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作者: Necho Nidus

夏ホラ参加作品です。締め切りギリギリです。すいません。

 最近、昼は日差しが強くなり、もう夏が来たことを実感させられるが、どういう訳か夜は涼しい。確実に気温は上がっているのだが、心地良い風が吹いているため、窓を開けていれば寝苦しいということはない。


 そして最近は、私の住むマンションから夜泣きが聞こえるようになった。ほぼ毎日、深夜に数十分間聞こえる。毎日の受験勉強があるために夜遅くまで起きていることが多い私は、それを聞くことが多かった。近くに大学があるものの、マンション周辺にはろくに街灯もない田舎の静けさがあるからこそ、こんな夜鳴きの音がはっきりと聞こえるのだろう。


 夜泣きの主は、山田ユキちゃん、という可愛い赤子で、もうすぐ一歳になるらしい。彼女の母親がユキちゃんを背負って買い物から帰ってきたときに聞いた話だ。だが私は、彼女らが一体このマンションのどこに住んでいるのか知らない。マンションの近所付き合いなぞその程度のものだ。


 夜泣き、とは総じてうるさいものだと言われていて、私もその認識に間違いはないと思う。だが不思議なことに、彼女の夜泣きはまったくそんな気がしないのだ。ええん、ええん、と聞こえてきても、やかましいどころかむしろ心地良い音楽に消えてしまう。そう思ってしまうのは、様々な要因が合わさっているからであると私は思っている。心地良い風のこともあるし、ここは駅から近いが田舎なので夜中はひっそりとしている。そんな中を、どこの部屋からか、ユキちゃんの鳴き声が静寂と夜闇に揉まれ、幾つもの壁を反射して私の部屋まで届いてくる。こう言うと、とても風情のあるものに感ぜられるのが不思議だ。


 そのように、勝手に風情を感じて赤子の夜泣きを楽しんでいたのは私だけのようで、彼女の母親はマンションで偶然会う度にげっそりとした姿を私にさらした。育児ノイローゼ、というものらしい。


 たまに夜泣きの無い日もあった。そんな日はきっと母親もほっとしているのだろう。私としても、毎日続くそれに慣れ、飽きてしまうのは勿体ないことのように思われたので、たまに夜泣きがないのは望むところであった。そんな日は、様々な虫の声が聞こえてくる。私は虫の姿形が苦手で、虫の名前は常人よりも知識に乏しい。だが、おぞましい姿のはずの虫が奏でる音には不思議と心を動かされた。


 そんなとき、たまに蛙の鳴き声を聞くこともあった。近くに川があるから、そこからやって来た蛙なのかもしれない。蛙の声は、間が抜けている。げこ、げこ、なんて擬音語にするとなおさらだ。


 蛙、といえば、昔私は蛙を踏み殺したことがあった。小学生の頃の話だ。川の近くに作られた人工芝の公園で、足下で鳴いていた蛙を潰した。なぜそんなことをしたのか。それは足下を跳ねる蛙を見て、ふと、無様だ、と感じたからだった。何故か、無様なものは殺しても良い、いや、殺してみたいという考えが頭を支配した。そして、そのまま右足で踏みつけた。蛙は、巨人の足に気付くこともなく潰された。潰される寸前まで鳴いていた蛙の、嫌な断末魔の音を残して。期待していた満足感は得られなかった。ただただ、蛙の断末魔の音が耳に残った。


 今にして思えば、なんにでも好奇心を抱く子供の性が私にそうさせたのだろうと判断できるが、当時は罪悪感に身を潰された。それ以来、蛙が苦手になってしまった。





 玄米茶を飲みながら古代ギリシアのアテネ民主主義の変遷を必死に暗記していると、また夜泣きの音が聞こえてきた。今日も、良い音をしている。無理矢理詰め込んだギリシア人の名前で圧迫されていた私の頭が、それのおかげですっきりする。



ええん、ええん、ええん……



 いつ聞いても、この音は神秘的だ。普段なら鋭く、甲高く耳に押し入ってくる赤子の泣き声が、この状況だと柔らかくなって耳に優しく入ってくる。このことを予備校にいる親しい友人に話してみたが、まるで理解されなかった。それどころか、私が勉強のしすぎで少しおかしくなったかのようなことを言われた。もしかすると、このことを誰にも理解されないかもしれない。しかし、日本人は風鈴の音を聞いて涼むことの出来る唯一の民族、と聞くから、これも個性なのだ、とも思う。


 暫くそんなことを考えていると、ふと、夜泣きの音が止んだ。すると今度はたちまち虫の音が良く聞こえてくる。そういえば虫の音で和むことが出来るのも、日本人だけだと聞いたことがある。日本人は、不思議な耳をしているのかもしれない。



ええん、ええん、ええん……



 また、夜鳴きが始まったようだ。





「こんにちは」



 軽く、礼。それに対して、微笑と共に挨拶が帰ってきた。だが、目元の隈は隠しようがない。山田さんは手に買い物袋を提げている。今日も買い物の帰りのようだ。女性の化粧については殆ど知らないが、隈、なんてものは最も気にして念入りに化粧をして誤魔化すものではないのだろうか。だが山田さんの顔には割とくっきりと隈が浮かんでいた。ユキちゃんの夜泣きが始まる前には無かったはずだ。夜泣き、大変そうですね。お体は大丈夫ですか。と話しかけようかと一瞬迷ったが、それ以上の会話はせずにそのまま別れた。マンションでの人付き合いというものは本当に希薄なものだ。


 山田さんはどうやら相当参っているように思えた。やはり原因は夜泣きであろうか。家に帰り、夕刻のニュース番組をソファに座りながら眺めながらそんなことを考えた。





 それから一週間ほど経った。私は相変わらず勉強に追われる毎日だった。朝起きて、電車に乗り、予備校に向かう。予備校の自習室が開くと直ぐに席を取って勉強。予備校の授業も受ける。昼に軽く昼寝を取って、午後もまた勉強。そんな毎日だったから、夜中に聞こえるユキちゃんの音は私にとって毎日の中の少ない楽しみになっていた。丁度、予備校で勉強の最中に携帯音楽プレーヤーで聴く音楽に飽き始めていたことも手伝って、この何度聞いても飽きない神秘的な音楽に私は虜にされていた。私のマンションは、煉瓦のような薄茶色のブロックの壁をしていて、まるで西洋の城のような外観をしている。そんなこともまた、その神秘的な雰囲気を助長していた。


 玄米茶を啜りながら、私は部屋でいつものように勉強をしている。恐ろしく発音がしにくい上に死ぬほど覚えにくい表意文字の単語を暗記していた。今日も心地良い風が吹いていたので、窓を開けている。



ええん、ええん、ええん……



 時計を見れば、深夜の三時。今私の両親はとっくに眠っているし、恐らく日本中の殆どの人間は眠っている時間帯だった。そんな中、深い睡眠を取れないまま夜中に何度も起こされるのだから、山田さんには同情する。世の中の母親達は、毎日毎日夜泣きをされても子供への愛情が続くのだから凄い。私は子供は勿論、兄弟だっていないからそういったことがわからないだけかもしれないが。


 この一週間で、山田さんの風貌は更に酷いものとなっていた。最後に合ったのは二日前だ。この前よりもずっと濃くなった隈が浮かぶ顔を苦笑の形にして、



「最近、この子の夜泣きがうるさくありませんか?」



 と聞いてきた。偶然エレベーターで一緒になったときだったから、恐らく気まずい沈黙に耐えられなかったのだろう。そんなこと無いですよ。私は全然聞こえませんけど。と、軽く嘘をついて受け流し、エレベーターが私の階に着くなりそそくさと退散した。山田さんには失礼だが、その時の彼女の風貌は、隈が濃くなっただけでなく頬もこけていて、丁度ゾンビと言うと上手い表現になると思う。心なしか、苦笑が苦笑になりきれず、どこか虚ろな表情になっていたように感じた。


 私は山田さんのことを詳しくは知らないし、あまりお近づきになろうとも思わないが、あの姿を見れば誰だって心配をするだろう。山田さんは神経質な方なのかもしれない。私が夜泣きをするような年頃だったとき、我が母は山田さんほどは神経をすり減らしていなかったらしい。



ええん、ええん、ええん……



 少し、夜泣きの音が強くなったような気がした。今日はちょっと激しいらしい。これでもう何回目になるのだろうか。今日はいつもと比べて特に夜泣きの回数が多いようだった。私としては、その方が嬉しいのだが。



ええん、ええん、ええん……



 ふと、二日前に見た山田さんの顔を思い出す。昨日、一昨日も夜泣きはあった。果たして、彼女は今どんな表情で自分の娘を見ているのだろうか。



ええん、ええん、ええん……



 彼女は二日前よりずっとげっそりして、まるで幽鬼か何かのように自分の娘が眠るベッドに向かうのだろうか。そして……



ええん、ええん、ええん、ええん、グギェッ……



 昔、私が踏みつぶした蛙が発した断末魔の音のような声を最後に、夜泣きはそれから一切聞こえなくなった。代わりに何事もなかったかのように、虫の音が私の部屋に充満した。

後半、若干迷走してしまいました。どう繋いだものか迷ったあげくにこうなりましたが、いかがだったでしょうか?

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[一言]  あくまでも"音"だけにこだわった展開、興味深いものを感じました。"音"から紡ぎ出される追想も馴染み深いもので、臨場感と共に親近感をも感じました。  ただ、"私"という名詞で女性と認識してい…
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