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庭に通じる窓を開けて、朝の澄んだ空気を肺一杯に吸い込む。草木や花、土の匂いが入り交じった自然の匂い。はあっと大きく息を吐き出すのと同時に、後ろから声がかけられた。
「ミア、早いね」
「お父様」
振り向くと、クリフがタオルを片手に立っていた。朝の鍛練でもしていたのだろう、少し額に汗を浮かべている。
「なんだか眠れなくて」
いつも起きる時間の一時間も前である。夜も寝付きが悪かったし、しっかり睡眠をとれた気がしない。
ミリアリアが情けなく眉の端を下げると、クリフはおかしそうに口を歪めた。
「試合をするのはミアじゃないんだがね」
「本当に」
ついにこの日がやって来た。実力試しとも言える、騎士団主催の剣術大会。
テオが言い淀んでいたことや、ご褒美のこと、兄や父のこと。色々なことが頭にちらついて、自分が出るわけでもないのに緊張してしまった。
こんなことは初めてで、どうしていいか分からなかった。
「殿下の活躍が楽しみだね」
「え、ええ、はい」
いつものような含みのあるクリフの言葉にもうまく返せない始末。クリフもさすがに異変を感じ、おや、と片眉を吊り上げる。
「なにか殿下とあったのかい?」
核心をついた一言に、ミリアリアは分かりやすく動揺した。
そりゃあ、誰でも気付くだろう。こんなの、私の柄じゃないわ、と自分に呆れてしまう。
去年より勝ち上がったらキス。改めて考えると、嫌ではないけれど照れるものね。テオの活躍は願っているけれど、私、素直に喜べるのかしら……
テオだって私なんかのキスを願うのではなく、食べてみたいお菓子とか、作って欲しいお菓子とか……とにかくお菓子とかにしたら良かったのに。
お年頃の男の子の好奇心はすごいんだわ、きっと。
「いいえ、なにも。ただ、無茶をして怪我しないかと不安に思っていただけですよ」
「そうか。まあ、試合前にしっかり声をかけてあげなさい」
王子に対して上からなこの言葉は完全に指導を担った騎士団長としてのそれである。ミリアリアは当然もちろん、と笑顔で頷いた。
「しかし、これが終わったら残すものは卒業か……」
隣に立ち、窓の外を眺めながらクリフが感慨深そうに呟く。外ではパタパタと鳥が鳴き声を上げながら羽ばたいていくのが見えた。
「お父様、なんだかんだ言ってすっかりテオのお父様でもありますよね」
自分の息子でないテオドールの卒業にそこまで思いを馳せられるなんて。
ミリアリアがからかうように言うと、クリフは嫌そうに首を横に振った。
「ちがう!何度も言っているだろう、卒業のあとには結婚が……!」
「ああ、そちらですね」
感慨深かったのではない。ただあれは遠い目をしていただけなのだと分かり、ため息が出た。そして、飛んで行ってしまった鳥を見つけるべく遠くに視線を投げ掛ける。
「お父様」
「なんだい」
「私がお父様の手から離れるとき、お父様は何を思いますか」
娘を父にやるのは嫌だとか、そういう父的な親馬鹿発言を求めているのではない。
真剣に問いかけたミリアリアの真意に気付いているのかいないなか、クリフはのんびりと手で顎を擦った。
「そうだね……」
「はい」
「寂しいけれど、いつか必ず子どもは親の手を離れるものだ。そうしたら、あとはその子が離れていったその先で幸せでいられるようにとに願うだけかな」
「…………」
子はいつか親から離れる。
あのクリフがそう断言したことに、ミリアリアは少し驚いた。どんなに嫌だと言おうが駄々をこねようが、その事実は変わらない。クリフはちゃんと、分かっているのだ。
「子の幸せを願うのは親として当たり前だと言ったのを覚えているかい」
「はい」
「逆に、願えないのは親ではないと私は思うよ」
だから、ミリアリアが本当に嫌ならテオドールとの婚約は破棄するつもりだし、望むのであれば泣く泣く手を尽くして最高の送り出しをすることだろう。それは、直前の今でも変わらない。
もうなにも変わらないだろうと踏んでいるミリアリアには、言わないが。
「ミア。私はいつでもお前の味方で、一番にお前の幸せを願っているよ」
柔らかな眼差しを受けて、ミリアリアは眩しいものを見るように目を細めた。
「欲しいものがあるなら欲しいと言ってみなさい。もしかしたら手に入るかもしれないし、入らないかもしれない。やってみなきゃ成功するかなんて分からないことは、世の中にたくさんあるのだから」
咄嗟にクリフと合わせていた目を反らした。隠した自分の胸の内を暴かれている気がして、そわそわと気分が落ち着かなくなる。
「失敗することを恐れてしまって、意地になってなにも動かなければ、本当に幸せにはなれない。もっとお前は、周りと自分を信じなさい」
ミリアリアは言葉を失った。
私はお父様にそんな風に見られていたの?私は、意地を張っているというの……?
「さ、朝食にしよう。早めに行って準備もしたいからね」
なにも言えないミリアリアの頭をクリフの無骨な手が柔らかく撫でた。
「……はい」
まだ考えたいことはあったが、今日は剣術大会の日。他のことは考えずにお父様やお兄様、テオの応援をするべきだ。
話を切り上げたクリフにミリアリアは賛成して、食事の間へと向かうことにした。
大会が開催されるのは城下街の大広場だ。開会式が終われば、トーナメント式で順々に試合が行われる。団員のほとんどが参加するため、時間節約で第一試合は3分のみだ。決着がつかない場合は判定となり、着々と人数は絞られていった。
ミリアリアは危なげなく第一試合を通過したテオドールと、テオドールの友の試合を眺めていた。
「ニール様って普段おちゃらけたところがあるけれど、強いわよね」
「まあな。あいつはある種の詐欺師だ」
公開日に王子であるテオドールの背中を遠慮なくバシバシと叩いていた彼である。いつもふざけていて軽い調子だが、大会で毎度上位に食い込む実力者だ。
テオドールはたまにしか勝てず、ひっそりと打倒を目標としているのをミリアリアは知っている。
「今年は当たりそうなの?」
一昨年の大会では第二試合で当たり、あっさりと敗北してしまっている。だから尋ねると、テオドールは複雑そうな顔で首を振った。
普段から稽古で剣を交えていても、大会となれば本気度は違う。おそらく戦って実力を試したい気持ち半分、確実に勝ち上がるために避けることができて安心する気持ち半分なのだろう。
「だが、四回戦で……」
「?」
「…………」
言い淀んだテオドールの戦歴は、なんとか勝った去年の三回戦が最高である。初めて参加した大会では初戦敗退だったので、地道に努力した成果だ。
つまりご褒美がかかっているのは、四回戦。
しかし、四回戦目ともなると、騎士団の中でも強者たちが残って格段と勝つのが難しくなる。
ということはまさか四回戦でお父様かお兄様と?あらまあ。それだったら勝つのは厳しいわね。
「……とにかく。絶対に勝つから、見ていろよ、ミア」
「ええ、ちゃんと見ているわよ」
強い意志を秘めキラリと目を光らせたテオドールは、ミリアリアの手を掴む。ミリアリアはそっと自分の手を添えて精一杯の笑顔で応えた。
ニールの試合が終わり、クリフとエディの勝利も見届けたところで昼食をとることにした。昼までに第一試合がほとんど終わったので、滞りなく大会は進んでいるようだ。
街の通りのベンチに腰掛け、サンドイッチの入ったバスケットを膝の上にのせる。
実は観戦中もずっと持っていたものだ。テオドールはすぐに気付き持つと言ってくれたが、試合の残っている選手に持たせるなんてありえない、と拒否した。
バスケットの中身を察しているテオドールは当然のように手を差し出した。
「はい」
ミリアリアもにっこりと微笑んで手渡す。
サンドイッチはミリアリアが昨日から準備しておき、朝食から開会式までの間に作った。中身は無難な食べ物を選んだので、不味くはないはずだ。
まあ、テオならまずくても文句を言わず食べることは簡単に予想できるけれど。
「うまい」
お菓子をあげようとなにをあげようと、この通り。彼の優しさなのかしら。思いながら、ミリアリアも自分の分を取り出して食べ始めた。
「二回戦は勝てそうなの?」
「ああ」
「そう。でも、結果だけが全てじゃないのだから、何度も言うようだけど、無茶して怪我はしないでね。テオがいつも頑張っているのは知っているもの」
こう言えばなにがなんでも勝つために、なんて行動は起こさないだろう。保険をかねて言うと、テオドールは不満そうについとその顔を背けた。
「絶対に勝つと言ってるだろう」
「ええ、楽しみにしているわよ」
「…………」
はあ、とため息までつかれて、首をかしげる。
一緒に熱意を持って、絶対に勝ってねと素直に応援をした方が良いのかしら?それとも、もしかして、ご褒美を遠回しに嫌がっていると思われた?うーん、お年頃って難しい。
耳がタコになりそうなくらい聞かされているテオドールは、白けた顔でサンドイッチにかぶりついた。
全然応援されている気がしないのだ。無茶するな、怪我するな、とそればかりで。
「なんでそんなに怪我をすることを嫌がるんだ」
そのしつこさにテオドールがついたずねると、ミリアリアはきょとりと目を丸めた。
ぽろりとサンドイッチの中身が一つ落ちて、恥ずかしそうにささっと拾って紙ナプキンに包む。そしてテオドールのほうを向いて答えた。
「婚約者の心配をするのは当然でしょう?」
心からの言葉だった。
さらにげんなりとして肩を落としたテオドールの気持ちを、真剣に言ったミリアリアには理解することはできそうにない。
「それに、テオが痛い思いをするのは嫌だもの。刃物が当たったら痛いわ」
忘れはしない。凶器で刺されるあの熱と痛みは。
剣術大会は当然剣を用いる。防具は着用するし、殺すことは禁止されている。急所を狙うのも良しとされていない。だから主に相手の剣を弾くことで勝敗が決まる。
しかし、戦うのは人だ。手元が狂えば、狙っていなくとも重傷を負うことだって充分に考えられる。防具の上からだって剣が当たれば痛いだろうし、ちょうど隙間を当てられるかもしれない。そして、テオドールが強くなり、順位を上げるほど、試合も切迫したものになっていく。
だから心配なのだ。今年は張り切っているから、なおのこと。
「……そんなどんくさくない、俺は」
「何が起こるか分からないでしょう」
そもそも相手だって同じ条件だ。呆れるテオドールに、理解を得られずはっきりと顔に出してはいないが不満気なミリアリア。
男女の考えの違いもあるだろう。しかし、どうにも拭えない違和感に、テオドールは過去を思い返して、疑問を口にした。
「そんなに怪我を恐れるほどのなにかが今までにあったか?」
……話を変えなければ。ミリアリアは咄嗟に思った。気にしすぎて不審に思われている。確実に。
「ないからこそ、ちょっと怖いだけよ。まあ、相手はみんな気心が知れている人達だものね。ごめんなさい、心配しすぎたわ。さ、早く食べましょう」
捲し立てるように少し早口で言い切ったあと、異論は認めないとばかりに止まっていた食事を再開させる。
「…………」
その隣で、テオドールが目付きを鋭くさせてなにかを考え込んでいるだなんて、ミリアリアは露程も気付かなかった。
二戦目もなんなく勝ち上がったテオドールは、確実に腕を上げていると言っていいだろう。一緒に観戦していたエディが「ほお」と感嘆の声をあげた。その隣ではカレンはパチパチと手を叩いている。
「手を抜かずにしっかり鍛練をしていたんだな、殿下は」
「よかったわ」
見ていてハラハラする試合はしないでほしい。こっちの方がよっぽど緊張して疲れるのだ。お父様やお兄様は、まだ安心して見ていられるのだけれど。
「エディから見て、殿下は次の試合、勝てそう?」
「うん、多分ね」
「まあ。本当?」
「殿下の方が上だと思う。今年は運が良かったね」
次の対戦相手はテオドールの前の試合ですでに決定している。お兄様が言うのなら間違いないだろう、とミリアリアは安堵の息を吐いた。
ならば、心配するのは四戦目だ。四回戦まで行くのは九人のみで、もちろんエディが言うとおり三回戦までの運もあるが、腕のいい人間ばかりになる。試合の時間も伸びるので熱戦を繰り広げることになるだろう。
エディはミリアリアを横目でちらりと見下ろし、次に選手用に作られている休憩所でニール達と休んでいるテオドールを見た。
そして最後にもう一人、広場の隅でこちらに痛いぐらいの視線を向けてきている男に視線を移した。その瞬間に逸らされて、何とも言えない気分になる。
「三角関係……」
と言ってもいいのだろうか。ぼそりと呟いたエディを、カレンはしっかりと聞き取り眉を潜めて見上げた。
ミリアリアはこちらに気付いたテオドールにおしとやかに手を振っている。
「ミア、殿下が四戦目で当たる相手が誰だか聞いた?」
「まだ決まってないでしょう?」
「決まってるようなものだよ。あの人は確実に勝ち上がるから」
ピタリとミリアリアが手の動きを止めた。
エディのこの言い方。あの人。なにやら時折様子がおかしかった婚約者。……そういうこと。
「応援してくれたら、きっと喜ぶよ、殿下」
そんなの当然だ。なぜ私がテオではなく彼を、ユーリを応援するのだ。ミリアリアは、テオドール殿下の婚約者なのだから。ああ、それよりも。
「絶対に無茶する気だわ……」
意識してるみたいだから、そんな人が相手で無茶をしないわけがない。自分も気にしすぎていたが、それはテオドールも同じだったのだ。しかもそれがご褒美がかかっている四戦目なのだから、なんてことだ。全然、運が良くない!
「ああ、ユーリ様なのね」
カレンもそれだけで合点がいったようで、ぽんと手を叩いた。
しかし、なにやら少し考え、無言でじっとエディの顔を見つめた。エディはごまかすようににこりと微笑みを返す。
「…………」
「…………」
「さあ、俺はそろそろ行こうかな」
視線での探りあいに先に耐えられなくなったのは、エディだった。
あの兄が。これが惚れた弱味というものかしら。
二人の目だけでのやり取りを理解できなかったミリアリアは、逃げるように休憩所へ去っていった兄の後ろ姿を感心したように眺めていた。
「どういう意味かしら」
「なあに?」
「お姉様……」
顎に手を当てて考えていたカレンはついと顔を上げてミリアリアを見て、横に首を振った。
「ありえないわ」
どう考えたって、ありえない。だって、ユーリが思い続けているという相手は死んでいるのだから。
カレンはミリアリアの手を掴んだ。温かい。生きているのだから、当たり前だ。
「ミリアリアお姉様、もっと近くに行きましょう」
掴んだ手を引いて、広場の中心に踏み出す。
そんなありえないことに頭を悩ませているよりも、愛しい人の勇姿を目に刻み付けなければ。一戦たりとも見逃せない。公開日以上の数の女性がここぞとばかりに見に来るのである。位置取りは負けられない。
「ええ」
貴族という身分はこのときばかりは関係ないのだ。なんせ、お祭りなのだから。
そして、それに乗じて悪さをする人間もいるので、ひっそりと護衛はついているし、手が空いている━━主に試合で負けた団員があちこちを見回っている。
身分に息苦しさを感じてる者からすれば、好きにはしゃげる絶好の機会である。そしてそれは、まさに自分の手を引いている彼女がよく当てはまるだろう。
意気揚々と人混みを掻き分けて進んでいくカレンに、ミリアリアは苦笑をこぼした。
生まれ変わらなければ、死ななければ。
自分はこの一日を祭りとして楽しみ、目当ての騎士を見るだけの一民衆だったのかもしれないと思うと、自分が今参加者の家族として、婚約者として、ここに立っていることに不思議な感覚がした。
エディの予想通り、テオドールは三戦目も勝利した。さすがに簡単にはいかなかったが、やはりテオドールの方が実力が上だったらしい。
四戦目までの合間を縫って、念を押すために休憩所に向かうと、テオドールとニール、それからもう一人、オレイグが端で並んで座っていた。礼儀正しかったあの青年である。
「あ、ミア様」
「ミリ……なんでもない」
「ミア様、聞いてくださいよぉ!殿下ってば……」
「ばか、やめろ!」
身を乗り出して話し掛けてきた二ールの頭をテオドールが後ろからつかみ、無理矢理下げる。したがって、ニールがその続きを言うことは叶わなかった。
まあ。テオドールの乱暴な動作に、何を言おうとしていたのか気にする以前に驚く。……テオってやっぱり男の子なんだわ。こんなこともするのね。
オレイグがやれやれと肩をすくめ、ミリアリアに軽く頭を下げた。
「すみません、ミリアリア様、こいつのことは気にしないでください」
「俺のことぉ?」
「当たり前だ。余計なことを言うな」
「余計なこと?」
ムッと眉間にしわを寄せて睨み付けるテオドールを、ニールはさして気にせず、へらりと笑った。そして。
「殿下、ミア様って呼ぶと怒るんすよ」
すぱん、と小気味いい音が響いた。
叩いたのはテオドール……ではなく、オレイグだった。テオドールも手を上げていたのだが、それより早くオレイグが叩いたのだ。
「…………」
ええと。
どうしていいか分からず固まるミリアリアと、先を越されたことで行き場のなくなった手を浮かせたまま震えているテオドール。
オレイグが黒い笑顔を浮かべながら、涙目で頭を押さえているニールの首根っこを掴んで立ち上がる。
「すみません、ちょっと抜けますね。殿下、遠くで応援してますね」
誰が止められたであろうか。有無を言わさぬオーラを醸し出す彼を。
そして、謝りながら助けを求めるニールが引き摺られていく様を、真顔で見ているテオドールもまた恐ろしくて、ミリアリアはひっそりと震えた。
二人の姿が見えなくなったところでニールの言葉を思い出した。
テオが、ミアと呼ぶのを怒る?
「どうして?」
去っていったオレイグとニールのことには触れず、時間差でたずねると、テオドールは表情を固くした。さらに、言いづらそうに目を反らす。
「テオ?」
「……ミアは、愛称だろう」
催促するように語気を強めて名前を呼べば、観念したような弱々しい声が絞り出された。
たしかに愛称だけれど、それが一体なんだというの?
テオドールは片手で顔の上半分を覆ってため息をついた。
「だから……俺や身内以外に、そう呼ばせるのが、嫌なんだ」
分からせるようにゆっくりと述べられた理由に、ミリアリアは呆気にとられた。
えっと、それって。……独占欲というやつかしら。テオは強いタイプだとは思っていたけれど。つまりあの言いかけは、ミリアリアと呼べと、そう言おうとしていたということ?
ミリアリアのなんともいえない反応を見て、テオドールが辛そうに目を強くつぶる。そして脱力して、ぐったりと顔を伏せた。
「……引いただろう」
「いえ、全然」
「は?」
即答したミリアリアに、テオドールも即座に顔を上げた。バッチリと目が合う。あら、テオ、なんだか少し疲れてるみたいだわ、などと関係のないことを考えた。
「うざいと思わないのか」
「全く」
「でも、また子どもだと言うんだろ」
恨めしそうな言葉には、少し間を置いて大きく頷き、肯定した。
子ども、と言われればそうかもしれない。子どものときの感情の、延長線上にあるものだろうから。でも慕ってくれている証拠でしょう。
私がテオに独占欲を持ったことは、なかったけれど。
やっぱり……と二度目のため息がテオドールからこぼれていく。
「殿下ー、もうすぐ殿下の試合ですよ」
団員が遠くから声をかけてきた。
まずいわ、念を押しに来たはずが全くその話をしてない。ミリアリアが焦っている間に、テオドールは「わかった」と立ち上がった。
一度考えるように目を伏せてから、ミリアリアを見据える。
「なあ」
「ええ、無茶はだめよ、無茶は」
テオドールの言葉など聞かず、とにかく説得を試みる。
だって、ユーリは強いらしいから。お兄様だって、絶対にここまでは勝ち上がると確信しているぐらいだもの。テオの方が弱いとかそんなことを言いたいわけではないけれど!
「ミア」
今度はテオドールが言い聞かせるように力強くミリアリアの名を呼んだ。
「はい」
反射的に背筋を伸ばし、答える。やっとテオドールの真剣な様子に気付いた。やっぱり疲れてる気がする。それからどうしてだろう。テオドールが、行き先が分からず困っている迷子のように思えた。
その理由は、すぐに分かった。
「ミアは……ミアは。
どうしたら俺を対等に、……男として見てくれる?」
一瞬、思いもよらなかったそれに息が止まった。テオドールの言葉が、頭の中で何度も反響する。
対等に、男として。
その文字の羅列を言葉として認識すると同時に一気に脳がフル回転し、ドッドッと鼓動が激しくなる。
「……っ」
その瞬間、ミリアリアははじめて今までの言動のすべてを理解した。
子ども扱いをされるのが嫌なテオドール。何歳になろうと、子どもだろうと、大人だろうと。
嫌なのは、ミリアリアに子ども扱いをされて、ミリアリアと対等になれないことだったのだと。男として見られないことなのだと。
それは、テオドールを弟のように思っている自分の気持ちとは違うものだ。
私はテオを雛鳥だと思っていても、テオは私を親鳥となんて、思っていなかったのだ。
思い返してみれば、それらしいことはあった。なのに、そう言われるまで気付かなかったなんて。
愕然として言葉を失うミリアリアに唇を噛み締めて、テオドールはちらりと視線を他に向けた。その先にいるのは、次の対戦者であり、テオドールにとって因縁の相手である。
「あいつに勝ったら、俺はミアに意識してもらえるか」
ちがうの、テオ。関係ないの。きっかけはたしかにユーリだけれど、ちがうのよ。
心の中で何度も言い訳する。色々な気持ちがぐるぐると混ざりあって、言葉がつっかえて出てこなかった。
「……ミア。忘れるなよ。勝ったら、キスだからな」
いまになってそのご褒美が彼にとってどんな意味を持つのかが分かって、泣きそうになる。
私はなんてことを言ってしまったのだ。今まで、どれだけの仕打ちをしてきたのだ。彼に好きな人ができたら応援すると言った、その口で。
テオは、どんな思いで。
「お願い。怪我だけは、しないで……」
まだ全然気持ちの整理がついていないのに、それ以外になにが言えただろう。きっと意味を成さない、保険。
私はユーリではなくて、あなたが大事なのよ。その気持ちは、ホンモノだから。婚約者としてだけじゃない。どんな種類だろうと、ずっと側にいてテオに対して積み重ねてきた私の気持ちだから。
「行ってくる」
試合が終わったとき、私たちの関係はどうなるのだろう。たった一言で、ころりと人の関係は変わる。
変わらないものなんてきっと、どこにもない。
滲む視界の中で、待機場へ向かっていくテオドールの見慣れた背中が、ひどく遠く見えた。
パタンと救急箱を閉じる音が、やけに大きく聞こえた。エディとニールの試合で沸いている大広場の歓声も届いているのに、まるでこの空間だけが切り離されているように、静まり返っている。
「殿下が冷静を欠くなんて、珍しかったですな。やんちゃっ子で落ち着きのなかった幼き頃を思い出しましたよ」
白い髭をいじりながら、城から駆り出された医師が楽しそうに小さく笑った。
むすっとして口をへの字に曲げているテオドールの頬には、大きなガーゼが当てられている。兜を弾かれてなお特攻した際にやられたのだ。
あれほど言ったのに、やっぱり聞きやしない。ミリアリアは少なからず怒っていた。試合前のやり取りなど無視してしまえるほど。
ユーリの鋭い剣撃がテオドールの頬をかすめ、血が吹き出たとき。あのときほど生きている心地がしなかったことはない。どれだけ自分が震えていたかなど、不貞腐れているこの王子は分かりはしないのだろう。
ユーリもユーリで、なんだか勝利のためだけとは思えない動きが何度かあったように思える。
よく分かった。あれは完全に、私情を挟みまくったただの喧嘩である。
「惜しかったですが、また来年頑張って下さいね、殿下」
ありきたりな言葉で締め括った老医師は、救急箱を持ってゆっくりと歩いて部屋を出ていった。恐らく別室で軽傷のために後回しにされたユーリの元へ向かったのだろう。
治療用に借りられている宿屋の一室で二人きりになったミリアリアとテオドールは、お互いに不満気な顔でそれぞれ違う方を向いていた。
ミリアリアはベッドの側にある椅子に腰掛け、壁の方を。テオドールはベッドに横になり、ミリアリアのいる反対の方を。
空気が悪い。分かっているけれど、どうにかしようとも思わなかった。
どうでもいいのよ。二人の勝敗など。どちらが勝とうと。生憎私は女だから、男のぶつかり合いなどは理解できないし、そうでなくても、二人がそもそもぶつかる理由がないというのに。
テオがユーリを意識して、熱くなる必要が、どこにあるっていうの。
テオがいつも努力してるのは知っていると言ったわ。どうにか、怪我をしないようにとも。私はそれで、それだけで、よかったのに。
「勝ちたかった」
ぽつり。テオドールから出た消え入りそうな声に、振り向いた。
勝ちたかった。でも、負けた。惨敗とは言わずとも、実力の差がはっきりと出る試合だった。でもその勝利の願望は、剣の腕だけの話じゃない。
テオドールが体を起こした。こちらに向けられた痛々しい顔に、ミリアリアは顔をしかめる。
「俺は、ミアとあの男の間になにがあるなんて分からない」
「なにもないわ。テオが思うようなことは、なにも」
「なにも、ではないだろう」
ピシャリと冷たく否定され、体が強張る。しかし、絶対に目は逸らさず、じっとりとテオドールの青い瞳を見つめ続けた。
「分かってる。ミアが浮気をするような女じゃないことは」
「じゃあなんだっていうの」
「さあ。そもそも8歳の時点でなにをどうできたんだろうな」
口調がきつくなったのは許してほしい。まだ自分は許していないのだから。ふっと笑みを浮かべたテオドールが、雰囲気を和らげて肩を竦めた。
「でも、なにかがあるだろう」
俺の知らない、なにかが。
泣きそうな顔。迷子のように、すがるように、答えを求めている。
テオドールは、ミリアリアの頬に手を伸ばした。ミリアリアは抵抗しなかった。ぴたりと触れた手は熱を持っていて、それが少しミリアリアの怒りを抑えた。
「ミリアリア」
頬にそっとキスが落とされる。
唇を合わせることはできない。結果は第三試合までだったから。ご褒美はあげられない。そして、この先の私たちの関係が、決まるまでは。
「俺は、お前が好きだよ」
どうしてそんなに、綺麗な顔で笑うの。気付いてしまえば、彼がいつもどんなに私を愛しさを込めて見てくれていたのかがよく分かる。
ミリアリアは、ついにテオドールから潤む目を隠すように俯いて。
「ミアは……あの男が好きなのか?」
次の言葉に、絶句した。
ちょっと待って。テオ、言ったわよね。私の浮気は疑ってないと。まさか、思うのはありだと言うの。私がユーリを好きだと、そう思っていたと言うの。
「肯定されるのが怖くて、ずっと聞けなかったんだ」
なにも聞いてこないのは、そういうことだったの?
ぶっ飛びすぎている勘違いに涙なんかひっこんで、力強く頬に添えられたままの手を握りしめる。
「テオ。聞いて。聞きなさい」
こんな風に一方的な話し方をするのはずいぶん久しぶりかもしれない。説教をする必要がなくなったからだ。
テオドールは痛くも痒くもない様子で手を握られたまま、大人しくミリアリアの言葉に耳を傾けた。
「まず、否定させてもらうわ。あの人のことは、全く、なにも、これっぽっちも、テオの欠片ほども思ってないわ」
これには、幼子のように目をしばたたかせる。
「そうね、なにもなくはないわ。でも、私は、あの人とは他人。ほんの少し昔を知っているだけの、赤の他人よ」
さらに付け加えてやると、さすがにそこまでとは思っていなかったのか、呆気にとられていた。しかしすぐに疑惑の目を向けてきて、ミリアリアはふるふると首を振った。
「そんなに疑いたいなら勝手にすればいいわ。するだけ無駄だから。テオが損をするだけね」
そうだ。勝手に意識して、疲弊して。私はここまでは言ったのだから、あとはテオ自身の問題だ。私は、テオに信じてもらえていたこと、嬉しかったのに。
意識して冷たい顔で言い捨てれば、やっと納得したのだろう。テオドールは一転して嬉しそうにぎゅうと手を握り返した。
「そこまで言うなら、信じる」
「よかった」
ああ、でも。私はこれから、あなたに酷なことを言わなければならない。テオ。ごめんね。ごめんね。私のかわいい、雛鳥。
「私、恋しないと決めているの」
テオドールが、嬉しそうに口角を上げていたままで硬直した。
動き出せない自分。いつか変わってしまうのに期待をするのが怖くて。それが訪れたときの痛みを、辛さを、悲しみを、やるせなさを、絶望を、少しでも最小限にとどめたくて。
「臆病なの、私。恋をして、傷付くのが嫌なの。人の気持ちって変わるでしょう。だから、怖いの。恋を、したくないの」
きっと我儘なのだ。私は。お兄様は恋は幸せなものだと言った。たしかに幸せなものかもしれない。でも、痛みを知らずにはいられないでしょう。
変化に怯え続けるのは、嫌。それぐらいなら、いつ離れても、手の中から無くなってしまっても、悲しくならないように。
「だから、ごめんなさい」
テオのことは好きよ。でもこれは恋じゃない。
同じ気持ちを返してなんて言わない。思えないように、私の中の恋をする感情は封じ込めた。もう二度と開いてしまわぬように、固く、固く。
沈黙が落ちた。テオドールはすっかり無表情になって、ただミリアリアを見つめていた。
最低な女でごめんなさい。あなたの幸せを願っていながら、私があなたを不幸にさせてしまった。私はテオの気持ちには、応えられないよ。
数分が経って。
「……ああ」
やっとテオドールが、口を開いた。
「ミアの気持ちは、分かった」
……私たちの関係が、終わる。ただの婚約者に戻るのか、解消して、他人になってしまうのか。変わってしまうことは、確かだった。
手を引き抜こうと、力をこめる。すると、絶対に離さないと言わんばかりに両手で包み込まれた。
「でも、俺はミアが好きだ」
さらに告げられた思わぬ言葉に、「へ?」と間抜けな声が飛び出た。テオドールは真剣な顔付きをしていて、意図的ではなくとも雰囲気の読めていないことをしてしまった羞恥心に襲われる。
「ミア、俺を見ろ」
目を泳がせればもう片方の手も捕らえられて、向けざるを得なかった。
まって、これってどういう展開?なら終わり、とかそういう風になるものじゃないの?私は今、テオを振ったのよね?
「生憎俺のミアへの気持ちはそんな簡単に諦められるようなものじゃなくてな」
ミリアリアの戸惑いを察したテオドールが鼻で笑って自嘲する。しかし、ミリアリアを見つめる青は、強い意思を秘めていた。
━━逸らせない。じっと見つめ返すミリアリアに、テオドールは形のいい唇から、ゆっくり、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「今までずっと、ずっとミアを思ってきたんだ。ミアが俺のことをそんな風に見てないと分かってても。諦められるなら、とっくに諦めてる。俺は、ミアが好きなんだ。ミアがいいんだ。
一瞬の心変わりだってしないって誓える。いつまでも、一番にミアを思い続けるよ」
一度途切り、悩む素振りを見せて、躊躇いがちに口を開く。
「たとえ三年離れても、どんなに遠くにいても」
三年という言葉にわずかに反応したミリアリアに、テオドールがおかしそうに目を細めた。
「でもそうだな、変化は、絶対にないとは言えないな。俺も今まで変わってきたよ。ミアに好きになってもらえるように、対等になれるように。でも、芯はブレてない。ミアが好きだよ。ミアを一番に思ってて、ミアの一番になりたい。何が変わっても、それだけは、この先もずっと変わらない」
分からないわ、そんなこと。唇を噛んでふるふると弱々しく首を振る。テオドールは困った子を相手にするように優しく笑いかけた。
「それに、いい方に変わることだってあるだろう。離れれば離れるほど、もっと愛しくなって、もっと会いたくなって、やっと会えたとき、もっと好きになるかもしれない。分からないだろう。だから、そんなに変化を怖がってばかりいるな」
……結局は、信用なのだ。自分がどれだけ、相手を信じられるか、信じたいと思えるかなのだと思う。
黙ったままのミリアリアの手を、テオドールは何度も撫でた。何度も、何度も。変わらず側にあるその存在を確かめるように、感じさせるように。
「信じてほしい。好きなんだ。子どものときから側にいて、一緒に笑って、怒るときは怒って、いつも俺を引っぱってくれていたミリアリアが。
どんなに歳をとっても、いつまでも、ミリアリアだけを愛する。それで死ぬときに俺を好きになってよかったって、幸せだったって、思わせてみせるから。
それをこれから、証明していくから。この先も俺の側にいてくれ。
一番近くで、俺と一緒に生きてくれ」
目が、声が、表情が、手から伝わる熱が、雰囲気が、テオのすべてが、好きを伝えてくる。本気だ。ずっとずっとテオの中で積み重ねられてきた、私への思い。
試合前のほんの一言とはちがうその気持ちの重さに、息が苦しくなる。
これじゃまるでプロポーズだわ。
ちがう、まるでじゃない。プロポーズなのだ。決められた結婚ではなく、お互いの気持ちを通わせて、共になるためのプロポーズ。
夕日が射し込んで顔に影をつくり、泣いているように見えた。困ったように苦笑したテオドールを見て、ミリアリアの胸が刃物で引き裂かれたようにずきりと傷む。
テオ。私の大事なテオ。出来ることならテオの気持ちに応えてあげたくて、でも恋をしたくないと、信じたってあとで辛い思いをするだけだと、テオに恋することを拒む自分がいる。
たくさん思ってくれているテオに気持ちを返せないのがつらくて、申し訳なくて、悲しくて。私は、どうしたら正解なの。
「返事はまた今度、聞かせてくれ」
立ち上がったテオドールはミリアリアの頭を慈しむように撫でた。遠ざかっていく足音を聞きながら、呆然として、一粒の涙をこぼす。
夕焼けで赤く照らされる窓の向こうで、閉会のアナウンスが響いていた。