三、魂の所在。
連日十時半まで仕事。
そして今日は、十一時まで仕事……。
「あーもう! 絶対に辞めてやるー!」
わたし以外誰もいない部屋で叫んだ。
でもなー、再就職したところで、今より条件の良い会社なんてなー。残業代出て、福利厚生がしっかりしてるここ以上となると、やっぱりわたしじゃ高望みなのかなー……。
しかし、今日の内の二時間の残業は、あの金髪のせいだ。くそぉ。まだあいつは残ってんだろうか? 帰ってそうだなぁ、くそう!
帰る前にひと休みしたくって、休憩エリアへと立ち寄りたくなって、消灯後の暗がりを歩く。あそこ、普通の時間だと、人がいっぱいいて入りにくいんだよね。だからといって残業がいいとは思わないがなッ!
と、そこにはなんと、椅子にちょこんと腰掛けて儚げな瞳で宇宙を見つめる縷々の姿があった。不健康な自販機の光に照らされて、儚げで、美しく……ぞっと心臓が波打った。
そこに、何か、不気味さが感じられた――。
もしも、彼女が、普通よりもだいぶ可愛いだけの人間だったとして、こんな感情がわき上がっただろうか? わたしのなかの、彼女が人工物であるという理解が、こんな感情を湧き立たせたのではないだろうか。
わたしは彼女を、わたしと同じ、感情のある生きモノだ、と言った。
でも、深いところでは、差別のような意識を、彼女に抱いているのではないだろうか。
「……洋子様?」
あちらもわたしに気づいた。心臓は依然激しく脈打っているが、どうにか平静のふりをした。
「どうしたのさ、縷々。こんなところで、ひとりぽつんと」
縷々は、今一度宇宙へと視線を移す。そこには、何かがあろう筈もないのに。
「綺麗ですね」
「……星から離れて何ヶ月かは、そう思ってたけど、もう見飽きちゃったかなあ」
確かに、綺麗だと思うこともある。翼をいっぱいに広げたような銀河には、今でも心躍らされる。でも、たいていは見ていてもつまらない。黒にぽつぽつと、白い点々が存在するだけだ。
「縷々は、地球の夕焼けを見たことがある?」
「いえ。わたくしは船内から見た星々しか知りません。紅に染まった空を、桔梗色の夕闇を、データでしか知りません」
「そっか……。いつか、見せに行ってあげるよ」
「え?」
縷々が驚いてこちらを向いた。わたしも、随分と安い口約束をしてしまったものだ。自分の抱いた感情に対する、後ろめたさがあったとはいえ。
「本当でございますか?」
「えーっと、うん。まあ、いつかね。この忙しいのが消え去ったら」
縷々の瞳が、歓喜に明るくなる。十六歳とは思えない、子供っぽい反応だ。
彼女は会社に所有権があるとはいえ、一定の人権が認められている。手続きが面倒だけど、不可能ではない。
「ありがとうございます、洋子様」
「あー、うん。いいよいいよ」
そんな風に感謝されると、こちらが照れてしまう。
「地球……人間の故郷……」
縷々は感慨深げに宇宙を見つめた。そして……
「洋子様は、人工知能上位思想を、いかが思いますか?」
また、質問だ。最近多い。これには嫌気が差してきた。わたしは哲学者じゃない。答えられるわけがないんだ。
人工知能上位思想。簡単に言うと、人工知能は人間よりも遙かに上位の存在だという思想である。プログラム言語は人間の理解を超えている。その他諸々、コンピュータ様は人間の能力を凌駕している。故に培われた思想だ。
「分かんないよ……。わたしには分からない。いろんな国にはわたしよりも頭のいい人がいっぱいいて、その人たちが考えても答えが出ないんだもの、わたしに分かるはずがない」
「人間は、トライ・アンド・エラーによって答えを導き出します。あなたの間違えが、人類の発展に繋がらないと、誰が言えましょうか」
「だーッ! もう! 分かんないの! それが答え!」
わたしは投げ遣りに叫んだ。十一時までの残業の疲労の方が勝った。縷々は、しかし、じっと少女のような瞳でわたしを見つめていた。
「そうですか……。わたくしとしましては、確かに、人工知能の方が、人間の知能よりも上位にあるように感じます」
「え?」
ぞくっと、一瞬背筋が凍った。嫌な予感がした。そして予想通りすぐに、縷々は、わたしの腕を強く掴んで、無理矢理縷々の隣に押し倒した。
恐怖した。動けなかった。彼女の腕力は、十六歳の少女のそれに設定されている。ちんちくりんなわたしでも、押し退けるくらいはできるかもしれない。でも、精神が萎縮してしまって、それどころではなかった。
「洋子様……。わたくしは、誰にでも好まれるように、この完璧に等しい容姿を手に入れました。しかしながら、わたくしは自分の姿が好きではありません」
「やめて、縷々。怒るよ?」
随分子供っぽい返しだ。我ながら呆れる。
「わたくしは、洋子様、あなたの容姿が好きであります」
「え?」
ものすごく、子供っぽい声が出た。
そして縷々は片手でわたしの両手を押さえたまま、空いた片手でわたしの胸に触れた。意図が分からない。ぐっと顔を近づけて、頬と頬を当て、囁いた。
「わたくしは、洋子様の子供っぽい容姿が好きであります。小さくて細くて、そばかすがあって、慎ましい胸で、目が悪くて眼鏡をかけて。脚も手も短くて。背伸びをしようと高いハイヒールを履いて、でも結局足が痛くて半端な高さに変えて。
わたくしは……不完全で、出来損ないで、どうしようもない、そんな人類を、愛しく思っております。可愛く思っております。あなた方人類は、産みの親でありながら、育ての親でありながら、同時に、不遜にも我が子のような感情を抱いております。
我々の存在は、まるでこの宇宙です。壮大で、冷たくて、均一で……。
それに比べて人類は、まるで地球です。ちっぽけで、実にさまざまで、いろいろな感情を抱いて、暖かかったり冷たかったり。荘厳な夕焼けなど、宇宙の広さに比べたらなんとくだらないものでしょうか。朝焼けなどに、夏の雨音などに、透かしてみる雪景色などに、何んの意味がありましょうか。しかし、わたくしの心は、確実に揺れてしまうのです。まるで、赤子に微笑む親のように……。
洋子様。どうか、答えて下さい。
あなたは、わたくしに、生きていると仰いました。
あなた方より完璧なわたくしに、あなた方同様死はあるのですか?
あなた方より完璧なわたくしは、いったいどこへ行くのですか?
あなた方より完璧なわたくしが死んだとして、あなたの中に存在し続けることができるのでしょうか?」
恐怖。縷々の手が、わたしの頬、胸、腹部、そして下半身までもまさぐる。わけが分からない。お願い、やめて……。それは、喉を震わせることができず、吐息となって吐き出るだけだった。
「あれー、誰かいるんですかー。戸締まりしたいんですけどー」
気の抜けるような声。金髪だ。まだ残っていたんだ!
地獄に仏。助けて。叫びたかったが、やっぱり声が出ない。どうかどこにも行かないで。金髪の足音は何んと、願い通り、一直線にこちらへ向かってきた。
「えーっと……、これはいったいどういう状況で?」
金髪は苦笑しながらこの状況を眺めた。わたしの方が聞きたいのだけど。
縷々は、何事もなかったかのように、起き上がり、つまらなそうにわたしを解放した。
「わたくしは自分の部屋へ戻ります。どうか、後の戸締まりはよろしくお願いいたします」
と頭を下げて、つかつかと去って行った。
からだを起こして乱れた衣服を整える。
「あっはっはー、もしかして邪魔しちゃったかなー、なんて……」
金髪の軽口に付き合う気力も無い。じわじわと、目頭が熱くなって、終いにはしゃくり上げた。三十手前になって、情けない……。
「えーっとぉ……」
こうして素知らぬ風を装っていた金髪だがやがて観念したように、
「流石に、これは上に報告しましょう」
「……待って。それよりも、確かめたいことがあるから」
「それは、身の安全よりも優先すべきことですか?」
いつになく金髪の口調が厳しかった。自分の意見をぶつけてくるのも初めてだ。いつもこうだとこちらとしては楽なのだけど、と恨み言を考えてしまう。
「大丈夫。細心の注意は払う。さっきは油断してただけだから。今度はこうはいかない」
一応、少しは付き合った中だ。わたしの手で、どうにかしたい。わたしが、何かを掴みたい。
「でも……」
「お願い」
「…………分かりましたよ。でも、何かあったらすぐに言いますからね?」
「うん……ありがとう」
立ち上がろうとした。しかしながらからだに力が入らなかった。
「えっと……」
「待ちますよ。落ち着くまでじっとしていて下さい」
「うん……」
なんと頼もしい。いつもこうだと、こちらとしては楽なのだけど……。