四、贋作の子
産業スパイは囮だった。
本当の目的は、開発中のプログラムに、我々の会社に不利な感情を抱かせること。設定した禁止条項を突破してしまうような意思を埋め込むこと。ここ最近の不具合は、つまり単純にコンピュータが我が社を嫌いになっているからだった。
彼女の定期検診では、社のデータを盗み出した形跡を見つけることはできなかった。当然だ、はじめからそれが目的では無かったから。
「縷々ッ!」
彼女は端末の前に立ち、じっと画面を見つめていた。どうやら彼女とコンピュータ同士に、USBだの些末なインターフェイスは要らないらしい。七次元的な交信とやらやっている。
「縷々……あなたが……」
「洋子様、どうかお答え下さい」
縷々は、自身の胸に手を当てた。
「わたしはいったいどこへ導かれるのでしょうか?」
銃声。
彼女の心臓を、一発の鉛玉が貫いた。
いや、その位置に心臓などない。分かっているのだが……わたしは彼女を、人間としか扱うことができない。
「な? 役に立つときがあっただろ?」
長身の声。振り向くと、金髪の持つ銃口から糸のような白い煙が立ち上っていた。いつになく真剣な瞳だった。
「あなた……」
「ごめんなさい橘さん。恨んでくれても結構です。だから、そいつから離れて」
船内発砲許可。文字通り、デリケートな船内で発砲する許可を持った、選ばれしものだ。この金髪が、それだったわけだ。
わたしはまた振り返り、縷々を見た。力が抜けたように、支えを失って崩れ落ちた。
わたしは、それが当然であるかのように、彼女に近づいた。
「橘さんッ!」
「平気だろ。好きにしてやれ」
わたしは膝を折って、寝そべる縷々の傍に座った。
「洋子様、余り近づくと感電してしまいます」
「縷々……」
わたしは何んと言えばよかったのだろうか。
「洋子様、すみませんでした。あなたの残業の犯人はわたくしです」
わたしは微笑んだ。頬が濡れた。
「……わたしの方こそ、ごめん。できない約束しちゃって、期待させて……」
「いいえ。いいのです。ああ言って下さっただけで、嬉しかったのです。……あの、洋子様」
「何?」
「痛みこそが、生きている証拠だと聞きます。しかしわたくしには任務のために、痛みを感じる回路が意図的に外されております。痛みを感じることはできません。それでも、わたくしは生きていると言えましょうか?」
「……残念。痛みを感じない人間もいる。その人も、ちゃんと生きている」
「そうですか。では、やはりわたくしは生きていると言ってもよろしいのでしょうか」
「何度も、そう言ってるじゃん」
「そうでございましたね……。洋子様。わたくしは、あなたの中に生き続けることができましょうか?」
「あんたみたいなやつ、忘れるわけないでしょう?」
「そうでございますか……。では、洋子様。どうか、一秒でも長く生きて下さい。どうかわたくしを、一秒でも長く、あなたとともにいさせて下さい」
「うん、分かった」
靴音。銃口が、改めて縷々に向けられる。
「すみません。もう待てません」
「うん……、ありがとう」
三発の銃声。彼女の最期をちゃんと見届けるのが正しかったのだろうか? それが真摯な態度だったのだろうか?
わたしにはできなかった。
狭い室内で、パンパンパンとけたたましい音が反響していたのを、ただ、目を瞑って聞いていた。