小さな匣
偽善、という言葉の意味が理解できたのは、あれから随分と時が経過してからだ。聖書の、〈ルカによる福音書〉は幼き頃から読んでいた筈なのに、生活というものと結びつくには、果実が熟すほどの時を必要とした。
ーー、偽善。
何という不可思議な響きだろう。
甘い蜜に吸い寄せられるように、人々はこの言葉の虜になる。〈偽物の善〉なんて、美しき逆説なのだ。言語は意味を反転させ、捻じ曲げられ、やがて漂白化の憂き目にあう。あゝ、偽善……。
✳︎
かつて、少年の生活は満ち足りたものだった。
金にも愛情にも容姿にも、すべて恵まれていた。ランスロットには、金や愛情が不足し、容姿にも恵まれない人々の苦しみが理解できなかった。いや、理解するつもりもなかった。
もうすぐ、聖夜がやってくる。
遠くの大聖堂の円屋根が、闇に消えゆく。
ガス燈の灯りが、行き交う人々の影を長くながく伸ばし、まるで生きているかのように、ゆらめく。繁華街の曲がりくねった石畳の道は、買い物客や酔客や恋人たちでひしめき合っていた。救世軍の音楽隊が、トロンボーンやトランペットで楽しげな音楽を演奏する。
冬の通り道は、お伽の国のようにキラキラと耀いていると思う。馬車に揺られるランスロットはご機嫌だった。寒い冬だったけれど、パパとママに挟まれて、街のショーウィンドウを眺めているだけでも満足だった。
「ランスロット 、今夜は美味しいものを食べよう。臨時収入も入ったし、好きなものを注文しなさい」
先物取引で儲けたばかりの、でっぷり太った父親は、カリブ産の葉巻をくわえ、猪のように大きな鼻孔から煙を吐き出した。
「やったー! ステーキとローストビーフを、ゲロが出るほど食べたーい。ゲロゲロ」
「やだわ、この子ったら。我が家はもうじきジェントリの仲間入りを果たすのです。労働者階級のような汚い言葉を使ってはなりません」
母親はピシャリと叱った。
シュンとなったのもつかの間、すぐに叱られたことも忘れ、ランスロットは瞳を耀かせて街の風景を眺めた。
「あ、ちょっと待って! あれは何をしているんだろう?」
ランスロットは、アイリッシュ・パブの前で酔っ払い相手にマッチを売る少女を指差して訊いた。みすぼらしい服を纏った少女の懸命な姿に、心を奪われたのだ。
「ああ、あんなものは、見てはいけないよ。目が汚れる」
父親は目を背け、憐れむような顔をして息子に言い聞かせる。母親も、顔前に集るハエを追い払うような仕草を見せ、父親と同じようなことを口走った。
ーー、けっしてそれを、見てはいけない。
まるで、この世に存在してはいけないものが、突如、亡霊のように現れたみたいだった。タブー視されるそれを見ないことで、人々は心の安定を保っている。存在しているのに存在していない、存在。
「あっ!」
マッチ売りの少女が酔客に押し倒されるのを見て、ランスロットは思わず声をあげた。
「馬を止めて、ジェームズ!」
背後からの大きな声に驚いた馭者は、慌てて馬の手綱を引いた。どう、どう。
父母の制止を振り切り、ランスロットは馬車から飛び降りた。
「ねえ君、大丈夫⁈」
倒れた少女の肩を抱いて、起こすのを手伝うと、頭を覆ったスカーフがハラリと落ちた。碧眼で赤い髪の、美しい少女だった。痩せっぽちの少女の躰は、紙のように軽かった。
「ありがとうございます」
少女は膝の汚れを払い、路に散らばったマッチの匣を籠に戻しながら言った。
「よろしければ、一つ、買ってください」
「ああ、もちろん買うよ。いま、馭者のジェームズに小切手を切らせるから、籠の中のものをぜんぶ売っておくれ」
「あの、一つ買っていただけるだけでいいんです」
「大丈夫だよ。お金ならパパがたっぷり持ってる。遠慮しないで」
ランスロットは少女の美しさに見惚れて、何でもしてやりたい気持ちになっていた。
「僕はランスロット。君は?」
「アリシア」
馭者のジェームズが持ってきた小切手とペンを差し出して、ランスロットは得意な顔をした。
「さあ、好きな金額を書いて。アリシア」
「……、私、字が書けないんです。それに、買っていただくのは一つだけ、現金でお願いしたいんです。一ペニーでも……」
「何を言ってるんだい? 遠慮なんて、しなくていいんだ。そうだ、これから僕の家に遊びに来ないかい?」
ランスロットは舞い上がっていた。
「後生ですから、一つだけ、買ってください」
「そんなモノ、一つも全部も一緒だろう」
アリシアは唇をグッと噛み、冷めた目を相手に向けた。
「偽善者」
「えっ?」
その言葉に血の気が引いた。
少年の、生涯続く内省への扉の鍵は、こうして小さな音とともに開けられたのだった。
その夜、救世主の生誕のことなどすっかり忘れ、空に浮かぶ三日月を見詰めながら、少女の言葉を何度も反芻した。偽善者という文字が、未知の暗号のように頭を駆け巡った。解明不能の、未知の暗号。
翌朝、マッチ売りのアリシアは、街の片隅で冷たくなっていた。第一発見者は、年老いた馭者のジェームズだった。売り物のマッチを全部擦った形跡があった。暖をとったのだろうか……。彼女が何を思い、どんな生涯を送ったのか知る由もなかったが、幸せそうに眠る少女の表情から、ジェームズは何か深い暗示を感じ取った。
彼は帽子を脱ぎ、胸の上で十字を切ってから、神様、とだけ呟いた。
アリシアの死を知ったランスロットは、父親の執務室に忍び込み、一丁の拳銃を盗み出した。短身だが、四十五口径のリボルバーは、少年にとってひどく重かった。
屋敷の裏口からこっそり出ると、馭者のジェームズが待ち構えていた。彼の白い髪も、随分と薄くなったな、と妙なことを思った。
「坊ちゃん、お行きなさい。あの娘は坊ちゃんにとって必要な存在です」
「ああ、そうなんだ。よく分かっているよ、ジェームズ。決着をつけなければならない」
娘を死ぬまで働かせて、自分はのうのうと暮らす豚のような親の顔を想像した。そいつの頭に鉛玉をぶち込んでやるつもりでいた。
空はどんよりと曇っている。
街の外れの古びた教会の外壁は、疲れたように褪せている。
教会の扉を開けると、祭壇の前に柩が安置されていた。牧師は呪文のような言葉を投げかけているが、家族の泣き声に掻き消されていた。やつれ果てた父母と四人の幼子らが、柩にしがみつくようにして泣いていた。
飾り気のない質素な柩は、マッチの匣のように小さかった。
ランスロットが近寄ると、片腕のない父親が呟いた。
「クリミアの戦争で片腕を負傷してね……。俺が働けないもんだから、病気がちの妻が内職で稼いでたんだ。アリシアはそんな親の姿を見て、少しでも、と思ったんだろうな……。くそっ、神様はどうかしてるぜ」
「神様は、どうかしてる……」
「あんた、誰かは知らねえが、娘の死を悼んでくれて、ありがとな……。他人の為に、そんなに泣いてくれて」
自分でも気づかないうちに、涙が溢れていた。
そしてランスロットは恥ずかしさのあまり、握りしめた拳銃をそっと尻の後ろに隠した。また一つ、偽善の履歴書に花を添えた。自分の存在が滑稽すぎて、すぐに逃げ出したい気分だった。
眼鏡をかけた中年の牧師は、ランスロットに気づくと何故か怒りの形相をして、大声で叫んだ。
「〈あなたがたは、人々の前で自分を正しいとする人たちである。しかし、神はあなた方の心をご存知である。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われる。〉」
ルカ福音書の一節だった。
この時、ランスロットは悟った。
みんな、どこか、少しづつ勘違いしている、と。
✳︎
時は流れ、世間は大戦の熱狂に浮かれていた。
馬車に代わって自動車が路を塞ぎ、機関車は黒い煙を吐き出しては街をススだらけにした。
「ランスロットさん、下院議員のお出ましですよ。そろそろ、行きますか」
「オーケー、始めるか」
ランスロットは上着のポケットから小さな匣を取り出した。アリシアから買った黄燐マッチを抜き、革ジャンの腕に擦り付ける。
最後の一本だ。
ボッと橙色の小さな火があがり、タバコの先端を赤く染める。
バッキンガム宮殿に向けて、ランスロットは仲間たちとともに走り出した。軍が隊列を組んで、国威発揚のための行進の準備をしている。
胸から武器を取り出す。もう、リボルバー式の拳銃ではない。
ランスロットは、紙の武器を、一斉に撒いた。
〈プロレタリアートは戦争を望まない。戦争を革命に転化せよ!〉
威勢のいいスローガンの並ぶアジビラが、人々の頭上に舞う。労働などマトモにしたことのない、ブルジョワの男は、それでいい、と思った。偽善者で構わない。人の心なんて所詮、そいつにしか分かりゃしないんだ。
官憲に揉みくちゃにされながら、ランスロットは天に召されたあの美しい少女を、アリシアのことを想い出して笑っていた。【了】
参考文献 『口語訳 聖書』日本聖書協会