第四部 エピローグ (中編)
ジーン料理長のいない、ブラックス・レストラン。
一時休業しているそのホールでは、ヘズモッチが一人席に着いて、物思いに耽っているようだった。
手元の紅茶はすっかり冷めていて、それは気にも留められていない。
「どうされました?」
そんな声をかけられて、ヘズモッチは振り返った。
そこには、デニスの町でレストランを開いたころから着いて来てくれている、経理の従業員が立っていた。
従業員はヘズモッチの正面の席に座り込むと、彼女に尋ねる。
「ジーン料理長のことを?」
「ま、そんなところ」
ヘズモッチがそう答えた。
「みんなには隠していたけど、彼女は身体を悪くしてたの」
「そうだったのですか?」
「うん。私も彼女から聞いたわけじゃないんだけど……それでも、一番近くにずっと立っていたから、何となく知ってたんだ。何かの病気だったのかも」
そう言って、ヘズモッチはレストランのホールを眺める。
「それで……料理長が店を継がせるって言ったのを聞いて、やっぱり、って思ったんだ」
ホールには、ボディビル大会があった頃に貼られたデニスの張り紙が、まだ何枚も残っていた。
ヘズモッチはそろそろ剥がそうと何度か言ったのだが、そのたびに料理長にはぐらかされて、結局そのままにしてしまっていたのだ。
「何となく、わかるの。ジーン料理長の考えていたことは」
「……というと?」
「自惚れじゃないけど……料理長は、最終的には私に店を継がせる気だったと思う」
ヘズモッチがそう言った。
従業員は、彼女の話を静かに聞いている。
「料理の方向性も、何もかも。デニス副料理長より、私の方が料理長に近い。むしろ、上回っていると思う」
「そうだと思います」
「まあ、自負もあるんだけど。それに料理長は、デニス副料理長には……とにかく自由に生きて欲しいと思ってた。場所に縛られずに、羽ばたきたいように羽ばたいて欲しいと……思ってたはず」
「同感です」
「でも、これは継承なのね」
ヘズモッチはそう言って、笑った。
「ねえ。王位がどうして、その子供に継承されるようになったと思う?」
「王様が、自分の子供に継いで欲しいと思ったからでは?」
「それはそうだと思うんだけどさ。だけれど、それってあまり合理的じゃないと思わない?」
「でも、そういうものでしょう」
「だけどさ。才能のある人がたくさんいるなかで、賢王たちは、他の優秀な人に継いで欲しいと思ったこともあるはず。だけれど、自分の子供に継がせるしかなかった。自分の子供が可愛かったのか、それとも…」
「それとも?」
「その王に心から仕えた人たちが、それを望んだからか」
ヘズモッチはそう言って、手元の冷たい紅茶を一口飲んだ。
「私がこのままレストランを継いでも……上手くいくかもしれないし、上手くいかないかもしれない」
「そんなことは、ありません」
「そんなものだよ。だけれど、デニス副料理長が継いだとしたら? 誰もが認めるジーン料理長の後継者が、その子供が。失敗すると思う?」
「するかもしれません」
「そう。するかもしれない。だけど」
そう言って、ヘズモッチは従業員の顔を覗き込んだ。
「その時はきっと、みんなが助けてくれる。デニス副料理長のことを、ジーン料理長の息子だと認める人たちが。料理長を助けるように、彼のことを助けてくれる。なぜなら彼は、紛れもない料理長の息子であり……その精神を受け継いだ人だから。そうであって欲しいと、みんなが願うから」
ヘズモッチはそう言った。
微笑を携えたその表情は、まるで彼女自身が、そう願う『みんな』の一人であるようにも見える。
「この世界は、とっても複雑。合理的なことが、本当に合理的だとは限らない。私情に見えることが、案外上手く行くこともある。私の出番はそのあとね。デニス料理長を挟んでから……その下で継承を見てから、私がそれを継承しろってことだと思う。私は、デニス副料理長の妹弟子だから」
「それで」
と従業員が言った。
「デニスさんは、どうするのですか?」
「ああ。副料理長はね……」
◆◆◆◆◆◆
王都のとあるカフェで、いささか皺の目立つ長髪の男性が、昼から酒を煽っている。
小さなグラスに注がれた琥珀色の酒を、彼は静かに、舐めるように味わっていた。
何かを思い出すように。
何かを遠ざけるように。
「ジョヴァン団長」
不意にそんな声をかけられて、彼は振り返った。
そこには、珍しく甲冑の兜を脱いで小脇に抱えた、ピアポイント警騎副長が立っている。
彼女はショートに切りそろえられた金髪を風になびかせながら、彼の正面の席に座った。
「もう……私は団長ではないよ、ピアポイント」
「オレにとっては、まだあなたが騎士団長ですよ」
男っぽい口調でそう言ったピアポイントは、近づいてきたウェイターに茶を一杯頼んだ。
いつもつんけんとして荒っぽい性格の彼女であるが、今ばかりは落ち着いた様子で腰を据えて、穏やかな眼差しでジョヴァンのことを見つめている。彼女の鬼の副長としての顔しか知らない部下たちが、こんなピアポイントの姿を見たならば、きっと驚くことだろう。
というよりは、兜を取っていること自体驚くのだろうが。綺麗な顔立ちをしている彼女は普段、「舐められるから」という理由で兜を取らないのだ。
「あれから、いかがですか?」
「見ての通りだよ」
ジョヴァンはそう言うと、薄汚い寝間着のような姿で座る自分を見せつけるように、肩をすくめた。
「職を辞してから、毎日酒を飲んでる。昼間からな。ここは酒の種類が多いから、気に入ってるんだ。退職して暇ができたら、通いたいと思っていた」
「お身体に障りますよ」
「やってられないんだ」
ジョヴァンはそう言うと、小さなグラスの琥珀酒を飲み干して、次の酒を頼んだ。
「自身の決断を、後悔されていますか?」
「していないさ」
ジョヴァンはそう返しながら、次の酒を待ちわびるように、そわそわとしながらカウンターを覗き込んでいる。
「私は、父親として戦ったんだ。間違っていたけれど……戦った」
「そんな貴方が好きですよ」
「そう言ってくれると嬉しい」
ジョヴァンはそう言って、薄く笑った。
ウェイターが紅茶と酒を運んできた。
ピアポイントは口を付けようとしなかったが、ジョヴァンはすぐにそれを煽る。
「私は思うんだ」
「何をですか?」
「何が正しくて、何が間違っていたんだろう」
ジョヴァンはそう言いながら、琥珀酒の強い酒の香りに、喉が焼けたように顔をしかめる。
「あの一晩のおかげで……みんな、過去に区切りを付けることが出来たんじゃないだろうか」
「そうかもしれません」
「腐敗した貴族たちも一掃されるだろう。この王国は、きっともっと良くなっていく。でもその幸運は……この世界を破壊しようとした、一人の男によってもたらされた。一人の男の狂気によってな」
ジョヴァンはそう呟きながら、泣きそうな表情を浮かべている。
「なあ……何が悪いことで、何が良いことだったんだろう。誰がそれを区別できるんだろう」
「誰にもできませんよ」
「でも、私の養子は、死んでしまった。あんなにボロボロになって。たくさん良いことがあったのに。それを見ないまま、死んでしまった。もう……あいつが作った、炒飯も食べられないんだ」
「そうですね」
ピアポイントは椅子に座り込みながら、静かにそう答えた。
しばしの沈黙があってから、彼女は切り出す。
「エステル真王が、新設の秘密諜報部隊を作ろうとしています」
「これからは情報戦だからな。良いことだ」
「その部隊長に、ぜひあなたをと」
「私を?」
ジョヴァンが顔を上げると、ピアポイントが微笑んだ。
「王政府は、あの晩に拘束した子供たちを持て余しています。あのヒースによって、レベル90級のスキルを植え付けられた子供たち。野放しには出来ず、かといって制御することもできない危険な幼子たち。しかし見方によっては……王国は一挙に、巨大な戦力を保有したともいえます」
「私が、いったい何をできる?」
「持て余していると言ったのは……彼らがいまだに憎悪に支配されており、誰の言うことも聞こうとしないからです。彼らが唯一命令を聞きたがるのは、死去したヒースと、拘束中のフィオレンツァのみですが……現在は彼女も精神を失調しており、まともに動ける状態ではありません」
そこまで言ってから、ピアポイントはテーブルに身を乗り出した。
「あの子供たちを制御できるのは、あのヒースの父親である、貴方しか居ない……! エステル王は、これからの時代における諜報特殊部隊の重要性を理解しています! ここで、他でもない貴方が! 公には存在を秘匿される特殊部隊を率いて、脅威を未然に防ぐのです! 第二のヒースが現れぬように! その創立幹部としては、王政府のポワゾン、法官のセスタピッチ、事務官のエントモリなどが招集される予定です!」
ジョヴァンはその話を、半ば呆けたように聞いていた。
「暗号名は、『追放者部隊』! あのヒースが率いた追放者小隊を復活させ、優秀なブレーンと強力な実行部隊によって、内外の脅威を未然にコントロールする! その秘密部隊の長として立てるのは……彼らが敬愛する英雄王ヒースの父親であり、この王国のあらゆる内情を知る……ジョヴァン“団長”! 貴方しか居ないのですよ!」
ピアポイントがそう力説した。
あまりに力が入りすぎて、彼女は掴んだテーブルを粉砕しかけている。
それを聞いて、ジョヴァンはしばらく呆けたように宙を見上げて……
可笑しそうに、笑った。
「ははは……なるほど。なるほどね」
「引き受けて、くださいますか?」
「はは……私はいつか、ヒースが私の跡を継いでくれるものと思っていたものだが……」
ジョヴァンは涙目で、目の前の琥珀酒を見つめた。
そしてそれを、指でそっと遠ざけた。
「まさか、この私が……あいつの跡を継ぐことになるとはな。不思議なことが、あるものだ……」
◆◆◆◆◆◆
大広場で、一人の若い女性が彫像の台座を拭いていた。
銀髪ショートのその女性は、とても整った顔立ちをしているものの、顔色からは生気がまるで感じられない。
彼女は銀バケツの中で雑巾を絞ると、それで台座を隅々まで綺麗にしてやろうとしていた。
その台座の金枠には、『英雄王ヒース』という列王名が刻まれている。
彼女のことを遠目から眺めている騎士が二人いて、片方が欠伸を噛み殺した。
「なあ。俺らはいつまで、アレを見張っていればいいんだ?」
「しばらくは、って話だよ。観察処分だからな」
片方が葉巻に火を付けながら、そう言った。
「しっかし、よくやるもんだよ」
「毎日、日が出てから沈むまで。あの調子じゃあ、台座がすり減っていつか無くなっちまうぜ」
自分を見張っている二人がそんな会話をしているのを、その女性……フィオレンツァは聞いていた。獣人の聴力は、ときに聞きたくもないものまで拾ってしまうものだ。
尋問を解放されてから、フィオレンツァは正式に騎士団を追放されて、保護観察付きで何も無い日常を送っている。
それはあの夜の出来事が公にされていないからであり、彼女のことを正式な裁判で裁くことができなかったからだった。これに、彼女が提供した情報の重要性と、その精神状態を鑑みて、セスタピッチという法官がこの情状処分のために関わったということを聞いている。
フィオレンツァは結局、保護観察付きで解放されて、期限付きで最低限の生活資金まで支給されていた。
それは彼女が生活に窮して、窃盗などの罪を犯さないための処置でもある。
しかし特にすることもなければ、したいこともないので、フィオレンツァはこうして毎日……列王されたヒースの彫像を拭きに来ていた。朝起きて、最小限の物を食べて、自分の主の彫像を拭くために広場へ行く。日が沈む頃に与えられた家に帰り、そのまま眠る。
「……ヒース様……」
彼女はふと、そんなことを呟いた。
ヒースの列王によって作られた彫像の出来は、とても良い。まるで彼が生きているように感じられる。
尋問中、彼女はヒースの遺体を一目見せて欲しいと何度も言ったのだが、結局それは叶わなかった。ただ死んだという事実だけが伝えられ、彼がどのようにして、どのような顔で死んだのかすら、彼女は知らなかった。それはとても悲しいことだった。
だから、何か無心で続けられる作業が必要だった。
死ぬまで毎日、この台座を拭き続けよう、とフィオレンツァは思っていた。
今はやりたいことがそれくらいしかないし、これからもずっと無いだろう。
本当は、どこか別の場所で、二人きりで暮らせたら、どれだけ良かったことか。
そんなことを考えても仕方がない。
しかし夜になれば、彼女はそんなことばかり考えてしまって、なかなか寝付けない。
「そういえば、聞いたか?」
フィオレンツァのことを遠くから見張っている騎士の一人が、ふとそう呟いた。
「何の話だ?」
「あのヒースの死体、安置所から消えたんだって」
「遺体が? どうして」
「知らんよ。忽然と消えてしまって、安置所の責任者がえらい詰められてるみたいだぞ」
「災難だな。列王者の死体は、しばらく保存しておかなきゃいけないのに。でも、死体が消えるなんてことがあるのか?」
そんな二人の会話を、フィオレンツァは台座を拭きながら、聞いていた。
彼女の口元に、薄い笑みが零れる。
やっぱり。
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「…………ぁ?」
そんな声を漏らしながら、ヒースは覚醒した。
仰向けに寝ていた身体を起こしてみると、その周囲には複雑な魔方陣が描かれているのが見える。薄暗い空間で、灯りの類は見当たらない。それでも仄かに明るいのは、床に刻まれた魔方陣が、緑色の光を帯びて発光しているからだった。
「別世界の勇者様よ。よくぞ召喚されてくださいました」
魔方陣の外に立っていた少女が、ヒースにそう言った。
魔法使い……いや神官らしき装束を見にまとったその少女は、自分の背丈ほどもある大きな杖を掲げている。
「……なんだって?」
状況がわからず、ヒースはそう聞き返す。
「ご紹介が遅れました。私、神聖ガルマ帝国の神官、マチルダと申します」
マチルダと名乗った少女はそう言って、深いお辞儀をした。
「神聖ガルマ帝国? どこの国だ?」
「わからないのも無理はありません。勇者様は、別の世界から『召喚』されて来たのですから」
「別の世界?」
「その通りです。異世界で死んだ英雄の霊魂を召喚する禁忌の術によって、貴方をこの世界に呼んだのです」
その説明を聞いて、ヒースは頭を抱えた。
「わけがわからん」
「これから、この世界のことについてお教えしましょう。この世界は今、魔王の侵攻によって危機に瀕しています。貴方には勇者として、私と共にそれを止めて頂きたいのです」
「…………あ? 待てよ」
ヒースは彼女の話を頭の中で咀嚼しながら、もう一度聞き直す。
「別の世界と言ったのか?」
「その通りです」
「僕は……前の世界で死んで、この世界で蘇ったと?」
「正確には、異世界から、貴方の肉と霊を召喚したのです」
ヒースは腕を組みながら、彼女の説明をしばらく頭の中で咀嚼した。
しばし、状況を理解するために考え込む。
それから、ヒースは弾けるようにして笑い出した。
「ぐははははっ! ぐはははははは!」
突然笑い始めたヒースに対して、少女が訝しむような眼を向ける。
「……どうなされました?」
「ぐははははは! なるほど! なるほど! そういうことかっ!」
ヒースは無傷のままで復活した自分の肉体を確認しながら、そう叫ぶ。
「『神の調整仮説』! 『世界を終わらせようとした者は、その世界を永遠に追放される』! そういうことかっ! そういうことだったのかっ!」
ヒースは一人で納得したように叫んで、歩き出す。
「ど、どこへ行かれるのですか? まずは、色々と説明が……」
「面白いっ! これでこの僕は! 真の追放者に! 世界の追放者になったというわけだな! ぐあははっははっ!」
扉らしき物へと歩いていると、マチルダという少女が彼を引き留めようと必死で服を引っ張る。
「あ、あのー! 説明をですねー!」
「だが! 世界を追放されたということは! 元の世界に戻る方法も必ずあるはず! それを見つけよう! 待っていろよ、フィオレンツァア!」
「ま、まずはですね。魔王をですね、倒しに行って欲しいのですが……」
「魔王? どうせ大した奴じゃないさ」
そう言って笑ってから、ヒースはふと考え直す。
「いやしかし、何かレアスキルを持ってるかもしれんな。週末にでも殺しに行こう」
「いやそんな、魔王討伐をピクニックみたいに言われましても……」
マチルダが困惑していると、ヒースはふと立ち止まって、彼女のことを覗き込んだ。
「きみ、世界の終わりは好きかい?」
「ハッピーエンド……? 物語が、幸せに終わる……あれですか?」
「そうだ。世界の終わりだ!」
「は、はい! 私も、ハッピーエンドは大好きです!」
「ぐあはははは! 僕たちは気が合いそうだな! さあ、この世界から出る方法を見つけて、サッサと終わらせてやるぞ! 全ての世界を終わらせてくれる!」
歩きながら、ヒースが笑った。
「あ、あの! 勇者様のお名前は?」
「ヒースだ。お前はマチルダだったな」
「はい! あの、一応聞いておくのですが……嫌いだったり、苦手なことはありますか?」
「諦めることだな」
次回『エピローグ (終)』