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「じゃあお姉様はやっぱり恋について考え直すことにしたのね」
くるりと団扇を回しながら、カレンが安心したように呟く。ミリアリアはじっとその手元を観察するように見ながら、ええ、と頷いた。
ミリアリアとカレンは今、約束していたバザーに遊びに来ていた。露店は城の敷地内ですべて開かれているので、安心して回れる。もちろん市民も自由に出入り出来るのだが、あちらこちらに騎士が立っており、警備は万全なのだ。
東国のものは見知らぬものばかりで、好奇心が刺激される。まず最初に一目見てカレンが即購入したのが、団扇だった。
『うちわ』って、名前も変わっているし、なんだか和むような形だわ。
「さすが殿下。責任とれと言って、気持ちを強要するのではなく自分と向き合わせようとするなんて」
「ええ」
「いい機会だったんだわ。結婚してしまう前に、お姉様の恋に対する認識を変える」
「ええ」
「……ミリアリアお姉様、聞いております?」
「ええ」
「まあ殿下、ご機嫌よう!」
「ええ……ええっ?」
団扇の形に夢中になり、空返事ばかりだったミリアリアがようやく顔を上げた。その先にいたのは、したり顔のカレン。
「うふふっ、嘘よ、おねえさ……」
「ああ、久しぶりだな、マティラ嬢」
と、その後ろで外向きの笑顔を浮かべるテオドールだった。まさか後ろに本人がいるとは微塵も思っていなかったカレンは、あわてて後ろに向き直る。
「殿下!?ごごごご機嫌よう!」
「ふふっ」
彼女にしては意外なドジな一面に、ミリアリアが小さく笑い声をもらした。テオドールもおかしそうに口角をあげている。
「あ、あの、殿下を利用して申し訳ございません」
「いや、ミアはなにかに夢中になっていても俺には反応するって知れて嬉しかったからいい」
「まあ!」
そんなことを言ったら。
案の定カレンがキラキラと目を輝かせたので、ミリアリアはため息を吐きたくなった。他の人の前で好意を向けられるのもなかなか恥ずかしいものがあり、うろうろと目を泳がせる。
「羽目を外しすぎないようにな」
「はい。羽目を外さないギリギリのところまで楽しみますわ!」
「……マティラ嬢らしいな」
テオドールが苦笑した。ミリアリアが仲が良いので、それなりにテオドールもカレンの人となりを知っている。貴族令嬢らしくなく、わんぱくで、感情表現が豊かな可愛らしい女の子。それがカレンの印象だった。
「殿下、今日はお姉様をお借りしていますが許してくださいね」
「ああ。今日は貸してやろう」
そんな人を物みたいに、と呆れたが、二人なりの冗談混じりのコミュニケーションだろうと考えて納得した。
テオドールがミリアリアを見て、目元を和らげる。
「じゃあ、ミア。ちゃんと答えを出してくれよ。なるべくなら、いい方向で」
そして一瞬耳に触れるか触れないかぐらいの距離に近付いてそう囁くと、足早に城の奥へと去っていってしまった。
「…………」
「ああ、やっぱり素敵だわ。殿下って本当にお姉様のことがお好きよね」
うっとりとして去っていった方向を見つめ、ため息をつくカレン。ミリアリアは硬直したまま、「ええ、そうね」と硬い声で返した。
不意討ちだわ。それに、そんなことを言われるとプレッシャーに感じる。まだ全然考えも気持ちもまとまっていないというのに。だからこそ、もう隠すのも今更だと思いカレンに相談しているところだったのだ。
「……恋と向き合うのってどうしたらいいのかしら」
ずっと拒否してきたものを受け入れるのって難しい。
世の中の一人一人に問いかけたい。あなたはどうして恋をしたのかと。
どうして愛情だけではいけないの。相手に幸せになってほしいと思う、その気持ちだけではどうしてダメなの。
「お姉様って、どうして恋をしないと決められたの?」
不思議そうに、首を傾げながらカレンが問う。
「それは……」
ミアという私の前の生が、私の視界を塞いでいる。過去の恋が吹っ切れていても、つらかった思いが消えてなくなるわけではないのだ。
でもそんなことを言うわけにもいかず、口ごもったミリアリアに、カレンが眉を潜める。
「もしかして、思いを寄せる方がいらっしゃったの?」
「いいえ、そんな。私はテオのことばかりで、そんな暇もなかったし」
「そうよね。他の人が入り込む隙なんて全く見当たらなかったもの」
……そうではなくて。私は、婚約者という役割を全うするのに必死だったのよ。それは、自分と向き合うことから逃れるための一種の逃避だったのかもしれないと、いまなら思うけれど。
「ね、お姉様。私、エディといるととっても幸せなのよ」
すいと団扇で顔の下半分を隠すと、カレンが一人語りするように話し始めた。ミリアリアはそれを見つめて、数度瞬きすると小さく頷く。
「私って、ねえ、おしとやかとは言えない女の子でしょう。取り繕おうとしても、どうしてもできないのよね。でもエディは、そんな私を可愛いと言ってくれるの」
「……そうね」
さりげなくのろけられることは、たびたびあった。カレンはこういう子なんだ、でもそこがいいんだ、と、エディは本当に穏やかな顔をして、まるで目の前に愛しい人がいるかのように話すのだ。
「でも、何をきっかけにやっぱり落ち着きのある淑女がいいと言われるかなんて、分からないでしょう。人の気持ちって分からないもの」
その通りだ。いま、相手が私のことを好いてくれていたって、いつどんな風に心変わりをするかなんて、誰にも予想できないのだ。
私はそれが、……怖い。
「私だって、怖いのよ」
そんなミリアリアの気持ちを見透かすように、カレンがはっきりと言い切った。
「エディを好きになればなるほど、愛想を尽かされたときのことを考えると、とても怖くなる」
「なら」
「あのね、お姉様」
なぜ、と聞こうとしたミリアリアの言葉を、力強い声でカレンが遮った。
「私、毎日エディに恋してるの。会うたびにもっと好きだと思えて、会えなければ会いたくて好きだという気持ちが募っていくの。毎日がキラキラして、ちょっとしたことが嬉しくて、喜んで。逆に落ち込んだり、不安に思うことだってあるわ。でもそれって、悪いことなのかしら」
悪いこと、と考えたことはなかった。ただ、怖いと、嫌だと、拒絶していただけで。
そしてまた、カレンも同じように不安を抱いているのだと知り、ミリアリアの中の疑問が深まった。
ではなぜ、それでも恋をしようと思えるの?
「たしかに不安な気持ちや、つらい思いって、なるべくなら経験したくないわ。でも、そんな思いをしたからこそ、分かることだってあるのよ」
「……分かること?」
「そう。思い合えることはとても尊くて、奇跡のようなことだって。だから、失わないよう、大切にしようと努力できる。そして、応えてもらえたとき、本当に嬉しくて、それまでのつらかった気持ちも忘れられるくらい、幸せだと思えるんじゃないかしら」
少なくとも私はね、とカレンが付け足した。
遠くを見たカレンの頬が、うっすらと色づく。口許に柔らかな笑みを浮かべたその表情は、まさに恋をする乙女そのもので。
「やあ、カレン、ミア」
「警備のお仕事はいいの?エディ」
「今は休憩だよ。なにもなかったかい?」
人の隙間を綺麗にすり抜けて現れたのは当然、エディだった。言葉通り、休憩中のエディは団服の上着を脱いでおり、シャツ一枚という随分とラフな格好をしている。
カレンは少し曲がっている襟元を直してやると、エディに微笑みかけた。
「ええ、なにも。いつも気にかけてくれてありがとう、エディ。大好きよ」
「…………」
エディがさりげなくカレンの腰に伸ばしかけていた手もそのままに、硬直した。
ミリアリアはまあ、と口に手を当てた。珍しいものを見た気分で、このあとに続くであろう展開を静観することに決める。
「か、カレン?どうしたんだい?」
「たまには素直になってみるのもいいかと思っただけよ。こんな私は嫌?」
「まさか、全然!俺も大好きだよ、カレン!」
「きゃあっ」
あらあらあら。
すると、エディらしからぬ、感情に任せた行動をとったので、目を丸めた。人目も気にせずウキウキした声色で愛の告白をしたかと思えば、カレンを抱き上げたのだ。
これにはカレンも予想していなかったようで、顔を真っ赤にして暴れている。
「ちょっと、エディ!お、おろして!」
「ツンツンしているカレンも可愛いけど、素直なカレンも可愛いよ」
「っわ、わかったから!分かったからおろしてちょうだい!恥ずかしい!」
そう言うと、やっとエディはカレンを下ろした。しかしその表情は満足気で、麗しい顔がにまにまとした笑みで見事に緩んでいる。
誰がどう見たって、幸せそうの一言に尽きる顔だった。
「私、ちょっとあちらを見てくるわ」
お腹いっぱいになったミリアリアは、まだまだ甘い空気を撒き散らしている恋人たちにそう告げると、そそくさとその場から逃げることにした。
出し物をチラチラと冷やかしていると、男女の組み合わせの客が多いことに気がついた。当然だ。世の中には、恋人がいて夫婦がいて、世代が繋がれていくのだから。
手を繋ぎ、仲睦まじそうに会話をしている姿に、きゅうと胸が切なくなった。
いいな、と思うことが、ないわけではない。思い合う人々は、とても幸せそうで。
ただ、自分のことになると話は別で、自分が同じように幸せになれるとは思えなかった。
いっそミアの記憶がなければ、私だってこんなに裏切られることに臆病にもならず、テオに恋をしていたかもしれない。いや、確実にしていた。だってあんなに素敵な人は他にいない。そんなことは、長く側にいたのだから十分すぎるくらい分かっている。
でもそれなら、そもそも私はテオを御せる人として婚約者に選ばれることもなかったでしょうね……
結局は、そういうことなのだ。どんな過去だろうと、その過去があったから今がある。私の前世が今の私を作っているのだから、切って離せるわけもない。
……難しい。本当に。
適当に飲み物を買い、バザーの並びから抜け出した。今は恋人たちの姿を視界に入れたくない気分だった。
ちょっと外の空気でも吸ってこようかしら。
そう思い、中庭に解放されている扉へ向かおうとしたときだった。
「一人でどこにいくんだ?」
その声とともに、腕を掴まれた。決して強くはなかったが、振りほどけないぐらいには力のこもったそれに、身を固くして振り向く。
「……離してください」
「さっきまでご令嬢と一緒にいただろ?なんで一人なんだ?危ないだろ」
どうして知っているのよ、と呆れてため息を吐きたくなった。
怪訝そうに眉をひそめてこちらを見てくるその人、ユーリに、ミリアリアも負けじと顔を険しくさせた。
「今はお兄様が休憩中なので、邪魔をしたら悪いと思って離れてきたのです。ところで、先程も言いましたけれど、離してくださる?」
「それなら、俺も今から休憩だから、少し話さないか」
「はい?」
話すことなんてなにもない。もうユーリとミアの関係は、八年前に完全に終わったはずだわ。だらだらと続いていたのは、ユーリの一方的な未練だけで。
他人行儀な態度をとっているミリアリアに気付いているのかいないのか、ユーリはやっと腕を離したかと思えば団服を目の前で脱ぎ出す。
「お待ちになって。婚約者に誤解されたくないので、あなたと二人きりにはなれません」
「別に二人きりじゃなくていい。そのあたりの壁にでも寄りかかってればいいだろ?」
「……一体何の話をするつもりなの」
声を潜めてたずねたミリアリアに、ユーリは困ったように笑った。
「そんなに警戒するなよ。大丈夫、もうミアとミリアリア様を同一視してないから」
目を見張る。言われて気付いた。ユーリの目に、八年前からじりじりと送られていた熱がもう灯っていないことに。さらに、憑き物が落ちたようなすっきりとした表情に、逆に何があったのかと問いたくなる。
「とりあえず、端に寄ろう」
ユーリもミアを完全に吹っ切ったというなら、めでたいことだと思う。ようやく彼も、もう存在しない人物への不毛な気持ちを捨てることが出来たということだろうから。
でも、それならなぜミリアリアに話があるというのか。
全然予想がつかないミリアリアは、しぶしぶ提案に乗り、壁に身を寄せて話を聞くことにした。
「それで、話とは?」
「そう急がないでくださいよ、ミリアリア様」
「…………」
一体なんだと言うのだ。
今度はミリアリア様と呼び始めたユーリに、未知のものを見るような視線を送る。ユーリは、口許だけ笑みを浮かべながら目を伏せる。
「テオドール殿下が、うるさいからな」
「……そうですね」
「ミアと呼ぶな、ミリアリア様と呼べ」。ニールが剣術大会の日に暴露したことを思い出す。どうやらそれは、騎士団の中でも有名なようだ。
「小さいときからほんっとあの人は、ミリアリア様のことが好きだよな」
「……そう、だったみたいね」
テオドールの、ミリアリアに対する気持ちも。
「ミアと俺のことは知らないくせに、俺のこと目の敵にしてさ。俺も、ミアの隣に居座ってんのが気に食わなくて」
「……言い方を考えてくださる?」
「田舎育ちなもので、すみませんね、ミリアリア様」
ミリアリアとテオドールが一緒にいることにユーリが目くじらをたてるのは思い上がりも甚だしい。二人の関係は国の最高権力者が決めたものであり、それこそ田舎出の一介の騎士団員が文句を言えるものではない。そしてなにより、ミリアリアとユーリの間には、何の関係も存在しないのだから。
「どうしてもミリアリア様とミアを別人だと切り離しては考えられなくて」
それはさっき、自分も考えていたことだ。関係を清算したところで、ミリアリアはミアありきでのミリアリアで。でもそれは、ミリアリア自身の問題だ。やっぱりユーリは関係ない。
「だから、八年前に拒絶されてからも、ミリアリア様を追い続けてた」
「とっても迷惑でしたわ」
浮気を疑われる羽目になったのよ、こっちは。
声を尖らせてはっきりと告げると、ユーリが思いの外真剣な顔をして頭を下げてきた。
「申し訳ありませんでした。もうやめるから、許してほしいです」
「……え、ちょっと、頭をあげて!」
こんなところで頭を下げるなんて何を考えているのよ!
周囲の人がじろじろと見てきて、居たたまれない。予想外の行動にミリアリアは目を白黒させてあわてているのに、ユーリはなにも気にしていないようでゆったりと頭をあげた。
「そのうち誰かから話を聞き付けて殿下が飛んでくるかな」
「修羅場だわ……」
「はは。この前までだったら、そうだったかもな」
「この前?」
そうだった。この変わりようは一体なんなのか。この前と言ったけど、なにがあったのかしら。
怪訝そうに聞き返したミリアリアに、ユーリは落ち着かないのか、なにやら団服の袖やポケットなどをいじりながら答える。
「この前、エントランスにいただろ?二人で。見てたんだ、俺」
「まあ……」
「なんか、いまさら現実を突きつけられたっていうか。ミリアリア様の表情見てたら、色々と自覚させられて。俺、本当に迷惑かけてたなって逆に申し訳なく思った。テオドール殿下の婚約者である公爵令嬢のミリアリア様に、ミアの影を追い続けてたなんて。無礼にもほどがあったっていうか……」
本当に、身分違いもいいところだよ、と付け足したユーリに、ミリアリアはなんと言って良いか分からず、目を泳がせた。
本当に今更だとは、思うけど。
「あのときの二人、どう見たって仲睦まじくて、ラブラブでさ。本当に結婚するんだ、って衝撃を受けたんだ。そのときまでは、ミアは別に殿下との結婚に乗り気なわけではないと思ってたから。……でもそれは俺が、ミアは最終的に殿下とは結婚しないで、俺のところに戻ってくれるって期待してただけなのかもな」
「……ちょっと待って」
私にとっても、いろいろと衝撃だった。仲睦まじくて、ラブラブ?まさか、私とテオもバザーで見かけた恋人たちと同じように見えていたの?お父様がやけに心配していたのもそれが理由?
それに、ユーリの言葉が当たらずも遠くないことに驚いた。ユーリのところへ戻るのはありえない。でも、テオとの結婚は義務のように思っていて、特に望んでいたわけではなかった。
ユーリはそのミリアリアの微妙な気持ちに気付いていたらしい。付け入る隙を与えていたのは、ミリアリアの方だったということだ。
「今までと、なにがちがったの」
ドキドキとうるさい心臓を胸の上から押さえながら、緊張した面持ちでたずねる。ユーリは眉尻を下げ、少し悩むそぶりを見せた。
今まではそんな風に見えていなかったのでしょう。でもこの前、エントランスにいたときは違った。……どうして?どんな風に?
「それは、自分が一番分かってるんじゃないか?」
「……私が?」
「……自覚がないのか?」
視線を交差させたまま、数秒固まる。
違ったのは……私?なにがかわった?今までとこの前で、私の何が違っていた?全然見当がつかない。むしろ違うのはテオだったはずだわ。いつもより積極的で、好意を全面的に出してきていて。私はそれに戸惑っていただけ、なはず。
ユーリがはは、と空笑いをこぼした。
「もしかして、俺のせい?そりゃ、嫌にもなるよな」
「どういうこと?」
「ちょっと今から俺、独白を始めるから。黙って聞いてて」
押しきるようにそう言われ、疑問だらけだったがミリアリアは仕方なく口を閉じた。
ユーリはバザーの方を向きながらも、遠くを見るようにして話し始めた。
「俺、殿下が羨ましかったんだよな。まず一番に、ミアが側にいてくれるところが。ずるいよな、なんでも持ってて。王子で、容姿にも恵まれてて、人望もあって。俺とは正反対だ。俺は、家庭環境に恵まれなくて、騎士学校入って、やっと騎士になれて」
それは違う。心の中で意見したミリアリアに同調するように、ユーリは頷いた。
「そう。本当は違うんだ。俺は殿下と違ってなにもなかった。でも、ミアがいた。俺の側にだって、ミアがいてくれてたんだ。俺と殿下の違うところは、それに気付けたかどうかなんだと思う。殿下は、気付いてた。ミアが、かけがえのない存在だって。いつまでも側にいられるよう、努力してた。俺は気付けなかった。だから自分から手放して、もう二度と手に入らなくなってしまった」
色々なことが思い起こされて、ミリアリアは固く目をつぶった。
騎士になるために王都へ行き、他の女の子を選んだユーリは、ミアの愛情にあぐらをかいていたのだと泣いてすがって謝った。
不安やつらい思いがあるから、思い合えることの尊さに気付けると、大切にしようと努力できると言ったカレン。
そしてテオドールはきっと、その不安を抱え続けてきた。ミリアリアがいつ自分を置いていってしまうかに怯えながら、そうならないようにたくさんの努力をしてきた。
ミリアリアから与えられる無条件の愛情は、心地よかっただろう。でも、それがいつまでも続く絶対的なものではないことに気付いていたからこそ。
「羨ましいよ。少しの余所見もせず、一途にミリアリア様を思い続けていた殿下が。大切なものを大切にする方法を知っている殿下が。
俺も同じようにミアだけを思っていたら、今もミアは俺の側にいてくれてたのかなって、そう、考えちゃうんだよ」
ミアが初めて王都に来た日。ユーリは一人で買い物なんかしてて、それをミアが驚かせて。「会いたかったよ」なんて言葉を交わして、二人で久しぶりの再開を喜んで、近況を細かく報告しあっていた手紙の話なんかもして。騎士団に入ったユーリとともに、何事もなく結婚して王都で暮らして、子どもなんかもいたりして。
そんなありきたりな、でも幸せな日々が、あったのかもしれない。
でも、そんなの。
「ありえないわ」
つい口について出た言葉に、ユーリの肩が跳ねた。
あのときミアが助けた赤ん坊は。お兄様は、どうなるの。妻と息子を失ったオーフェン公爵は再婚する気力もなくて、マティラ令嬢は別の婚約を結んで。やんちゃな王子が、どこぞのご令嬢と結婚をして。
きっとなにもかもが違っていた。
たった一人、されど一人。でも、それで変わらないものはない。
もし、なんて言い出したら、きりがないのだ。
「……わかってる。ありえない。過去のもしも、なんて、考えたって意味がないんだ。だから、未来のもしもを考えて行動できるやつが、きっと、上手くいくんだろうな……」
もしかしたら、こうなるかもしれない。もしも、こうしたら。未来はわからない。だから、未来を少しでも良いものにするために、人は努力をするのだ。
「だから、ミリアリア様には失敗しないでほしい」
「……私?」
「失ってから気付くんじゃ遅いって、俺は身を以て痛いぐらいに知ったよ。だから、ミリアリア様には同じ思いをしてほしくない。本当に失いたくないものがなにかを考えて、大切にしてほしいんだ。それで、幸せになって」
ユーリの声が、震えていた。ミリアリアは目を見開き、ユーリを凝視した。
幸せになって。
その言葉が、今、ユーリから返ってくるとは思わなかった。
「ミアは俺にたくさんのものくれた。俺を育ててくれて、導いてくれた。なら、今度は俺が、同じことをしてやる番だろ。俺は、俺以外とのミアの幸せは願えないけど。ミリアリア様の幸せは願うよ。それだけが、俺が唯一ミアに返せることだと思うから」
愛情ってきっと、巡り巡ってくるものだ。
人を愛するという気持ちは、誰かに愛されたときから、受け継いでいるのだから。巡り巡っていつかどこかで、こうして自分のところへと返ってくるのだ。
「間違えることなく、ミリアリア様を愛してくれる殿下と、どうか幸せになってください」
それが心からの言葉だと分かって、苦しくなった胸をぎゅうと押さえつけた。涙がこぼれそうで、あわてて前を向き、顎を上げてそれをこらえる。
ミアはユーリに応えてほしかった。自分を、見てほしかった。ユーリからの愛情が欲しかった。恋していた。
彼女は生きているうちに応えてはもらえなかったけれど。
今、私がその分の愛情を、受けている。
ミア。あなたの恋は、愛情は。無駄じゃ、なかったよ。
「俺が言っても、説得力ないと思うけどさ。人の気持ちって、そんな簡単に変わるものじゃないよ。一瞬の気の迷いとかはあっても、やっぱり好きなものは好きで、その気持ちは消えてくれないもんだよ。それも、俺が自分で経験した。だから、無理に目を反らさないで、また人を好きになってみて」
見上げたミリアリアに、ユーリは頼もしさを感じさせる顔つきでしっかりと頷いた。
17のミリアリアよりもずっと年上なはずのユーリを、この日初めてミリアリアは本当に大人の男性なのだと思えた。それは、ユーリがやっとミリアリアをミアではなく、ただの年下の女の子として見るようになったからなのだろう。
「いつまでも現実から目をそらしてちゃダメだ。殿下のこと、信じてみろ。一歩踏み出せないなら、俺が背中を押すから。大丈夫。今度こそ、幸せになれるから」
ミリアリアがなにかを言う前に、ユーリがミリアリアに向き直った。
「俺も、現実を見る。だから。今日で最後だから、言わせて」
決意の滲んでいた顔が、へにゃりと痛そうに歪む。そして、続いたそれは、ミリアリアではなく、ミアへの言葉だった。
「今までありがとう。それから、ごめん、ミア。痛かったよな。本当に、ごめん。痛い思いさせてごめん。つらい思いさせてごめん。ごめん……」
八年前にも謝罪は聞いた。でも、あのときの謝罪は、自分本位の心変わりをしたことへの謝罪だった。
今のこれはちがうと、はっきりと分かる。自分の心変わりによって受けたミアの傷と、そこから繋がってしまった死に対して、謝るものだった。
バカね。たしかにユーリに拒否されなければ、私は事件に巻き込まれなかったかもしれない。でも、あなたが殺したわけではないのだから、事件のことまで気に病む必要もないのに。
もういいの。もう、いいんだよ。
謝り続けるユーリに、ミリアリアの中のミアが、そう、声をかけた気がした。
ほどなくして、ユーリの言っていたとおりにテオドールが飛び込むように登場した。
ただ、恐らく彼が想像していた状況とは違い、ひたすらユーリが泣いていて自分の婚約者は毅然としてその横に立っているだけというそれに、困惑しているようだったが。
見せつけるように手を引いてその場から連れ出されたミリアリアは、「何をしていたんだ?」というテオドールの質問には答えず、力強く笑いかけた。
「テオ、待っていて。もう少しで答えが出そうだから」
現実を見よう。ユーリはもう、ミリアリアの中にミアを見出だそうとはしない。ミリアリアもまた、自分が目をそらしているという現実を、しっかりと見据えなきゃいけない。
失ってからでは、遅い。私が本当に失いたくないものは。つらい思いをしたくなくて、気付かないふりをしていた、私の気持ちは。
心の中で自分に問いかけるように何度も繰り返し呟く。
ずっとかけていた、恋はするべきではないという自制が、するすると緩んでいくのを感じて、ミリアリアは大きく息を吐き出した。
愛情が返ってくる瞬間は、欲しかった気持ちがもらえる瞬間は。とても嬉しくて、幸せなものだ。つらかった思いも、霞んでしまえるほどに。
だから素直に受け止めよう。相手の気持ちも、自分の中にある気持ちも。
答えはもう、すぐそこにある。