始まりの始まり。
体が重い。頭はふわふわする。
なんだかお酒を軽く飲んだときみたいな感覚だ。
でもおかしい、だって昨日はアルコールを摂取した覚えはないし、なにより大事な研究の最中であるし。院生時代にアルコールのせいで卒業研究に多大な影響を及ぼしたことを私は決して忘れないだろう。・・・あれは辛かった、人間って一週間くらい寝なくても生きていけるなんて知りたくもなかった。睡眠は大切です。
それ以来、その経験から研究が一段落するまではアルコールを摂取しないと決めている。
元々そこまでお酒好きではないし、全く日常に変わりはなかった。ただ、お酒をいつも買っていた店の店員さんを見られなくなったのは少し悲しいけど。
浮つく気分のまま、だらだらとどうでもいいことを考える。寝ることは好きだけど、起きることは嫌いだ。
できればずっとこのまま、まどろんでいたい。
けれど。
「・・・しごと、行かないと」
私は立派な社会人である。
人として社会生活を営んでいくためには、働いて、お金を稼がないといけない。
学生の頃とは違う。起きるのが嫌でベッドの中にもぐりこんでいたら起こしにきてくれる母もいないし、私と同じく慌ただしく出勤の準備をする父もいない。
おまけに、そんな私と父を横目に優雅に朝食を貪る妹ももちろんいるはずもなく。
ああ、実家が愛おしい。
しょうがないから起きる覚悟を決める。
まずは目を開けることから。ゆっくりゆっくり、マイペースで行動するがモットーですから。
億劫ながら瞼を持ち上げる。目に入るのは、好きな色は白です!と言い張るにふさわしいであろう一面白で統一した七畳の部屋である。
友人にはこんなところにずっといたら気が狂いそうだと言われた。失礼な奴だ。
「ってあれ?」
目に入ったのは予想とは斜め上、というか、もうなんと表現したらいいかも分からないものだった。魚、海藻、そして揺らめく自分の髪、一面の青い世界。どうみても水中としか思えない。
「まだ私睡眠中なのね、そりゃあ体の感覚も少しおかしいはずだわ。」
声を出すのに水の影響は全く感じない。ただコポコポと自分の口から白い気泡が発生して上にあがっていくのはなんだか綺麗だ。
「夢の中なのに意識がはっきりしてる、ってことはこれが噂に聞く明晰夢ね!こんな感覚なんだー。水の中でこん
な自由に動ける日が来るなんて思わなかった。」
体育の成績は小学校の頃から高校までずっと3である私は運動が嫌いだ。
いや、嫌いというより運動神経が悪い。つまりは運動が苦手なのである。
もちろん水泳も例に漏れず苦手であるため、いつも水泳の時間は仮病を使って休ませていただいていました。
気付いていたと思うけど、見逃してくれてありがとう先生!
「水もすごい透き通ってて綺麗。家の近くの湖とは大違いね」
とりあえずここがどういう場所なのか確認するために水中から出ることにする。
せっかくだし、もっと水中を堪能していたかったが仕方がない。
始業時間は9時から。今何時かは分からないが遅刻は避けたい。
以前布団から抜け出せなくて遅刻したときのあの上司の顔は忘れられない。
普段笑顔でにこやかな人の無表情があんなに恐ろしいものだとは思わなかった。
水面に近付くにつれ体に触れる水が温かくなってきて心地よく、水中に差し込んだ光が魚たちの体に反射してきらきらと輝いてとても美しい。
・・・遅刻しても、この世界を体験できたことの代償だと思えばいいかな?なんて会社にとっては迷惑で、社会人にあるまじきことを考えながら水面から頭を出す。
「うわあ・・・!」
思わず感嘆の声をあげる。
目を開けた時のきらめく水の中の美しさにも驚かされたが、外の世界もすごい。
私が浮かんでいるまんまるの湖を囲むのは、高く生い茂った木や花。緑をベースにして赤や黄色や青・・・現実では見たことないような植物がたくさんある。ただ綺麗な植物たちに紛れて毒々しい色をした植物もあるのに少し不安を覚えるが、そこはまあ夢の中だし。
上を見上げれば目に入るのは雲一つない綺麗な快晴。太陽が眩しくて目を閉じて日光を思う存分浴びる。
やっぱり朝の光を浴びないと起きた気がしないのは割と多くの人に共感してもらえると思う。
一通り周囲の景色を楽しんだ後、ふと思ってしまった。
「そういえば、明晰夢ってどうやって覚めるの?」
そう、これはただの夢の世界である。
今頃現実の私はベッドでぐうぐうと寝息をあげて、セットしておいた携帯のアラームをものともせず眠りこけているのだろう。
いくらこの世界が綺麗でも私は現実に帰らないといけない。仕事に行かないと、ご飯を食べないと、洗濯をしないと。やらないといけないことは山積みである。
明晰夢の終わらせ方なんて知らない。その名前さえもネットで偶然見たページにちょこっとだけ書いてあったのを覚えていただけなのだ。
最初は明晰夢とはいえ夢なのだからすぐに覚めるだろうと思って悠長に構えていたが、水中で目が覚めたときから結構経った気がする。
まず明晰夢とは自分で覚ますものなのか、それとも勝手に覚めるものなのか。
それすらも分からない。そう思ってしまえばさっきの余裕はどこへやら、心の中は焦り一色になってしまった。
「刺激を与えれば、目は覚めるって」
書いてあった気がしないでもない。試しに目をつむって自分の頬をつねってみる。普通に痛い。けれど、これも現実に戻るため。なぜ自分の頬をこんなにつねっているのか分からなくなるほどの時間(たぶん1分もつねってないだろうけど)の後、いつもの真っ白い自分の部屋が瞼の向こう側にあると信じてゆっくり目を開けた。
「だめ・・・」
戻れない、戻れない、戻れない!
目に入ったのはさっきまでは感動しか覚えなかったあの美しい世界。
今はその美しさにも不安を覚える。せめて近所の雑木林とかだったらよかったのに!
自分のいる場所が認識できないだけでこんな不安を覚えるなんて、こんなことになるまで思いもしなかった。
「刺激が足りないんじゃない?」
夢が覚めなかった原因を勝手にそう結論づける。
たぶん、そうだと思う。
以前父に戦場で襲われる夢を見たときは胸を銃で撃ち抜かれた瞬間目が覚めたから。
あれは20年以上生きてきて見た夢の中で最悪の夢である。
ただここは私以外人の姿が全く見えないため、誰かに何かしてもらうというのは無理。
一人で目が覚めるほどに強い刺激を与えることができるのは
「どっか高いところから飛び降りるのはどうだろう!」
我ながらいいアイディアだと思う。思い立ったらすぐ行動!いつもはこの言葉とは全く逆の生活をしているけど、この状況だったら喜んで従います。
とりあえず飛び降りるための高い場所を探す。運動神経は皆無なのでロッククライミングなど高度な技術がないと辿り着けない場所は除く。ああ、悲しい。
水からあがり、そこらへんを散策する。
何が悲しくて飛び降りるための場所を探さなくてはいけないのか。
現実だったら自殺をしようと手ごろな場所を探す人と同じだ。いや、まあ同じなのだけど、そこは動機が違うから、違うということにしておいてほしい。
「た、たかい・・・」
とりあえず下が海になっている崖を見つけた。探したら崖がすぐ近くあったなんて、やっぱりこれは夢なのだろう。だって崖ってそんな身近にあるものではないし。
切り立った崖にびゅうと風が吹いて私の髪を揺らし、視界に自分の髪がちらりと映る。
いつもなら邪魔だとひと思いに後ろでくくってまとめてしまうが、今は見慣れたその黒い髪に安心する。
大丈夫、これは夢だ、死ぬことはない。
ただ夢だと分かっていても怖いものは怖い。
下を見れば足がすくむし、どうしても一歩後ろにひいてしまう。
でもこの恐怖を乗り越えないと―――
「遅刻して相模さんの説教コース確定よ・・・!」
まだ遅刻で済めばいい、もっと事態が悪化すれば無断欠勤である。
相模さんの説教どころではない、私の勤める会社は連絡なしで遅刻や欠勤することに対してすごく厳しいのだ。
よくて説教、悪かったらクビ。
就職難のこのご時世、新卒という地位を失った私に一から就職活動をしろというのか?
今の就職先に決まった時、親戚一同涙して豪華料理をもってして祝ってくれたあの人たちに
「夢見て無断欠勤してクビになりました!あは☆」
なんて言える訳もない。多少の痛いことなんて関係ない、ただ現実に帰るためならなんでもする!
頭の中に相模さんや親戚の顔を思い浮かべて自分を勢いづける、がんばれ私!
何事も勢いが大事だって誰かが言っていた気がする。
目をぎゅっとつむり、地面を蹴って崖から飛び出す。
(なにを馬鹿なことを・・・)
その直前に頭の中に声が響く。それがなんなのかゆっくり確認しようとするも時はすでに遅く。
私の体は地面のない空中にあった。
「き、きゃああああああああああああああああああ!」
覚悟して飛び降りた訳だけどやっぱり怖い!
そして目が覚める気配も全くない、ってことは私はあそこの岩で頭を打つ死ぬほどの痛みを感じないといけないのか。
そしてこのまま夢の中で死んでも目が覚めなかったら、私の死体は波に運ばれてどこかの浜辺に打ち上げられるのかな。それとも海の底に沈んでいって、魚の餌になってしまうのかな。
現実には、帰れないの・・・?
ふいに目の奥からじんわりとこみ上げるものを感じる。ああ、私泣くんだな。
でも、だって、しょうがない。
私の人生がもしも、本当にもしもこれで終わりだとしたら、そんなの悲しすぎる。
まだやりたいことだってたくさんあった。
思い浮かぶのは海外旅行だとか恋愛だとかおいしいスイーツ食べ歩きだとか、一つ一つは些細なことかもしれない。
でもこれらのこと全てが積み重なって私のこれからが作られていくはずだった。
(主よ、唱えて。言葉を!)
また頭の中に声が響く。飛び出す瞬間に聞こえた声と同じだ。
もう少し早く呼びかけてくれればよかったのに、なんて。
(はやく。死にたいのですか!唱えるだけでいいのです!)
唱えるってなにを?問い返すまでもなかった。
唱える、その単語を頭の中で思い浮かべただけで口は勝手に動いた。
「水の精霊よ。我に流れる血により契約を結び、我に従え。我が名は×××!」
その瞬間重力に従い落下にしていた体が空中にとまった。
いや、正しく言い換えると体を包み込む水の球により動きを止められている。それにしても状況がよく分からない。
「とりあえず頭の中に響く声の人、どういうことか説明してもらってもいいですか?」