26話 追放メイドは壊せない (後編)
紺色の暗闇に少しだけ白を混ぜたような夜空をバックに、複数の影が跳ね回っていた。
そこからは、高い声色の悲鳴が響き渡っている。
「こいつめっちゃ強いんですけどー!」
「強くなーい!? やばくなーい!?」
「……うごほっ……げほっ……」
「バチェル氏しっかりしてー!」
ダメージで行動不能になっているバチェルを背負ったツインテールとポニーテールが、月夜の中で屋根の上を駆け回りながら、これを追跡するキャンディから逃げている。
「喧嘩売ってきて逃げるの無しぃ―。残念それ無しですからぁー。三人とも大人しく死体になってねぇー?」
「あの茶髪性悪女めっちゃ怖いんですけど―! めっちゃ殺意なんですけどー! 人を見かけで判断しちゃ駄目だねー!」
「勢いで喧嘩売るのやめまーす! もう絶対しませーん!」
バチェルを背負いながら敗走するツインテールとポニーテールが、魔法を駆使して屋根から屋根へと駆け回っていると、地上から飛んできた脚の長い幻獣に襲われる。
「ひぃーっ! もうここまで来てるー!」
「やばいやばいー! あそこ! あそこに逃げようツインテール!」
ポニーテールが叫ぶと、バチェルを背負った三人は屋根から飛んで、高い時計塔の横っ腹の窓へと突っ込んだ。
三人が窓から時計塔の中へと転がって侵入すると、そこは最上部の時計室へと続く階段の途中だった。
「っしゃおらあ!」
「っしゃおら! ってやばいあいつまだ追ってきてるー! 上! 上行こう! 下もう幻獣でやばい!」
「これ追い詰められてなーい!? 上に逃げ場なくなくなーい!?」
窓の外から追ってくるキャンディを見て、三人は時計塔の階段を駆け上がる。
三人が息を切らしながらとにかく階段を駆けると、最上部の時計室に行き当たった。
時計室に到着すると、その部屋の隅で抱き合って身体を縮こまらせながら震えていたグリーンと、その舎弟が同時に悲鳴を上げた。
「ぎゃああーーー!」
「ここにも来たーーーーー!」
「キャアアーーーーー!」
「ってグリーンと舎弟じゃん!? ここで何やってんの!?」
階段を駆け上がってきたのが幻獣ではなくツインテールとポニーテールの二人であることに気付くと、グリーンはごほんと喉を鳴らして、その場から立ち上がった。
「フフフ……いや、これはだな。俺たちは怖くてここに隠れていたわけではなく、戦略的な……」
「あーもうわかったから! 今ここにめっちゃ強い奴が殺しに来てるんだけど! あんたら戦える!?」
「なにそれ!? おれ戦えないよぉー! いやだよぉー! 健康フィットネスの知識しかねえよぉー!」
「グリーンの兄貴! しっかりしてください!」
「ンドゥルフフフ……私なら戦えるネ……」
部屋の陰からのっそりと立ち上がったのは、巨漢のポルボだ。
「変態ポルボ! あんた戦えるの!?」
「ンドゥルフフ、変態は余計だけど、まあ昔、王都でちょっとネ……」
ポルボが自分のまだ若かった頃、まだ腹にぜい肉の一つも付いていないうえに腹筋が六つに割れて見事な上腕二頭筋を誇っていたころ、一人の奴隷の少女を巡って王前拳闘大会に出た頃の話をしようとして、ツインテールに遮られる。
「よーしここが正念場だ! あの性悪茶色殺意女をここで迎え撃つしかないぞ!」
「っしゃおらやってやるぞ! 三人で勝てなかったけど六人で勝てるかな!?」
場面は変わって、街の最南端。
間髪入れずに空中を跳躍してきたのは、肉切り包丁を振りかざしたデニスだ。
ロストチャイルは、デニスの攻撃をどう躱すか一瞬だけ迷う。
頭に血が上ってしまい、退避のタイミングを逃してしまった。
当初の目的は果たした。後の保険に考えていた交渉も決裂した。
さらに二対一となった時点で、空間転移の魔法により一旦戦線を離脱するべきだったのだ。
その判断ミスが、自分がとにかく、一度ミスを犯したという事実が、ロストチャイルの瞬時の判断に影響を及ぼしていた。
今までは全てが自分の思い通りに進んでいたはずだ。
しかしそれは急に、何かを取り返さなくてはならないという焦りに変わってしまっていた。
挽回しなくてはならないという焦りがロストチャイルを苛み、今までは感覚的に行えていた一連の動作が、急にどうやっていたのかわからなくなる。
空間転移したいが、さすがにその猶予はない。
だからといって霧状で滑空移動するのも、いったん霧状化した自分という存在を集合させなくてはならない。その場合、デニスのスキルによって実体を捉えられてしまう。
ロストチャイルがギリギリで下した決断は、いったんは身体を霧状に戻し、デニスの包丁の軌跡に沿ってその場で身体を分離させるという緊急回避だった。
襲い掛かる袈裟斬りに綺麗に沿うようにして、ロストチャイルの変化した霧が綺麗に分かれる。
デニスはもう片方の包丁を続けざまに一閃するが、それもロストチャイルは丁寧に、そして確実に躱した。
この状態では移動できないが、一瞬だけ攻撃の手が緩んだ瞬間に集合して移動すればいい。今までそうやってこの男を翻弄してきたのだ。
ロストチャイルがそれを確認しながら、デニスから一瞬たりとも意識を離さずにいると、
回って横から接近してきたヘズモッチが、懐から塩と胡椒の瓶を数個取り出して、ロストチャイルの足元に投げつけた。
「――――?」
足元で割れた瓶から、塩胡椒の粒子が一面に散らばる。
その異物の粒子に干渉されて、ロストチャイルの霧状化が一瞬だけぶれた。
「やはり!」
とヘズモッチが叫んだ。
「奴の魔法の系統は、身体の分解構築制御! 自分自身を分解・再構築することに特化した魔法! 自身の身体を粒子状に分解、魔力によって粒子を覆って制御することによって霧状化! 空間の移動も、自分自身と接触した物体を一旦魔力単位まで分解し、任意の場所で再構築することによって実現しているんです!」
「調味料を肌身離さず持ってるとは、良い心がけだヘズモッチ!」
「逆に言えば、それほどの精巧緻密な魔法ということ! その精密極まりない制御系にノイズさえあれば!」
「こ、の、小娘がぁぁあっ!」
塩胡椒の粒子の干渉によって、ロストチャイルの予定していた集合と移動が阻まれる。
それは厳密にいえばほんの些細なノイズであり、普段ならば全く関係の無い話だ。
ちょっとばかし埃や砂が多め舞っていようと、少しだけ粒子化の制御にぶれがあったとしても、ロストチャイルの魔法制御にほとんど影響は無いと言ってもいい。
しかしそれは、この最強の料理人が目の前に居なければ、の話だった。
ロストチャイルがデニスの予備動作を知覚すると同時に、雷のような速度でデニスが踏み込んで次の連撃を繰り出す。
連撃の速度が、さらに上がっている……迷いが無くなっている!
ロストチャイルはそれを、ほとんど感覚だけで何とか避け切った。
目にも止まらぬ連撃に対して、がむしゃらに剣を振り回したら偶然にも防げたようなものだった。
ずっとは避けられない。
すぐにどこかへ移動しなくては――
焦るロストチャイルの背後に、ヘズモッチが追いつく。
ヘズモッチは両手に握った包丁を交差させると、水の魔法を発現させてその場に鍋一つ分ほどの水をぶちまけた。
それはデニスの錬金やロストチャイルの魔法に比べれば、次元の低すぎる、どうってことはない魔法だ。
鍋一杯分の水を出せたからといって、戦闘の役に立つはずもない。料理学校で最初に習う、料理人の基本中の基本の魔法。
鍋一杯分の水を出せたからといってゴブリンが倒せるわけではない。ダンジョンを攻略できるわけではない。
ただ、どこでもパスタを茹でることができる程度の魔法だ。
「料理人スキル、レベル20! 『沸騰』!」
ヘズモッチのスキルの発動により、辺りにぶちまけた水分が一斉に沸騰し、気化し始める。
辺りに急に漂った大量の湯気と、これによる湿度の急上昇、気化水分の影響により、ロストチャイルの粒子化がほんの少しだけ干渉を受けた。
そしてそのほんの小さな隙があれば、デニスとっては十分だった。
「料理人スキル、レベル100!」
デニスが踏み込んで、ロストチャイルの霧に向かって肉切り包丁を叩き込む。
手ごたえがあった。
分離して躱され続けたものとは違う。ロストチャイルの実体を捉えた感覚がある。
「『強制退店の一撃』!」
「づっぐぁあっ!?」
ロストチャイルは本能的に、デニスの一撃から何とか逃れようと自身の霧状化を一瞬にして最大限に拡散した。
デニスは構わず、斬り込んだ肉切り包丁を押し込む。
「ぶっ飛んでいけ、オオラァッ!」
「づぁっぐぉおおっ!?」
紫色の霧が爆発するように周囲に広がり……その急拡散が不意にピタリと止まると、デニスのスキルの発動により、『強制退店』の効果を押し付けられたロストチャイルは爆縮するように凝縮していき、最後にはロストチャイル本来の姿まで戻される。
一瞬、全てが制止したような時間があった。
包丁を振り切ったデニスと、その目の前で戦闘をサポートしたヘズモッチ、
そして強制的に霧状化を解かれ、吹き飛ぶ途中のような姿で空中に固定されて、効果発動までの一瞬の誤差時間を与えられたロストチャイル。
その猶予時間が過ぎた後、ロストチャイルは後方へと、一直線に凄まじい速度で吹き飛んでいく。
あらゆる法則を無視した、初動から最高速の等速直線運動。
座標移動を押し付けられたロストチャイルは、月明かりに照らされる街の上空を、夜空に輝く彗星のように吹き飛んでいった。
「ぐがぁああっ!? ど、どこま、で、どこまで移動させられるんだっ、こ、これはぁっ!?」
ロストチャイルは夜の冷たい風を全身で切り裂きながら、うめき声をあげた。
「そのまま吹き飛んでいきな! てめえは出禁だっ! この世からなあ!」
街の領域を超えてなおも吹き飛ばされながら、夜の闇へと消えていくロストチャイルに向かって、デニスがそう叫んだ。
「やりましたね、副料理長!」
「あとはどっかの山脈にでもぶつからねえ限りは吹き飛んでいくだろうさ! 止まった時に生きてるかどうかは保証しねえけどなあ!」
「避難先に行きましょう! すでに、ジーン料理長が防衛しているはずです!」
「よし、急ぐぞ!」
「やれやれぇ……こぉんなところまで逃げちゃってぇ……ま、袋のネズミっていう感じぃ……?」
ねっとりとした調子でそう言ったのは、時計塔の最上部である時計室に足を踏み入れたキャンディだった。
キャンディは時計室を眺めると、先ほど行動不能にしたバチェルと、それを背負うツインテールとポニーテールに、部屋の隅っこの方でカクカクとしたファインティングポーズを取るグリーンとその舎弟を確認した。
そしてその前に立つ、丸々と太って脂ぎった巨漢のポルボを見て、目を細める。
「な、なにこのデブ……」
「ンドゥルフフフ……気を悪くされたら失礼、お嬢さん。最近チョット運動不足でネ……」
「ちょっと運動不足とかそういう問題じゃないと思うんですけどぉ?」
キャンディがコメントに困りながらそう言うと、出し抜けに太い腕を構えたポルボを見て、キャンディも両拳を体前に構えた。
「お、おお! 変態ポルボ! 頑張って!」
「が、がんばれー!」
ツインテールとポニーテールが応援する目の前で、何倍もの質量差がありそうなポルボとキャンディが対峙した。
「……あーあ。どうせやるなら、こんなデブじゃなくてデニスさんみたいな男前細マッチョが良かったのになぁ」
「ンドゥルフ……無い物ねだりは良くないネ」
ポルボが厚い唇を動かしてそう言った瞬間、キャンディが素早く踏み込んでポルボの腹に右肩を押し付ける。
「『探偵の極意』」
キャンディの白兵スキルが発動し、接触した肩からポルボの巨体へと衝撃を送り込む。
あっけないなぁ、とキャンディは思った。
どんな巨漢だろうが、キャンディは別に筋力で勝負をしているわけではない。
接触点から破壊的な衝撃を送り込んで吹き飛ばす白兵スキルさえ当てることができれば、関係ないのだ。
ここから当てたら、この男の体格からして……後ろの小窓と壁も破壊して時計塔から吹き飛ばすかもしれない。
キャンディは、ポルボの身体が吹っ飛ばされるのを確認しようとして……
「ンドゥッ……その小さな身体で格闘スタイルということは、そういうスキルだということは予測していたネ」
「ん?」
いつの間にか、その肩をがっしりと掴まれていることに気付いた。
次の瞬間、他ならぬキャンディのスキルの効果によって、ポルボの巨体が背後へと打ち出される砲弾のように吹き飛んだ。
そしてキャンディ自身も、ポルボにがっしりと肩を掴まれて、一緒に吹き飛んでいく。
「んなぁっ!? ちょ、待てデブゴラァ!」
キャンディが叫んで手を振りほどこうとしたときには、もう遅い。
ポルボは衝撃と体重で時計室の小さな窓を破壊しながら後方に吹き飛び、
二人の身体が、時計塔の最上階から投げ出された。
「ンドゥルフフフ……予想外だったかネ?」
「てめえぇえこのデブぅゥウっ!? 最初からこのつもりかぁぁあっ!?」
上空に投げ出された二人はそのまま離れ離れになり、この街で最も背の高い時計塔から、ずっと真下の地面へと落下しようとする。
そのポルボの巨体に向かって、ツインテールらが駆け出す。
「うおおお! 待ってえええっ!」
「『柔らかい手のひら』!」
「グリーン! 頼んだよーっ!」
落下していくポルボを追って跳躍したツインテールが、ポルボの脂ぎった手を掴んだ。
そのツインテールの足をポニーテールが掴んで、ポニーテールの両足をグリーンとその舎弟が捕まえる。
ポルボの身体はバチェルの発動した『柔らかい手のひら』の魔法の膜によってキャッチされ、しかしその体重と勢いで膜が破れるか破れないかというところで、足を掴まれたツインテールがポルボの手を握っていた。
「ぎゃああーっ! 千切れる! 手ぇ千切れちゃうー! 身長伸びるー!」
「がんばってーツインテール! ちょっ、グリーンと舎弟! あんたらどこ触ってんの!?」
「確かに二人で太ももにしがみ付いている感じだけど、仕方ないだろぉ!?」
「うわー! これどないしよー!? どうやって引っ張り上げようー!?」
「ンドゥフ……」
時計塔の最上部がそんな風に賑わっている中で、一人上空から飛ばされたキャンディは、一軒の民家の屋根に激突し、薄い屋根を突き破って室内へと落下した。
屋根が抜けて散々な有様になっている民家の中で、スキルを使って落下の衝撃を緩和したキャンディは、立ち上がろうとして床に這いつくばる。
「ぐっ……ぐはっ……ぎぃ……」
キャンディが足元に目を向けると、右脚が妙な方向に折れ曲がっているのが見えた。
興奮状態であまり痛みを感じないが、右腕も上手く動かない。
他にも折れている骨がありそうだ。
しかし、屋根の薄い民家に落下したのは幸いだった。
あのまま地面に落ちていたら、死んでいたかもしれない。
「ぐぁああっ、きょ、今日はここまでみたいねぇ……絶対にぶっ殺してやる、あのクソカスどもぉ……いつか、絶対にぶち殺すぅ……!」
キャンディは折れた足を引きずりながら、民家の中で当て木と布を探し始めた。
「はぁーっ……ぐぁ……マジ、無理なんだけど……」
数十匹の幻獣に囲まれながら、ケイティは疲弊しきっていた。
後衛組を逃がしてからこれまで、たった一人で幻獣の群れと戦い続けている。
もはや自分の防衛線も機能などしていない。
とっくの昔に大量の幻獣が中央通りを通って、街の北部へと抜けていった。
押しとどめることができたのは第一波の最初の方だけ。あとは自分が食われないのが精いっぱい。
ケイティの孤軍奮闘ぶりを見て、幻獣たちも警戒しながらその周囲を囲んでいた。
さすがの幻獣たちも、十数匹も死体の山を築かれれば、安易に近寄ってはいけない危険な個体であるということを認識し始めている。
しかし彼らがケイティからいくらか距離を取りつつも、その周囲から離れないのは、その強い個体が疲弊し始めているということに本能的に勘づいているからだった。
「はぁー……ったく、獲物見るような目で見やがってさ……『銀翼の大隊』、二代目大隊長を舐めんじゃないわよ……」
そう言いつつも、双剣を握る手にすら力が入らず、切っ先を地面に垂らして何とか落とさないようにしているような状態であることを認めざるをえない。
流石にここまでかな……とケイティは思った。
どうせ死ぬなら、あの料理馬鹿の隣が良かったんだけどなあ。
街の最北部、冒険者ギルド。
すでに足の速い幻獣が何匹かここまで到達しており、ジーン料理長とここまで後退した後衛組がそれに対処していた。
しかし、彼らの目の前には幻獣たちの群れが、もうすぐそこまで迫っている。
腕を組んだジーン料理長が、その最前線に立っていた。
後衛組も各々の武器を握って、固唾を飲んでその襲撃を待っている。
誰も何も言わないが、あの群れがここに到達すれば終わりだということを誰もが理解していた。
しかし誰もそんなわかりきったことを言おうとはしなかったし、不思議なことに、どこかへ逃げようとも思えなかった。
それは、一種の手持無沙汰だった。
できることはなかったし、今さら他にしようと思えることもない。
全滅の瞬間までに与えられた猶予時間は、彼らにとって大いなる手持無沙汰となっていた。
彼らは、その目の前に迫る全滅の時を受け入れようとしている。
「……やれやれ。ここまでかい」
ジーン料理長がため息交じりにそう言って、
料理人スキルを準備し、一歩踏み出した瞬間。
全員の意識の外であった後方から、甲高い遠吠えが鳴り響いた。
「なっ…………?」
これまでどれだけ追い詰められようとも冷静を保ってきたジーン料理長が、その思いがけない野生の遠吠えに振り返る。
後衛組も、思わず一斉に振り返った。
後ろから? いや、あれは……
冒険者ギルドの建物の屋根に、一匹の大きな灰色の狼が立っていた。
灰色の狼がもう一度空に向かって遠吠えすると、その背後から、さらに複数の遠吠えが共鳴するように木霊する。
するとその一匹の狼の後ろから、続々と同種と思われる灰色の狼たちが、月夜の明かりの中に姿を見せた。
十数……いや、数十という数の灰色の狼たち。
神狼の大軍だった。
ジーン料理長はその光景を不思議そうに眺めると、その先頭に立つ一匹の神狼と、目が合ったように感じた。
たくさんの神狼たちの中でも、身体の片側の毛皮が痛々しく剥がれ、身体中に傷を負った神狼。
その狼の瞳は、ここに続々と向かってくる憎悪と食欲に駆られた幻獣たちの血走った瞳ではなく、
澄み切った、どこか不思議な眼差しをしていた。
「て、敵か?」
「いや、あれ、アトリエちゃんが散歩させてた……」
後衛組がざわついていると、その傷だらけの神狼がもう一度いななきのような遠吠えを空に向かって叫び、その周囲の神狼たちも同じく遠吠えを返した。
それが合図と言わんばかりに、背後から現れた大量の神狼たちは、一斉にジーン料理長と後衛組の上を飛び越えて、こちらへと向かってくる幻獣たちの群れに総突撃を開始する。
呆気に取られているジーン料理長が、その風圧で乱れた長髪を手で押さえつけながら、つぶやく。
「あれは、いったい……」
その遠吠えは、街全体に届いていた。
街の東部でその遠吠えを耳にしたアトリエが、振り返る。
「……ポチ……!」
その声を聞いて驚いたのは、アトリエだけではない。
オリヴィアに再度攻撃を加えようとしていたハームも、その遠吠えを聞いて一旦ステップバックし、不思議そうな顔を浮かべた。
「神狼……? 在庫には無かったはずだが……」
冒険者ギルドの目の前では、神狼の大軍と、凶暴な幻獣たちが正面から激突していた。
幻獣たちの中には、その姿を見て一目散に逃げ出した個体も存在している。
深い森の主。
幻獣たちの中でも神聖な存在である、神狼の軍勢に本能的な恐れを感じて。
神狼たちは幻獣たちのほとんどよりも身体が大きく、彼らは突進してくる幻獣たちを前足で踏みつけたり、噛みついて投げ飛ばしたりしながら、じりじりと戦線を上げていった。
群れて敵意を剥き出しにしていた幻獣たちも、その様子を見て次々と踵を返していく。
その中でひときわ真っ白い体毛をした個体が、傷だらけの神狼に対して思念で話しかけた。
「『“今回だけだぞ、息子よ。”』」
「『“……すまない。”』」
その戦いの騒音は、オリヴィアとハームが戦っている街の東の通りにも聞こえていた。
何があったかまではわからない。
しかし、明らかに何か状況が、一変したような様子が伝わっていた。
「どうなっている……? 何が、起こったんだ……?」
ハームが混乱していると、メイド服を土で汚し、すでに立っているのも精一杯な様子のオリヴィアが言う。
「ドウヤラ……状況が変わったということデスカネ……?」
「そんな、馬鹿なことが……」
ハームは動揺しかけて、キッとオリヴィアに意識を戻す。
「いや……どうなろうが関係は無い。私は、私の務めを果たすだけだ、魔法人形!」
「来い……悪イ人間!」
オリヴィアは構えながら、もはや砲撃を撃ち込む余力すら存在しないことを理解していた。
最後の激突になる。
ここで踏ん張らなければ、彼の追撃を止める手段は存在しない。
たとえ破壊されようとも、倒れはしない。
倒れるのは、この男が倒れてからだ。
構えたオリヴィアとハームが対峙した。
最後の衝突が、もう数秒後に始まろうとしている。




