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砂の途|荷運びの少年の記録  作者: なちも


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3/4

下《前編》

五 底なしの泉


 ――まだ、朝なんて来なければよかったのに。


 そう思いながら、目が覚めた。


 まだ起きたくなかったけれど、どうせもう眠れない。仕方なくもそもそと起き上がり、水袋を手に取る。

 昨日オアシスに着く前に、一つ空になっていたのだ。

 乾いた袋を手に持つと、ひとつため息が溢れた。


 どうにも胸の奥が沈む。


 砂漠を渡るより、オアシスを離れるほうが難しいなんて…。


 水辺にしゃがみ、水袋を沈める。

 朝方の薄紫を写す水面は透明度を増し、昨日よりも淡く、深くまで覗き込めるような気がしたが、やはり底までは見えなかった。

 ラクダたちも喉は潤しても、けして足を浸そうとはしない。

 もしかして、本当に底がないのだろうかという気がした。


 そう言えば、こういう場所には魚がいると聞いたことがあった。

 ふと思い出して水面を覗くが、やはり魚影は見えない。


 朝になっても、相変わらず自分たちの他には水と植物の気配だけで満ちているのだと感嘆する。


 なんて――静かな世界だろう。


 静かで、平和で、優しい。

 何も奪われる心配をせずに眠れたのは、もしかしたら初めてかもしれなかった。


 水面がわずかに揺れ、光が跳ねる。

 足を水に浸してぼんやりと未だ明けやらぬ空を見上げていると、木陰で休んでいた相棒の一頭が、そっと隣に来て座った。


――まだ行かないのか?


 そんな目をしていた。

 ついムッとして、少し拗ねたように唇を尖らせ、フイと目を逸らす。

 水中の足を強めに跳ね上げると、パシャンと涼しげな音がして、水面に波紋が広がった。


 預かった荷は気になる。

 町に行かなければと思う。

 ただ、――あの砂まみれの靴を履く気にもなれなければ、重たい砂避けのマントを羽織る気にもなれないだけだ。


 やさしく包むようなひんやりとした緑の空気を肺に深く吸い込む。

 横に座る相棒にわざと体当たりするようにドンと体を寄りかからせたが、やはりというかなんというか、全く微動だにしなかった。

 代わりに、冷えた体に少し高めの体温が滲むように伝わって、慣れた温度にホッと肩の力が抜けた。

 胸の重しが少し溶けて、ゆるむ。

 そうして足を水中で揺らめかせながらじっとしているうちに、ふと水に入ってみたくなった。


 "人の体は水に浮かぶ"


 どこで聞いたのか忘れてしまったが、いつだったか、誰かがそう言っていたのを思い出す。

 確かめるなら今しかない。


 相棒の首に両腕を回してしがみつき、恐る恐る体を水に沈めてみる。

 ひやりとした冷たさと、空中に投げ出されたような、目に見えない何かに押し上げられるような不思議な浮遊感に、少しだけ、息が止まる。

 腰から下は、今、もう水の中にあるのだ。


 爪先を伸ばしてみても、やはり底には触れない。

 

 浅く短い息を吐き、また相棒の首を下に伝うようにして、ゆっくりと水中に身を沈めていく。

 ゆっくり、慎重に。

 時間をかけて、やっと胸まで沈んだ。

 いつの間にか前足を掴んでいたらしい。

 不快げな唸り声にハッとして思わず手を離してしまって、慌てて水を跳ね上げながら岸にかじりつく。

 水を吸ってまとわりつく服の重さにギョッとして、心臓がドキドキと忙しなく鳴る。

 足が地面につかないというのは、思ったよりずっと頼りなく感じる。


 同時に、でも、と思った。でも、――沈みはしなかった。


 肘を岸に乗せて、そっと息を吐く。

 胸のあたりまで水に沈んでいるのに、柔らかな草の感触に触れているだけで、そばに慣れ親しんだ気配があることが思い出される。忙しなかった鼓動も、心なしか少し落ち着いてくるような感じがした。


 ためしに、足をゆっくり伸ばしてみる。

 水を蹴ると、ふわりと腰のあたりが持ち上がって、体が軽くなったような気がした。


 ――浮いてる。ちゃんと。


 水中に漂うような不思議な感覚。水面が胸の下で、やわらかく支えている。

 水と体の境目が、線ではなくて、溶け合うみたいに曖昧になる。


 なんて贅沢だろう。

 こんなに清らかな水に惜しげもなく体を浸して、まるでお貴族様のようだ。…いや。お貴族様でも、こんな場所は知らないかもしれない。


 風が吹いた。

 椰子の葉がざわめき、遠くで砂が鳴る。

 水面に広がった波紋がチャプリと背中を押す。


 水面がさざめき、光が散る。


 気づけば、腕の産毛が逆立っていた。


 ――そろそろ上がるか。


 水に浮くのが本当だということも確かめたし…。


 そう思いながら、何の気無しに、ただ少し高めの壁に登る要領でふいと体を陸に押し上げようとして、その重たさにびっくりする。

 体がダルいのか、それとも服が重いのか、いつもみたいに動けない。背筋がヒヤリとする。

 ふと気づけば、水音に反応したのか、すぐ近くにいた相棒が、いつの間にかまぶたを半分だけ上げて億劫そうにこちらを見ていた。


 目が合う。


「すまん。…たすけて?」


 情け無い声で助けを求めると、相棒は「やれやれ…」とでも言いたげに鼻を鳴らし、首を伸ばしてきた。


 襟首を雑に咥えられて支えられながら、這々の体で這いずるように岸に上がる。

 柔らかな草地に濡れた体を投げ出すようにして倒れ込み、やっと深く息を吐いた。


 焦った。死ぬかと思った。次は服を脱いで入ろう…。


 濡れた服を絞り、低木の木にかける。

 砂漠で夜を迎える時のような冷え込みようにギョッとして、慌てて火を起こし、茶を沸かした。

 知らぬ間に指先がかじかんでいた。

 

 ここの水で沸かした茶は、いつもの黒ではなく鮮やかな赤になった。

 棗椰子を少し齧り、そっと茶を啜ると、甘みと思いがけず鮮やかな香りが鼻に抜けて、思わず「んグ…」と喉が鳴った。


 香りがパッと広がる分、舌に残る渋みが淡い。


 これなら、もしかして甘みなしでも飲めるかもしれない。でも、――少し物足りない気もする。


 その軽く鮮やかな赤い茶をゆっくり啜っているうちに、やっぱりここはずっといる場所ではないのかもしれないという気が深くなる。


 服が乾いたら出発しよう。


 短い昼寝から覚めると、服はもうすっかり乾いていた。

 乾いた服を着て、丁寧に荷をまとめる。

 ラクダはもう、立ち上がる気配を見せていた。

 砂よけのマントを羽織り、靴を履いて、その背に手をかける。

 一瞬、後ろ髪を引かれた感じがして、そっと目を閉じる。


 「また来たらいい」相棒に連れられて、きっとまた来れる気がする。


 誰にでもなく言った言葉が、風の中で小さく消えた。


 砂の海はいつも通りの厳しさで遥か地平の彼方まで広がっていた。

 深く息を吸う。

 喉を通る空気が慣れた暑さをしている。

 振り返ると、椰子の葉が静かに波を描いていた。

 その音は、まだ耳の奥に残っている。


 背後で風でさざめく椰子の影が光を反射して、誘うようにチラチラと揺れる。

「また来よう」ともう一度小さく呟く。


 ラクダが首を一度だけ振った。


――― 


六 町へ


 砂の道を踏みしめながら町へ向かう。


 町は、すぐにわかる。

 オレンジ色の砂漠の中に突如出現する人工物。

 白い建物がぎっしりと並ぶ様は、遠目にもよく目立つ。宵の口ともなれば、なおさらだ。


 閉門の支度をしていた門番に手を振って合図する。

 慌てて走りより、いつも通り通行証を見せて町に入った。


 夜の明かりが灯る町は、人の声と灯りで賑やかに息づいていた。


 街角には雑貨を売る露店が並び、乾いた砂の香りと、香辛料の匂いが混ざる。

 道すがら感じる砂漠の孤独や単調さが嘘のように目まぐるしく、人々の息づかいがそこここでそれぞれのリズムを刻んで今や遅しと動いている。


 町にくるといつもこの賑やかさに目を回しそうになるが、町の活気に触れ、その流れに身を任せるのは中々に心地よくもある。


 ――でも、毎日じゃなくて良い。


 お馴染みの場所に荷を運びながら、私はふと、頭をよぎったそれに目を丸くした。

 自分がこの町に属していないことにホッとしている。それが少し意外だった。


 幼い頃、路上にいるところをあの人――師匠に拾われた。

「お前、俺の仕事を覚えるか?」

 嗄れた声でそう尋ねられ、頷いたら、パンをくれた。

 それ以来、運び屋をしている。


 自分はこれしかないから、運び屋をしていると思っていた。――でも、違うのかもしれない。

 初めて、そう思った。


 白い建物の影には人が群れ、売り声や足音が重なり合う。

 水売りの呼び声に耳を惹かれ、立ち止まる。

 井戸を所有していないとできない仕事だが、私たちみたいなのには、食いっぱぐれがない人気の職業だ。いつか、貯めたお金で井戸を買って、地に足がついた暮らしがしたいと思っていた。

 今夜もたくさんの人が立ち止まり、ひっきりなしに買っていく。だけど、今夜は、水売りの得意げな赤ら顔を見ても、なぜだか羨む気持ちが起きない。

 離れてもなお目に浮かぶ緑が揺れる澄んだ水面。井戸だって充分ありがたいが、井戸とは全然違う。

 新鮮なオアシスの水が満ちている水袋をそっとなぞり、微笑む。

 オアシスで感じた鮮やかな静けさを思い出すと、なんだか町の井戸が味気なく、喧騒もいつもより色あせて見えるような気がした。

 水売りの前を素通りし、宿が立ち並ぶ通りへと向かう。


 今夜はいつもより少しいい宿に泊まろう。


 旅の間に手にしたちょっとした自由と豊かさに、胸の奥がじんわりと満たされて、少しむず痒いようなソワソワとした熱を帯びた。

 

 宿に部屋を取り、ラクダを小屋に繋ぐ。

 いつもはサッと屋台で済ませる夕食だが、今夜は宿の食堂に席を頼んだ。

 頼まれたものを買い付けて宿に戻ると、食堂では複雑に絡む香辛料の匂いが漂っていた。

 町の食べ物は味が濃い。

 村の食事より香辛料がよく効いていて、油の多い料理。

 生の果物なんて普段は贅沢品で口に入らないが、今夜は思い切って頼んでみる。


「羽振が良いじゃないか」

「ちょっとね」


 果物を一切れ口に運んだ瞬間、ひやりと舌が驚いて、目を瞬かせた。

 こんな冷たいものを、町中とはいえ、砂漠で口にできるとは思わなかった。

 思わず宿の主人に尋ねると、「うちの宿は、地下の貯蔵庫があるもんでね」この宿の売りだよとニヤリと笑った。

 石で囲んだ貯蔵室は昼でも涼しく、夜にはひんやりと冷えるのだという。


 なるほど――と頷きながら、もう一切れ、さっきよりもゆっくり噛んで、味わう。


 甘さよりも、冷たさと瑞々しさの方が印象に残る味だ。口に含むと、オアシスの青さが蘇る。

 胸の奥までじんわりと満たされる感じがして、私はふと微笑んだ。あの場所に行けたことが、ただ嬉しかった。


 食後、部屋でくつろいでいると、扉がコツコツとノックされた。

 少し警戒しながら扉を細く開けると、「すみません」と無邪気な声が聞こえて、視線を下げる。

 肩までのおさげ髪に生成りのエプロンをした幼い娘が、両手に水を張った手桶と手拭いを抱えて立っていた。


「お水をお持ちしました」


 思わず、「頼んでないけど」と言えば、首を横に振ってにこりと笑う。

「当宿のサービスです」

 言われて、思わず目を丸くした。

 昨日から、初めてのことばかりだ。


「うちは井戸を持ってるんです。だから、いつでもお水が使えるんですよ」


 誇らしげな声に、やっぱり良い宿は違うなと感心しながらありがたく手桶を受け取ると、娘はしばらくこちらを見つめてから、少し首を傾げた。


「お客さまは……砂漠を越えてこられたんですか?」

「そうだよ」

「そんなにきれいな格好で渡ってきた人、はじめて見ました」


 不意の言葉にドキリとして、「ああ…まあ、ちょっとね」と笑ってごまかす。

 娘がハッとしたように自分の口をパッと押さえて、眉を下げた。


「ごめんなさい。ひみつですよね…!」


 ヒソヒソと無邪気に言われ、そんなところだと頷く。

 なるほど、と頷くしかめつらしい顔に、なんとなくそのまま気まずくなるかと思いきや、一転、娘はぱっと笑顔を戻して、軽くスカートの裾をつまんだ。


「今後とも、どうぞごひいきに」


 明るい声とともに、思いがけず人懐こい笑みを見せられ、面食らう。

「使い終わった桶は、廊下に出してくださいね!」

 ポカンとしているうちに、扉はそっと閉じられ、廊下の向こうに、小さな足音が遠ざかっていった。


 今後とも、ご贔屓に?


 そんなこと初めて言われた気がする…。


 使い終わった桶を部屋の扉の前に出し、いつもより広く柔らかな寝台に大の字に寝転がる。

 横になると、久しぶりの感触に思わず長い息がこぼれた。 

 いつも通りのはずなのに。町の賑やかさも、水売りも。――まあ、宿だけは、いつもより良い所にしたけれど…。

 けれど、それを差し引いても、今日はすべてがいつもより軽やかで、少し優しく、新しかった。


 ――なんだか今夜はいい夢が見られそうだ。


 枕元に灯されたランプの灯を落とし、静かで少し賑やかな夜の中に身を委ねる。

 伏せた瞼の裏で、オアシスの澄んだ水の色が重なる。

 夢現に、椰子の木のさざめきを聞いたような気がした。


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