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「では、行ってきます」
ただの村の一娘であるミアは、王都に行くことを決めた。騎士学校に行ったっきり一向に帰ってくる気配のない、幼なじみであり婚約者でもあるユーリに会うために。
ユーリはこの村の権力者の家の三男だ。家庭環境は良くなかったようで、一人外で寂しそうにしていたのを見つけたのが二人の始まりだった。
3歳も自分が年上であったこともあり、ミアは愛情を欲しがっていた彼に精一杯愛を注いだ。そんなミアにユーリが惹かれていくのは当然で、流れるように二人は恋人関係になった。
そして家によって王都にある騎士学校に行くことが決まったとき、ユーリはミアに、無事に騎士になったときには迎えに来るから結婚しようと約束した。
それが、三年も前の、二人が最後に会った日だった。
「ユーリ、元気かしら……」
手紙は送った。いつも返事は元気にしているから心配するな、という内容ばかり。いつ帰るのか、今どんな状況なのか、無事に騎士になれたのか、何をしているのか。婚約のことも、なにもない。
もうミアは19歳になる。村娘なら完全に嫁ぎ遅れの年頃だ。
そうして痺れを切らしたミアは、ついになけなしのお金を使ってユーリに会いに行ったのだった。
「ユーリ、だあれ?その人」
その結果がこれだというのだから、ミアはしばらくの間呆気にとられてなにも言うことが出来なかった。
訪ねた王都の街先で見たのは、可愛らしい女の子と腕を組んで歩く男らしく、随分と格好良くなった愛しい婚約者の姿。
女の子は声を掛けたミアのことをその大きな目で不思議そうに見てから、ユーリを見上げていた。対するユーリは自分がいることに驚いているようで、目を見開いて自分を凝視している。
「……ミア」
彼を待ち続けていた三年間や恋心を裏切られた気分だった。どんなに寂しくても、彼だけを思っていた。他の人に見向くことなく、彼が帰ってきたとき、ガッカリされないように、立派な淑女になるための努力も怠らなかった。
いま、すべて無駄になったけれど。
「ユーリ。そういうことで、いいのよね?」
震える声で問い掛けた。ユーリは瞳を揺らがせて、口をきつく結んでゆっくりと頷いた。
その瞬間、私と彼の口約束でしかなかった関係はあっさりと消え去った。こんなにも簡単に、失くなってしまえるものだったのだ。
「……ごめん」
不思議と怒りは沸いてこなかった。彼はもう私を求めてはいないのだと、彼の拠り所はもう私ではないのだと。怒りよりも、悲しみが勝っていた。
「さようなら」
惨めな姿は見せたくない。自分から彼を奪っていった女には、なおのこと。
そんな思いであっさりした風に言ってみせたけれど、それでも堪えきれなかった涙が一粒だけこぼれた。ぐいとそれを拭ったミアはその場から走り去った。
もう二度と会うことはないだろう。考えてみれば、なんだ、すぐに分かるじゃないか。いつまでも一度も帰ってこない彼。婚約の話も愛の言葉も帰る予定もない素っ気ない手紙。当然だ。最初は違っていたとしても、彼にそんな気はなかったのだから。
それに気付けずまんまとここまで来てしまった私の方が、愚かだったのだ。
待ち行く人すべてが、バカな自分を嘲笑っているように思えた。耳をふさいで、早足で流れる涙を隠すように俯きながらずんずんと街並みを進んでいく。
ああ、どうして。こんなにも悲しいのに、裏切られたのに。彼を憎めないのは何故なのかしら。彼を取り巻いていた環境を、知っているから?仕方のないことだと、心のどこかで、思っているのかもしれない。
私はユーリを愛していた。愛していたからこそ。
「キャアアア!」
思考に更けていたミアの先で、突如、穏やかでない悲鳴があがった。
一気に辺りを取り巻く空気が変わる。ハッとして顔をあげて目にした惨劇に、ミアは硬直した。
最初に目に入ったのは、地面に広がる異質な赤。地面に伏している人に、走って逃げていく人。そこを見たまま、動けないでいる人。
その中心にいるのは……刃物を振り回す、一目で分かる気の狂った男。
「だれか!」
人を呼びに走って通りすぎていく声に、やっとミアの硬直が少し解けた。
なにこれ。なにこれ、なにこれ。
あまりの出来事に、頭がついていかない。
逃げなきゃ。そう思うのに、足が動いてくれない。
そして、男が次に目をつけたのが、地面に転がって泣いている赤ん坊だった。その側にも、倒れる人の姿。すぐに親なのだと分かった。
ーーたすけなければ。
それ以外、なにも考えられなかった。固まっていたのが嘘のようだった。赤ん坊に向かっていく男と同時に、弾かれたようにミアが走り出す。
男の後ろから一歩早く、ミアが赤ん坊にたどりつき、覆い被さった。直後に背中に感じた、衝撃。
熱い。あついあついあつい!
痛みより先に、じんじんとそこが熱を発した。
続いてやってきた鋭い痛みに、ハッハッと息が乱れてくる。抱き締めている赤ん坊が、びええとこんなにも近くで泣き声をあげているのに。
「大丈夫よ、大丈夫……」
声になっていたかは分からない。まさに狂ったように奇声をあげながら男によって背中に繰り返されるそれに、次第にミアの意識は遠退いていった。
最期にほんの一瞬、ユーリに抱き締められたような、ユーリが泣いているのを見たような気がしたけど、それは私の願望かもしれない。
「ミリアリア」
「はい、お父様」
ミリアリア・オーフェン、9歳。王都とオーフェン領に家を構えるオーフェン公爵家の長女である。
ミリアリアが父であるクリフの方を向くと、栗色のウェーブがかった髪がふわりと揺れた。ぱちりと瞬くその大きな目は澄んだ翠色をしている。
「テオドール殿下との婚約が正式に決まってしまったよ……」
その言葉と同時に頭を抱えたクリフは、聞く人によっては不敬と捉えられても文句は言えないだろう。ミリアリアは苦笑していいえと首を振った。
「お父様、私は公爵家の娘です。相手がどなたでも、気にしません。相手に見合うように努力するだけです」
「ミリアリア……」
それが嫌なんだとクリフは口に出せなかった。
あのおぞましい事件から十二年。死者は四人。重軽傷者が三人という、平和な王都で暮らしていた人々の記憶に深く刻まれる事件となった。
四人の内の一人はミア。そして、他の三人の中には、クリフの妻であり兄のエディの母親である女性も含まれていた。
ミリアリアはその後クリフがめとった後妻のシェラとの間に生まれた子どもである。
「ミア、嫌なら嫌と言っていいんだぞ。
なんなら俺が一生ミアの面倒を見るからな」
「お兄様は、ちゃんと素晴らしい女性を見付けてね」
「それはミア、あなたもでしょう」
「まあ、お母様までそんなことを言うのね」
「子の幸せを願うのは親として当然だろう」
オーフェン家の家族仲は良すぎるぐらいに良好だった。
エディは、あの日ミアが助けた赤ん坊だったのだ。そして何の因果か、ミリアリアはミアの記憶を持って生まれていた……というよりは、姿形も多々似ているので、まさに生まれ変わりとも言える存在だ。
クリフは自分の子を命を懸けて救ったミアの容姿を忘れなかった。そしてミリアリアも、事件のことを聞き自分の兄があの日の赤ん坊であることを知り、お互いに通じることとなった。
「ミア、私はな、ミアには前の人生も含めて幸せになってほしいんだ」
「お父様?私は今でも十分幸せよ」
「そうではなくてだな……いや、本当は、それでいいんだ。
可愛い可愛いミアを他の男にやるよりは……!いやでもだな」
「お父様は、親馬鹿というやつね」
ミリアリアの言葉には、エディもシェラも呆れた顔で同意する。
まあ、お兄様も大概だと思うけれど。だって12の時点で妹を一生面倒見るなどと言っているのだから。ミリアリアは半目でこっそりとエディに視線を送るのだった。
「テオとの婚約はもう決まったのでしょう。
なら私はそれに従うまでだわ。
テオのことは嫌いでないし……」
テオドールは、もうすぐ10歳になる、この国の王太子だ。
国王と仲の良く、またこの国の公爵家当主でもあり騎士団長でもあるクリフの娘として、城に何度か遊び相手としてお呼ばれされているうちに気に入られた。
また、普段はまだ子どもっぽさが残り我が儘もあるテオドールの手綱を握れる唯一の存在として、城の人間からもミリアリアは信頼を得ていた。
ミリアリアからしてみれば、精神年齢は確実に上なので、なんのことはない、手のかかる弟を相手している気分だったのだが。
自分を慕ってくれるテオは、素直に可愛かった。
クリフは強面の顔をぐぐっとしかめた。少し怖い。
美人だったという前妻に似たエディや、ミアの容姿を引き継ぎつつ美人なシェラ寄りのミリアリアは幸運だったといえる。
「まあ、結婚するのはまだまだ先だもの。
これからどうなるか分からないわ。ミアも、あなたも」
「義母さんの言うとおりだな」
二人の言葉に、それもそうだなと顔をゆるめたクリフ。ミリアリアも同意して、穏やかに笑った。
「騎士団の訓練所はどこだったかしら」
ミリアリアの手には、たっぷりの昼食が入ったバスケット。ジャム作りが趣味のシェラが、うまく出来たからと、ちょうどミリアリアの定期的な登城日だったこともあってクリフ宛に持たせたものだ。
城で騎士団にいるクリフを訪ねるのは初めてで、うろ覚えの記憶を頼りにミリアリアが騎士団のいる訓練所に向かっていると。
「ミーアー!」
ドン、と後ろから何かが勢い良くぶつかってきた。
ふわりとお日様のような匂いがする。後ろから腰に回ってきた腕に、ミリアリアは大人しく抱きしめられた。
「テオ?」
「どこに行くつもりなんだ?
城にきたら一番に僕のところに来てって言っただろ?」
ぷうと可愛らしく頬を膨らませた顔を後ろから覗かせたテオドールに、ミリアリアはもう、とため息をついた。
「お母様からお父様に届け物を頼まれたの。
そしたらすぐにテオのところに行くつもりだったわ」
「一番がいい」
「もう。テオってば」
ぎゅうぎゅうと抱き締めてくるテオドールの腕の中で身動ぎし、なんとか向き合う。バスケットを床に下ろし、いじけた顔をするテオドールの背に自分もゆるりと腕を回した。
「ねえ、テオ?
我慢という言葉を知っている?」
「それぐらい知ってる!」
「そう、なら、テオは我慢をするということも知りましょう」
テオはむすっとしつつも黙ってミリアリアの言葉に耳を傾けた。
今までミリアリアの言うことを聞いて悪かったことはなかったため、ミリアリアの言葉をテオドールは誰より信用していた。それこそが、ミリアリアが唯一テオドールの手綱を握れる存在だと言われ婚約者に選ばれた一番の理由だった。
「テオが我慢強くなれば、きっといいことがあるわ」
「たとえば?」
「うーん、そうね、まずみんないい子だって褒めてくれるわ。そしたら、ちょっと甘やかしてもらえるようになるかも」
テオドールにとって身近な例をあげてみると、案の定それだけで納得したように顔を輝かせる。
「ミアは?」
「もちろん。テオが我慢を頑張ったときは、たくさん褒めてたくさん甘やかしてあげるわ」
「ほんと?キスしてくれる?」
「いいわ、そのときはね」
多少甘やかしすぎ感もあるが、ミリアリアは出来るだけテオドールの味方でいたかった。王太子となるべく厳しい教育を受けているテオドールが、挫けてしまわないように。
テオドールは嬉しそうに頬を染める。それから、ミリアリアの頬に唇を寄せた。
「じゃあ、これからは頑張るよ」
これは約束のちゅーね、といたずらっぽく笑うテオドールに、ミリアリアも微笑んでその頬にキスを落とした。
どちらにせよ、どうもキスが好きらしい彼は会ってまず最初にキスをするのだ。もちろんそれを自分にも求めたテオドールによって、結局それは習慣となっていた。
「さ、お父様のところに行かなきゃ。
テオ、案内してくれる?」
「うん!」
テオドールはミリアリアの手を取り、自然にもう片手でバスケットを持って歩き出した。
こういうところで普段子どもらしい彼はドキリとさせるのだと、こっそりとミリアリアは思った。
訓練所に着くと王太子殿下であるテオドールの姿に団員たちが一斉に礼をとったが、それも一瞬で、すぐに打ち解けた雰囲気になる。
テオドールは剣の稽古をここでしてもらっているから、比較的王太子の存在に慣れていた。
「クリフ団長はいる?」
ミリアリアの手を引きながら、テオドールが近くにいた団員に話し掛けに行った。話し掛けられた団員は、いかにも残念そうな顔でゆっくりと首を振る。
「今は雑務をしに出ています」
「分かった。どうする、ミア。少し待つ?」
問いかけられたミリアリアは少し悩んでバスケットに目を落とすと、頷いた。
お父様が普段仕事しているところを見学するのもいいかもしれない。テオだって、ここでお稽古をしているのだし。
「じゃああそこで座っていようか」
テオドールがテーブルとイスのある奥の方へ連れていく。
それには訓練所を横切る必要があって、王太子殿下の婚約者である自分に興味津々な団員の視線がミリアリアに集中した。
凛とした佇まいを見せなければと思うが、恥ずかしさに耐えられなかったミリアリアはつい俯いてしまったのだった。
「ああ恥ずかしかった。みんな、見すぎだわ」
「ミアは僕の大切な婚約者なんだから、堂々としていればいいんだよ」
「そういう問題じゃないのよ……」
大勢の人に見られるのが苦手なのだ。このまま順当にいけば王妃になるだろう自分がそれではいけないとは分かっているのだけど。元がただの村娘だった私には中々キツイ。
テオに偉そうなこと言ってられないわ。私も努力しなければ。
心の中でひっそりと決意したミリアリアだった。
クリフが戻ってきたのは、20分程したあとだった。その間二人は団員の訓練を見たりいつものように仲良くお喋りをしていたため、待ちくたびれることはなかった。
「おや、どうしたんだい、ミア」
「お父様。お母様がお父様にって。
領からたくさん林檎が届いたの。それでジャムを作ったのよ」
「ああ、そうなのか。ありがとう、ミア」
バスケットを受け取ったクリフが嬉しそうに笑う。ミリアリアも無事に届けることが出来てほっと息を吐いた。
「殿下も、付き合ってくださってありがとうございます」
「うん」
なにもしてないけどね、と自分にしか聞こえないぐらいの声で呟いたテオドールにミリアリアはクスッと笑いをこぼした。
「見学は楽しかったかい?」
「とっても。みなさま、格好よかったわ」
「ほお」
「ミア、僕も稽古をしているときカッコいい?」
「テオは……普段からカッコいいと思っているよ?」
これは本音だったし、事実だった。テオドールは王子然とした美しい容姿をしていた。黄色味の強い金の髪に、深みのある青の大きな瞳。まっさらな白い肌やすっと通った鼻など、まさに非の打ち所のない顔である。幼さの残る柔らかい目元もその魅力を倍増させていた。
9歳の時点で人目を引くような魅力を持っているのだから、成長したときのそれを想像するのは容易かった。
「へへ」
でれっとしまりのない顔をしても、整いすぎている顔の魅力はまだまだ落ちなさそうだ。
二人のやり取りを前にして複雑そうに顔をしかめているクリフに、それを見ていた団員のほとんどが心の中で親馬鹿だ……と呟いたという。
その後、クリフを交えて少し会話をしたところで、二人はそろそろ失礼しようかと席を立った。
「じゃあお父様」
「ああ。帰りは気を付けるんだよ」
「はい」
と言っても自分は準備されたオーフェン家の馬車に乗って帰るだけだから、心配性すぎる父に思わずクスッと笑みがこぼれる。
「じゃあね、みんな」
テオドールの騎士団員に向けた言葉に合わせてミリアリアも礼をする。それに団員たちも穏やかな雰囲気で礼を返してきたり手を振ったりして送り出そうとした。
その空気が次の瞬間、一人の団員の一言で一変した。
「……ミア?」
訓練所から出ようとしたミリアリアとテオドール。それと逆に、入ってこようとして二人と対面している団員。
その顔を視界に認めた瞬間、一気にミリアリアの脳内にミアの記憶が広がった。
なぜ。なぜ私は考えなかったのだろう。騎士学校に行っていた彼。うまくいっていれば、そのまま騎士となり今この騎士団に属していることなど簡単に予想がついたのに。
この九年間で私を取り巻く環境が、あまりにも私に優しすぎて。ぬくぬくと育った私は、考えなければいけないことを放棄していたのだ。
「ミア、なのか?」
自分の子の恩人として認識していただけのお父様ですら、赤ん坊の時点でミアの面影に気付いた。オーフェン家の血筋はあれど、ミアの特徴をよく引き継いだミリアリア。
……ユーリ。
彼が、分からないわけなかった。
私は死んで三年後に生まれ変わり、それから九年。彼は恐らく28歳になったところだろう。最期に会ったときより、随分と大人の顔つきをしている。体はしっかり鍛えられているようだが、少し痩せたように感じた。
「なんで……どう、いう」
困惑した表情でミリアリアを凝視するユーリに、ミリアリアもどうしていいか分からなかった。
何事かと様子を伺ってくる団員たちにも気付けず、動揺をあらわにする。それは、普段動じることのない彼女からは考えられないことで、テオドールは顔をしかめた。
「ミア、知り合い?」
動揺するミリアリアと困惑する一団員のユーリの関係に疑問を持ったものは少なくないだろう。テオドールの質問に、ミリアリアは硬い表情で小さく首を横に振った。
「……そう」
明らかに嘘だと分かる答えだった。それでもテオドールはなにか思うところがあったのだろう、納得した振りをして、痛いぐらいにミリアリアの手を強く握った。
納得出来ないのは、ユーリの方だった。今にも襲いかかってきそうな勢いで詰め寄ってくる。
「ミア、どうして。それにお前は死……」
「紹介するよ。僕の婚約者の、ミリアリアだよ」
それを遮ったのは、テオドールだった。
ミリアリアを背に隠し、にっこりとわざらしいぐらいの笑顔を顔に張り付けて被せるように言った。その声も、どこか威圧的なものがある。
ミリアリアは知らず安堵のため息をつき、自分をかばう婚約者の姿を後ろからぼうっと見つめた。
「婚約者……?」
それに対して、思考がついていかず呆けるユーリを、テオドールは笑顔のまま厳しい目付きできつく睨んだ。
「僕のミリアリアになにか用?」
さすがに子どもといえど王太子殿下であるテオドールにそう言われて言い返せる強者ではなかった。
黙ったユーリに、この話は終わりだと言わんばかりに目付きを緩めて振り返ったテオドールは、ミリアリアの手を引いた。
「行こう、ミリアリア」
ユーリは、いわば、ミアの傷だ。触れられれば平常心ではいられない、消えることない傷痕。
だからこそ、無意識に考えるのをやめていたのかもしれない。いままでがうまく行きすぎて、このまま何事もなく生きていけるなどと、調子に乗っていたのだ。
触れないでいたから自分でも未だ解消できていないのに、ユーリのことをなんと説明しようか頭を悩ませ黙ったままのミリアリアに、テオドールはなにも言わなかった。
ただぐいぐいと庭園の方へ引いていく手には、有無を言わせぬ力が籠っていた。
「ミア、お腹すいてる?」
そして、庭園についてからのその最初の一言で、ミリアリアはテオドールが無理矢理聞き出す気はないことを悟った。
間違いなくミリアリアが聞かれたくないと思っているのに気付き、その気持ちを汲み取ってである。
ミリアリアはその思いやりが嬉しかったし、そんな気遣いをテオドールが出来るようになっていたことに密かに感心した。
先ほど、ユーリから庇ってくれたときもそうだった。
私は嘘をついたのに、テオはそれに文句を言うでもなく困っていた私を助けてくれた。
彼は自分がなにもせずともちゃんと成長し、場の空気を読んで求められる行動を取れる人間になってきている。少なくとも私はさっきも今もそんな彼に救われている。
テオはもうただのやんちゃっ子ではないのだ。
もちろんその成長には、ミリアリアという存在が大きく関わっているのだが、それはミリアリアには分からないことだった。
「ううん」
「じゃあ少し散歩でもしよっか」
その申し出にミリアリアは賛成し、二人は会話をしながらゆっくりとした歩調で庭園の奥まで進んでいった。
「もう少しで僕の誕生パーティーがあるよ」
「招待状が来てたわ」
「ミアとの婚約を発表するって」
ミリアリアとテオドールの婚約は正式に決まっている。しかし、お披露目はしていないため、来月に控えているテオドールの10歳を祝う誕生パーティーでやっと王太子の婚約が人に知れることになるのだ。
「楽しみだな。やっとミアが僕のだってみんなに言える」
「今さらじゃない?」
ミリアリアはテオドールと会うために定期的に王城に訪れているし、テオドールもミリアリアと婚約したことを言って回っている。
騎士団を訪問した時の様子から分かるように、実際はすでにそのことは人の口によってとっくにその事実は知れ渡っていた。
「ああでも、緊張する」
それでも、パーティーではきっと、大勢の注目を浴びることになる。そして正式に発表されることによって、これから自分は王太子の婚約者という重い肩書きを背負っていかなければならなくなるのだ。
ミリアリアにはなんとも気が重い話だった。けれどクリフにも言った通り、なったからには自分はその役割を全うするのみだ。そのために努力を惜しむつもりはない。
今するにはまだ早い緊張を落ち着かせるために軽く深呼吸をするミリアリアを見て、なぜかテオドールは嬉しそうな顔をしてミリアリアの顔を覗き込んだ。
「ミアなら大丈夫だよ。一緒に頑張ろう」
「一緒に……」
その言葉で、ミリアリアはまだテオドールと交流の浅かった頃を思い出した。
今よりもやんちゃっ気のひどかったテオドールを見兼ねたミリアリアが、不敬になるやもしれぬことを考えつつも説教をかましたのだ。
王子という立場は関係なく、人として落ち着きを持つことは大事であること。陛下や王妃様などの例もあげ、落ち着きを持ったテオドールはきっと今より魅力的な人になれるというおまけの飴の一言。そして最後に一緒に素敵な人になろうと付け足したのだ。
その最後の一言が特にテオドールにはなによりうれしい言葉だったようで、結果気に入られたミリアリアは現在婚約者という立場におさまっている。
「ね」
一緒に、というのが重要なのだろう。
同意を求めるように繋いでいる手をぶんぶんと振ってくるテオドールに、ミリアリアは愛しい弟を見る気分で頷いた。
「またね、僕のミア」
結局お別れの時間が来るまでテオドールは不自然すぎるくらいユーリとの一件について触れず、お別れのキスは忘れることなくしてミリアリアを見送ったのだった。
優雅な音楽が奏でられる。会場の中央ではきらびやかな格好をした様々な男女がそれに合わせて踊っていた。
本日の主役であるテオドールと、その婚約者としてミリアリアもついさっきそこで踊ってきたところだった。
「ミア、はい」
今日はいつもに増してキラキラと輝かしいオーラを放っているテオドールから、綺麗な色をした液体の入ったグラスを受け取った。
「ありがとう、テオ」
「あとでもう一曲踊ろうよ」
それは遠慮したかった。あれほど人の視線に殺されると思ったことはない。今の時点でもすでにその精神的な疲れがきている。
けれど今日はテオドールの記念すべき10歳の誕生日なのだ。彼が望むのならば、とことん付き合ってあげたい。
「ええ」
「……人に見られるのが嫌なら、中庭でも良いよ?」
気持ちはうまく胸の奥に隠して笑顔で賛成したつもりだったけれど、テオドールにはバレバレだったらしい。
目を見張ったミリアリアに、テオドールは悪戯の成功した子どものような笑みをニヤリと浮かべた。
「それに、二人っきりにもなれるしね」
あらまあ。いつのまにそんなに立派に男の子のようなことを言うようになっていたのかしら。この前は頼もしくなったと感心していたけれど、成長していたのはそれだけではなかったらしい。
ミリアリアは、動じることなく穏やかにそれに返した。
「そうね。それなら私も気が楽だわ」
「…………」
全く相手にされていないことに、テオドールは不服そうに口を尖らせてミリアリアを見た。
いつだってそうだ。ミリアリアは自分の一つ年下であるのに、自分よりも大人で、自分を随分と年下の子ども、もしくは弟のように扱う。
自分はもう10になったというのに、彼女はいつになったら自分を対等に見てくれるのだろうか。
まさか彼女に二度の人生で確かに育んだ長い年月があるとも知らず、テオドールは頭を悩ませるのだった。
「ミア」
「お兄様」
甘い果実のジュースを飲みながら、なにかを考えて唸るテオドールの横で会場を眺めていると、一際目立つ美貌のエディが人を上手に避けながらやって来た。
テオドールに負けず劣らず美しいその容姿に視線を寄せるご令嬢は少なくない。公爵家の長男坊であり優秀であることに加えて、12にしては落ち着きがあることから、年上の女性からよく好まれているようだ。
ミリアリアもなんとなく、自分が命をかけて助けた赤子がそんな立派な人物となっていることが誇らしく思えて少し顔がにやけてあわてて繕った。
「疲れていなければ、一曲どうだい」
「まあ。ぜひ」
「殿下、少しの間お借りしても?」
「駄目と言っても連れていくだろう」
もちろん、とエディはにっこりと口角をあげた。テオドールも兄に本気で駄目だと言うつもりはなく、ただの軽口でやれやれとため息をつく。
ミリアリアを束縛なんてすれば、自分の幼さが際立つだけだとテオドールは正確に理解していた。
「テオ、またあとでね」
「うん」
ミリアリアとしても、大好きな兄と踊りたい気持ちはあった。そしてなにより、テオドールといるよりも視線が少なく、やっと気が抜ける思いだった。
テオだって殿下なのだから、いくら婚約を発表したとしてもずっと私だけといるわけにはいかないわ。付き合いは大事だもの。
「殿下とはどう?」
「うまくいっているわ」
「それならよかった」
「お兄様こそ、どなたかいい人は?」
「まだ俺はいいさ」
そんなことを言い合いながらエディと踊ったあと、次々と他の子息からも誘いを受ける中、テオドールが他のご令嬢とようやく踊る姿を見て、ミリアリアはほっと安堵の息をついたのだった。
体力に限界が来た頃、ミリアリアは躍りの連鎖から抜け出して中庭に出た。
中庭を照らすのは月と会場からの明かりだけだったが、あとでテオドールと踊るには十分の明るさがあった。
多少の音漏れはあるものの、会場内の賑やかさからは離れており、噴水の音がやけに大きく感じる。
一回この静けさに包まれてしまえば戻る気になれなくて、ミリアリアはベンチに座ってテオドールを待つことにした。
簡単に言っていたけれど、主役なのだからきっと抜け出すのは難しいでしょうね。のんびりと待たせてもらうわ。
テオドールはユーリと会ったあの日以来、なんとなく変わった。悪い意味じゃない。以前よりも自分を律している気がする。着実に人の上に立つ者へと成長していっている。
彼が立派な王子となったとき、お世話役の私はどうなるのだろう。だってたとえ甘やかしていても、年下のくせに偉そうで口うるさく説教をかましてくる女だ。
もし優しくていい人が現れれば、婚約なんて解消して私よりもそちらを選ぶかもしれない。それで腑抜けにならない限りはそれでもいい。
その相手が自分でなくてもいいのだ。
どうか、幸せになって。
そういえば自分は以前、同じようなことを考えたことがある。それはいつだっただろうか……と悶々と頭を巡らせていたとき、芝を踏む音が近くからして、顔を上げた。
「テオ……」
「ミア」
テオだと思ったのに。
そこにいたのは、ミアにとって因縁の相手とも言える人物だった。ハッと息を呑んだミリアリアは、思わず座りながら身を引いて背もたれに背中をぶつけた。
「やっぱり、ミアなんだな」
あれからずっと避けていた。会えば、絶対に私の平和な日常が変わるという確信があった。
だから訓練所には徹底的に近付かなかったし、登城しても望まれたようにまっすぐテオドールの元へ行き、帰るまでテオドールが警戒するようにミリアリアから離れなかった。
それなのに。
ユーリはパーティーの警護中なのだろう、青を基とした騎士団の制服を着ていた。ミリアリアが外で一人でいる今は絶好のチャンスだったのだ。
やっぱり、少し痩せている気がする。というより、やつれて……?
肯定も否定もせずそっと表情を伺えば、ユーリが泣きそうな顔をしているのに気付いて、ミリアリアは一瞬目を見張った。
どうして。なぜ、そんな顔をしているの。
「そっくりだから、すぐにミアだと分かった。でも、ありえないよな。ミアは、俺が看取ったんだ。俺の腕の中で死んだのに」
まさか。彼はあのとき、側にいなかったはずだ。可愛らしいあの女の子と、一緒にいたはずなのに。
ふと死ぬ間際に一瞬見た気がした、自分を抱き締めて涙を流すユーリを思い出した。あれは、気のせいではなかったというの。
「生まれ変わり、といえばいいのか」
「…………」
「否定をしないということは、そうなんだろう」
もし違うのなら、何を言っているのだと反応していることだろう。けどミリアリアはそれをしなかった。
知り合いかと聞かれたときは周りに人がいたから否定したけれど、今は二人だけだ。
「ミア、なんだよな」
恐る恐る確認された二度目のそれに、ミリアリアはついに肯定した。
「……ユーリ」
次の瞬間、ぶわりとユーリが涙をその目から溢れさせた。これにはさすがにミリアリアも予想できず、ぽかーんと呆気にとられる。
「ずっと、謝りたかった……。俺が馬鹿だったんだ」
ミリアリアの様子にも気付かず、地面に膝をついたユーリはだらだらと涙をこぼしながら話し始める。
「ミアが死んで、気付いたんだ。俺は、ミアがいるから、なんでも出来たんだって。ミアの優しい愛情に胡座をかいてたんだ」
たとえ三年間そっけない手紙しか返さなくても、ミアは自分に温かい言葉を送ってくれた。いつだって、自分の居場所を作って待ってくれていた。
居場所がなければ、人はきっと不安で足元が覚束なくなる。
「俺が毎日安心して暮らせるのは、絶対的なミアの存在があったからだったのに」
ユーリは、間違えた。自分からミアという居場所を、切り捨ててしまった。
ユーリがずるずると地面に膝をつきながらミリアリアに近付いてくる。
「俺が、悪かったんだ。ごめん。ごめん……!俺は、ミアがいなきゃ駄目なんだ。だから……」
その先が読めて、ミリアリアはぐっと顔をしかめた。
「殿下のものになんかならずに、俺の側にいてくれ……!」
ユーリがすがるようにミリアリアに手を伸ばした。
「やめて!」
咄嗟にしたことだった。ベンチから立ち上がったミリアリアは、悲鳴に近い拒絶の言葉と同時に迫ってくる手を払い除けていた。
ユーリが呆然と払われた手を見つめるのと同じように、ミリアリアも自分の行動に驚きを隠せなかった。
私、いま、ユーリを。
「ミア……?」
自分でも信じられなかった。憎んでいるつもりもなかったし、いまでも彼を怒ってなどいない。
それなのに。
私はいま、彼に触れられるのが嫌だと思ったのだ。
「なんで、なんで?ミア……
あのあとすぐにメルサとは別れてる。ミアだけを、ずっと」
「ちがう」
ちがう。そうだ。ユーリの言葉には、どうにも拭えない違和感がある。他の人からは絶対に感じられない、違和感が。
ミリアリアはぎゅっと手を痛いぐらいに握り締めると、口を開いた。
「聞いて、ユーリ」
それは、思ったよりも低い声だった。びくりとユーリが肩を震わせる。ミリアリアは冷たく足元に膝をついたままのユーリを見下ろした。
「ミアは死んだわ」
彼が呼ぶのは、私じゃない。
死んだと自分でも言っているくせに、彼が見ているのは、ミアなのだ。
テオもお父様もお兄様もお母様も、みんな私をミアと呼ぶ。でもそれは、ただの愛称だ。みんな、ミリアリアとして私を見ている。
私は一途に王都に行った婚約者を思って待ち続ける村娘じゃない。
オーフェン家で優しい家族に恵まれて生まれ育った、テオドールという婚約者を持つ公爵家の長女だ。
「あなたが側にいてほしいミアは、もういないの」
ぱちんと弾けるように、頭にかかっていたモヤモヤが一気に晴れた。
どうか、幸せになって。
それは、ミアが最期に思ったことだった。
ミアは裏切られてなお、ユーリを憎まなかった。彼を愛していた。だからこそ、悲しむ反面、ほんの少し安心したのだ。彼が、自分以外に居場所を見つけていたことに。私がいなくても、彼は大丈夫なのだと。もう孤独だったあの子どもはいないのだと。
だからどうか、幸せになって。そう願うことが、彼女のユーリに向ける最後の愛情だったのだ。
「あなたを思っていたミアは、もう二度と返らないのよ」
ユーリには、幸せになってほしい。でもそれは、私がすることじゃない。ミリアリアは、ユーリを思ってなんていない。
いまさら気付いたって、遅いのだ。死んだ人は生き返らない。そして、一度つけられた傷も簡単には治らない。
ミリアリアに残ったのは、裏切られてなおあり続けるわずかな情と傷痕だけ。
愛ってきっと、一方的に与えるものだわ。たとえば家族なんかは、いい例だ。相手が自分をどう思っていようと関係なく愛情を向ける対象になる。
でも恋は違う。振り向いて、私に好きと言って、私の側にいて。相手に期待や見返りを求める気持ちを積み重ねたものだ。ミアは期待して、見返りをもらえなくて。裏切られて、悲しんだ。今さら謝られたって、信じられるわけがない。
ならば。
私はもう恋なんてしない。期待するから、見返りがなかったとき悲しい思いをするのだもの。私はもう、ミアのような思いをしたくない。
一方的な愛情を与えるだけで、十分だ。
「私はあなたを好きじゃない。そして私はテオドール殿下の婚約者で、その役を自分から投げ出すことなんて出来ないわ。
あなたの側にいることも出来ない」
ミリアリアの中でゆらゆらと揺れていた感情が、固まった気がした。ユーリを見据え、はっきりと告げる。
「だからユーリ、あなたはあなたで幸せになって」
ミリアリアにはあなたの幸せを願うことしか出来ないのだから。
ユーリはミアに手を放されたことを理解できないのか、涙も拭わないままじっとミリアリアを見つめ続けた。ミリアリアももう何も言うことはないと口を結び、ただその目を見つめ返す。
何を言ってももう気持ちが動くことはないと悟ったユーリは、ゆっくりと立ち上がる。そして、ふらふらと覚束ない足取りで歩き始めた。
一度振り向いたが、悲痛な顔を見せるとそのまま戻ることなくこの場を後にした。
……ああ。やっと。
やっと、終わったのだわ。ミアとユーリの関係が。
解消できないまま死んでしまったミアの気持ちが。
ミリアリアはようやく知らず張っていた緊張の糸が切れて、すとんとベンチに腰を落とした。
それから深いため息をついて、涙など流れてもいないのにそれを拭うように目元を指でなぞった。
しばらく経ってミリアリアの気持ちも落ち着いた頃、たったっと走るような軽い足音が聞こえてきた。
次こそ、テオだ。ミリアリアは足音のする方へ視線を滑らせた。思った通り、綺麗な金色の髪を揺らして走り寄ってくる王子の姿。
「ミア、おまたせ」
「大丈夫。よく抜けられたね?」
「ミアと踊るためだからね。……と」
にこにこと無邪気な笑みを浮かべていたテオドールは、ミリアリアの顔を見て何かに気付いたようで眉を潜めた。
「……何かあった?」
「何も」
対するミリアリアは憑き物が落ちたようにスッキリとした顔付きで、可愛らしくぱちりと笑った。
なにもない。ただ私の生き方が定まっただけ。私はもう恋はしない。期待なんてしない。裏切られたときの悲しみを知っているのに、繰り返したりしない。
「……そう?」
テオドールは、やっぱり追求しなかった。曖昧な笑みを浮かべて、そっとミリアリアに手を差し出す。
「じゃあ、踊ろうか、ミア」
ミリアリアは、嬉しそうにふふっと笑い声をもらした。それから手をとってテオドールを見つめる。
テオドールは前より愛情のこもった気がするそれに一瞬動揺し、目元を淡く染めた。けれどすぐに立ち直り、音楽なしで踊り始めた。
「かわいいご令嬢はいた?」
「ミアよりかわいい女の子なんていないよ」
「あら、そんなことないわ!私なんて普通をちょっと良くした程度だもの」
客観的に判断した結果だ。ミリアリアが目を丸めてそう言うと、テオドールはおかしそうにぷっと吹き出した。
「でも、僕にとっては一番だよ」
一連の流れが終わって、見つめあったまま足を止める。テオドールはミリアリアの手をかすかに汗ばんだ手でぎゅっと握った。
月明かりに照らされるテオドールの端整な顔は、神秘的なほどに美しく見えた。なんて完成した顔なのだろう。そしてその青い瞳には、熱がゆらゆらと灯っているのが見て取れた。
緊張した面持ちで、テオドールがゆっくりとミリアリアに顔を近付けていく。
「ミア……」
ミリアリアは、その瞳を見つめ返して。
「だめっ!」
するりとテオドールの手から自分の手を抜きとり、瞬時にすぐ近距離にあった口にそれを押し当てた。
まさかこの雰囲気で拒否されるとは思っていなかったテオドールが目を見開く。
「もう。まだ10歳になったばかりなのに、ませすぎだわ」
そんなテオドールを気にも留めずミリアリアはぷうと頬を膨らませていつもの説教モードに入った。もちろん手は当てたままなので、テオドールは何も声を出せない。
「いい?テオ。頬へのキスは、いくらでもしていいわ。
でもね、ここは駄目」
自分の唇に指を当てて自分を見上げるミリアリアに、テオドールは理解できないという顔をしつつ目を泳がせた。
言っている内容が内容じゃなければ、キスしてほしいと誘っているようにしか思えない。
「ここはね、挨拶やその場の空気でしていいところじゃないのよ。テオが、本当に心から好きだと思った人とするべきだわ」
「ぶはっ、僕はミアのこと大好きだよ!」
自分の口を押さえる小さな手を剥ぎ取ったテオドールが抗議の声をあげるも、ミリアリアは困った子を見るような顔で首を振るのだった。
「テオはきっと勘違いしてるのだわ。もう少し大人になったら、本当の好きが分かるようになるわ、きっと」
「そんなこと」
「ね、だから、テオ?分かるときまでは、お預けにしましょう」
遮るように続けられた言葉に、テオドールは考えるように黙りこんだ。ミリアリアがだめ押しでその頬に唇を寄せると、反射のようにミリアリアの頬にキスを返して、さらにせめてもと額にも口付ける。
「……分かった。約束だよ」
きっとそのときは、来ないはずだわ。テオは一時的に面倒見のいい私を気に入っているだけだもの。私が弟のように思っていたように、姉のように思っているだけのはずだ。でも、婚約者である間は、私はあなたに無償の愛を与え続けるから。
ミリアリアは苦笑しながら頷くと、テオドールの手を引いた。
どんどんと私から離れて成長していく、私よりも大きな手だ。
「そろそろ戻ろう、テオ」
「……うん」
「ほら、そんな顔をしてはいけないわ」
誰のせいだと。そう言いたいのをこらえて、テオドールはふてくされた顔を意識して戻した。ミリアリアはそれを見て、クスクスと笑う。テオドールもつられて諦めたように顔を崩した。
テオドールの10歳の記念日は、ミリアリアに新たな決意とテオドールの心にわずかなわだかまりを残して、ゆっくりと幕を閉じた。
それから八年、二人の関係は平行線を辿ることになるなんて、このときの二人は全く予想していなかった。