」
背後から、デラニーとエピゾンドが追って来る。
その脇の通路が次々に開いて、エステル付きの召使たちが慌てた様子で駆けだした。
「エステル女王!」
「行かないで!」
「エステル様! エステル様!」
「ずっと一緒にいましょう!」
「ここで幸せになりましょう!」
エステルは走りながら振り返り、自分を求めて背後から追って来る従者たちを見た。
「てぃ、ティア! どうなっている!? 何が――」
「いいから走って! 外に出ないと! 世界が出来上がってしまう前に!」
エステルはふと、通路の窓の外を見た。
そこから広がる光景を見て、彼女は悲鳴を上げる。
「な、なんだ! あれは! ここは、ここは一体なんなのだ!?」
窓の外には、真っ白い世界が広がっている。
どこまでも続く、地平線の見えない白い世界の中に、無数の歯車が今まさに立ち上がり、回転し、噛み合いながら相互に影響し合い、また分かれて、別の歯車と接続しようとしている。
無数の歯車の山が形を成し、背の高い建物となろうとしている。人の形を成そうとしている物もある。
それは、歪で機械仕掛けな創世の光景だった。
◆◆◆◆◆◆
「な、何なんですか、これ……」
処刑台の柱にもたれかかっているビビアが、そう呟いた。
広場の中央。
そこには、エステルが先ほどまで立っていた場所を中心として、円形をしたエネルギーの竜巻が巻き起こっている。
水晶のような輝きを放ちながら、力を込めて回したばかりの独楽のようにその表面部を高速回転させている円形の竜巻は、少しずつ、徐々に拡大しているように見える。
目を見張るのは、その輝きの中で蠢く、黄金の歯車の蠕動。
円形のエネルギーの竜巻の内部は、無数の歯車によって埋め尽くされている。それらは竜巻の中で回転し、互いに位置を入れ替えて、噛み合い、相互に崩壊し、また生成され、沸騰する水泡のように目まぐるしく変質しながら、そのエネルギーの原動力であるかのように蠢き続けている。
あの中にいるはずのエステルは、どうなっているのだろうか……。
バヂンッ、と電撃が走った。
円形の竜巻から鋭い電流が複数伸びて、それは白い触手のように揺らめきながら周囲の地面に根を張る。
不安定な自らを安定させるように。
まるで、そこから何かが生まれようとしているように。
その姿は、想像もつかないほど高出力で、かつ人知を超えた種類の胎盤を思わせる。
「な、なんなの……一体……」
ポワゾンがそう呟いた。
どんな状況でも怖れを知らぬと見える彼女ですら、流石にその光景には面を喰らっているようだ。
そこで、ビビアはあることに気付いた。
「ポワゾンさん……肩の傷はどうしたんですか?」
「えっ?」
見てみると、ポワゾンが肩に受けたはずの矢傷が綺麗に消えている。
傷が無いどころか、その衣服に穴すら空いていない。
まるで、何も無かったかのように。
その現象は、周囲の人間たちにも広がっていた。
正面衝突によって傷を負った騎士団と近衛兵たちは、自分が受けたはずの受傷が綺麗に治っていることに気付く。治っているというよりも、それは最初から、何事も無かったかのような感じがあった。
「団長……」
広場でさらに大きくなる円形のエネルギーの奔流を眺めながら、ピアポイントがジョヴァンに呟く。
ジョヴァンは、彼女の言いたいことがわかっていた。
見るたびに、あの化物によって破壊されたはずの広場の地面が直っている。
視線を移す度に、砕けて穴が開いていたはずの広場の敷石は、まるで何も無かったかのように元の状態に戻っていく。
奇妙な光景だった。
夢を見ているような、性質の悪い騙し絵を見ているような気分。
「これは……」
◆◆◆◆◆◆
「始まったな」
窓の外を眺めるヒースが、そう呟いた。
デニスも今ばかりは、目の前の強敵から視線を外し、通路の窓枠から覗く広場の光景に釘付けとなっている。
「……何が起こってるんだ?」
「こっちにも“影響”が来てるぞ。見てみろよ」
ヒースにそう言われて、デニスは自分たちの変化に気付く。
血まみれだったはずのヒースが、まるで戦い始める前のように綺麗な身なりをしている。
「過去を起点とした現実の改変……いや、過去改変と言うべきか」
そう言って、ヒースは自分の足元に視線を落としてみた。
砕け散って血だまりを作っていたはずの床が、綺麗さっぱり、何事も無かったように大理石の輝きを取り戻している。
「王剣のスキルの正体。後世に『この世の全てのスキルを支配し、無効化する』と伝えられた、初代王の無敵のスキル。過去に遡って、不都合な出来事の全てを改竄し修正する、究極のスキルだ」
ヒースはそこまで呟くと、デニスの方を見る。
「どんどん無かったことになっているぞ。一体どこまで修正されるのかな」
デニスは自分の鼻を触った。
互いに折り合ったはずの鼻骨が治っている。
「あの、丸い竜巻みたいなのは?」
「さあな。僕だって何でも知ってるわけじゃないから、あくまで推測にすぎん。改変があまりにも大規模なので、元々の世界を変えるよりも、それらしい世界を新しく作っちまった方が早いのかもしれん。おそらくは、その辺が拮抗して混乱している最中なんだ」
「新しい世界?」
「何でもかんでも聞き返さないでくれよ。お兄ちゃんにだって、よくわからないことはあるんだぜ」
ヒースはすっかり身体が元に戻っていることを確認すると、腕を組んだ。
「お前の『未来予知』は、あの『過去改変』スキルに引っ張られる形で発現したわけだな。磁石のN極とS極が引きあうように。同系統ながらも対極に位置するスキルが引き出されたわけだ」
「これから、何が起こる?」
「あのお姫様は、この世界の全てを『守ろう』としている。すでに死んだ者たちさえもな。その死の事実の全てを修正し、過去を改竄して」
「できるのか?」
「できる。今の彼女は、この世に現れた小さな神のようなものだ。しかし……」
ヒースが続けた。
「それだけの過去を修正して改竄し尽くして、耐えられないのはこの世界の方だ。見境なく中抜きして、上に積み上げすぎたジェンガは必ず崩れる。欲しいピースだけを抜いて、別の場所に新しいジェンガを建てるつもりかもしれん。そんなことをしたら、こっち側は崩壊しちまうだろうがね。僕たちは生き残れるかな。『世界の終わり』になってしまうかな」
ヒースはデニスに向き直ると、いつもの軽薄な笑みを取り戻す。
「さて、僕たちも決着を着けようじゃないか。世界が終わってしまう前に。それがいいだろう?」
◆◆◆◆◆◆
ティアはエステルの手を握り、王城内を駆けている。
背後から追って来るのは、エステルの名を叫び立て、彼女を求めながら走る大勢の召使いたち。
「エステル様! 行かないで!」
「ずっとここに居ましょう!」
「ここで幸せになりましょう!」
いくつもの扉を抜け、いくつもの廊下を駆け抜けていく。
まだ生成途中だった空間には、いささか歪んでいる部分もあった。
真っすぐ走っているはずなのに、段々と身体が傾いていく騙し絵のような通路。赤いカーペット以外には何も存在せず、左右にどこまでも続く真っ白い空間だけが広がる通路。
王城の正面扉から『王の間』へと続く赤いカーペット。白と金で細やかに装飾された壁。
その道を、逆走していく。
左右に伸びる階段で囲まれた広間が現れ、ついに王城の正面扉が見えた。
それを見て、ティアは叫ぶ。
「エステル! 行って! 今ならまだ間に合う!」
そこで、繋いでいた手が振りほどかれた。
ティアが振り返ると、息を切らせたエステルが立ち止まっている。
王城の正面扉前の広場。
左右から囲うように伸びる階段と、壁に施された無数の装飾。
その中で、二人が対峙する。
「ど、どうしてじゃ……ティア……」
「エステル……?」
肩で息をする二人は、立ち止まって見つめ合う。
エステルは半泣きのまま、ギクシャクとした笑みを浮かべた。
「こ、ここに居ればいいではないか。ここであれば、みんな、みんな、幸せに暮らせるのだ」
エステルはティアに歩み寄りながら、彼女に泣き笑いで訴える。
「余が、余がみんなを守ってやるから。誰も傷つけさせないぞ。誰も追放されん。誰も殺されない……誰も不幸にならん! 一緒に、余と一緒に、幸せな世界を作ろうではないかぁ……」
「エステル……」
戸惑った様子のティアは、彼女に尋ねる。
「それでいいの?」
「なにが……」
エステルはぐしゃぐしゃに泣きながら、それでも笑って、ティアに問いかける。
「なにが、悪いのじゃあ……っ! 幸せになりたいと思って、みんなを幸せにしたいと思って、みんなを守りたいと思って! なにがいけないのであるかぁ……っ!」
「…………」
エステルの背後に、大勢の召使いたちが追いつく。
彼女らはエステルの味方をするようにその周囲を囲むと、声高に叫びたてる。
「そうだ! エステル女王陛下の言う通り!」
「女王陛下は誰よりもお優しい!」
「貴方も、エステル陛下の言う通りになさい!」
「さあ、私たちと一緒に幸せに暮らしましょう!」
ティアは厳しい表情を浮かべて、エステルのことを見つめた。
新しく生まれようとしている世界の中で、二人は対峙する。
泣き虫の小さな神と、死んだはずの少女は、
世界の過去と未来を巡って、対立しようとしていた。