第八話 神父の説法
今日は礼拝の日である。敬虔な村人も、そうでないものも、労働をやめて教会に集まり、神父の話を聞くのだ。
村長の息子と妻、農夫、井戸でおしゃべりをしていた女たち……およそほとんどの村人が礼拝堂に集まっている。ストラシュもまた、後ろの方でお堂の壁に背を預け、杖に寄りかかって立っている。少しだからと言って座るのを固辞した。絶対にこそばゆい思いをするから、途中で何食わぬ顔で出て行くつもりだったのだ。
グレゴール神父は説教壇に立ち、村人たちを見渡す。灰色の朝の光が窓から差し込み、彼の痩せた顔に影を落とす。そして無造作に語り始める。
「主の御名において、皆さん。今朝は聖典に記された、最も重要な物語について語りましょう。勇者と魔王の物語について」
少しの間があり、村人たちの視線が集まる。神父は聖典を両手で掲げ、それから胸に抱く。
「聖典の最も古い部分、我らが祖先が神の言葉を書き記した部分にこうあります。『初めに光があり、闇があった。そして光と闇は分たれた。しかし闇は常に光を脅かし、世の終わりまで戦いは続く』と。この構図の最たるものが、魔王に戦いを挑む勇者を語った物語です」
大事な説法の最中ではあるが、並び座る村人の中には、ちらほらとストラシュの方を振り返る者がいる。
(ほらこうなるんだ……)
なまじ立ってままなものだから、いちいち目が合う気がする。どんな顔をすればいいかわからない。説法が続く。
「では勇者とは何者なのか。魔王とは何なのか。我らの祖先は、この問いに長く答えを求めてきました。中央大司教区から届いた教皇様のお言葉があります。皆さん、よくお聞きください」
聖典とは別の書状を取り出し、読み上げる。
「『勇者を送り出す者よ、勇者を支える者よ、勇者のために祈る者よ。あなた方は徳を積んでいる。たとえ勇者が倒れようとも、その志は天に届く。戦い続けることこそが、神への信仰の証である』」
神父は書状を置き、村人たちを見渡した。
「つまりこういうことです。勝てるか勝てないかが問題なのではない。戦うか戦わないかが問題なのです。そして勇者様は我らの祈りを一身に受け、大いに戦ってくださった!」
そしてさらに声に力を込めて続ける。
「我々がこの辺境の村で、勇者様をお迎えできたことは神の思し召しでしょう! その方を支えること、これらすべてが徳なのです! 天国への階段を登る一歩一歩なのです!」
村人の中には感涙するものがいる。嗚咽を漏らす声が聞こえてくる。ストラシュは精一杯、おもはゆい気持ちを抑え、今し方言われたような英雄譚に相応しい人物であろうと心掛ける。
……しかし彼はもともと田舎貴族の三男坊で、勇者に選出された後も重大な運命を自覚したことはなかった。むしろ魔界があんな恐ろしい場所だと知っていたら、貴族の地位を捨てて逃げていただろう……。
もっとも、勇者になった瞬間、元の身分には戻れないのだから同じことだ。こうして生きて帰って仕舞えば……もう身の振り方すらわからないのだ。村に馴染もうとする振る舞いも、もしかすると迷惑なのかも……。
そう考えているうちに、説法は佳境に入った。神父は両手を点に掲げるように広げ、声に温かみが戻った。
「我々は弱い存在ですが、信仰があります。そして勇者様に全てを捧げる覚悟があります」
「だから祈り続けましょう。働き続けましょう。勇者様を、神が遣わしたお方を、支え続けましょう。それが我々の、小さいけれども確かな戦いなのです」
神父は聖典を胸に抱き、感極まったような興奮の中で言葉を吐き出す。
「主は我らと共におられます。たとえ闇が深くとも、光は消えません。なぜなら――」
そこで全員の声が唱和する。定型句である。
「光は闇の中で輝き、闇はこれに勝てなかった」
神父は十字を切る
「神の祝福が、皆さんの上にありますように」
*****
今日の礼拝は大成功だったようだ。お堂を出て行く時、誰もが涙しながら勇者ストラシュに握手を求め、その手に接吻した。
村長の息子は「神の祝福を」と何度も繰り返し、農夫たちは「勇者様のために働きます」と誓い、井戸端の女たちは「毎晩お祈りしております」と囁いた。子供たちまでがストラシュの外套の裾に触れようと手を伸ばす。
ストラシュは一人一人に微笑みかけ、言葉をかけた。疲労が体を蝕んでいくのを感じながらも、顔には何も出さない。これもまた、勇者の務めなのだろう。
最後の村人(老婆が孫娘の手を引いて出て行く)が重い木の扉を閉めた。鈍い音が礼拝堂に響き、それから静寂が戻った。
完全な静寂。
さっきまでの熱気が嘘のように消え、冷たく湿った空気だけが残った。窓から差し込む灰色の光が、埃の粒子を浮かび上がらせている。石造りの礼拝堂は静けさに包まれていた。
ストラシュは壁に寄りかかったまま、動かなかった。杖に全体重を預け、目を閉じる。片足が疼く。いや、ない方の足が疼く。幻肢痛というやつだ。
グレゴール神父は説教壇に立ったまま、聖典を抱いている。その背中は丸まり、さっきまでの力強さはどこにもない。まるで糸の切れた人形のように、ただそこに立っているだけだった。
二人とも、疲れ果てていた。一人は重たい尊敬ゆえに。一人は単に年齢ゆえに。
長い沈黙の後、ストラシュが口を開いた。
「神父」
神父の肩が微かに動く。しかし振り返らない。
「さっきの説法、本当に信じているのか?」
神父の手が、聖典を抱く手が、微かに震えた。それでも答えない。沈黙だけが答えだった。
ストラシュは杖をつき、ゆっくりと説教壇に向かって歩き始めた。杖、左足、杖、左足。規則正しい音が空の礼拝堂に響く。
「『勝てるか勝てないかが問題ではない』」
一歩、また一歩。
「『戦い続けることこそが信仰の証』」
説教壇の前で立ち止まる。一段だけ高いところにいる神父の背中を見上げる。
「俺が魔界で見た仲間の死も、俺が失った足も、全部『徳を積むため』だったのか? 答えてくれないか、神父。神との対話を助けてくれるのが聖職者なんだろう?」
詰め寄るようなストラシュの声には、しかし怒りはなかった。ただ、深い疲労と困惑。そして哀しみだけが宿っていた。
神父の肩が震えた。そしてついに、絞り出すように言った。
「……わかりません」
その声はかすれていた。
「わからないのです、勇者様」
神父はゆっくりと振り返った。その老いた顔には、先ほどまでの確信も、力強さも、何もなかった。ただ、深い疲労と苦悩。そして、運命への恐怖。
「私にはわからないのです」
そして神父が長椅子を指した。
「座りましょう。立ち話はお辛いでしょう」
ストラシュは頷き、二人は並んで座った。古い長椅子。木が軋む音がした。窓から差し込む灰色の光のなか、長い沈黙があった。神父が先に口を開いた。
「私は……迷っているのです」
「何に?」
「全てに」
神父は両手で顔を覆った。
「神の御心に。教会の教えに。自分の行いに」
指の間から、震える声が漏れる。
「何が正しいのか……もうわからないのです」
ストラシュは黙って聞いていた。何も言わず、ただ聞いている。それが今の神父に必要なことだと、直感的に理解していた。
「さっきの説法も……」
神父の声がさらに小さくなる。
「信じているのか、信じたいだけなのか……自分でもわからない」
「それでよく、あんな力強い説教ができたな」
「……職務ですから」
神父は自嘲的に笑った。乾いた、喉の奥から絞り出すような笑い。
「村人には、迷いを見せられません。神父が迷えば、村全体が迷う。だから……演じるのです。確信を」
演じる。その言葉が、ストラシュの胸に刺さった。
「俺も同じだ」
ストラシュは窓の外を見た。村の屋根が見える。畑が見える。そして遠くに、黒い森が見える。
「勇者を演じている。英雄を演じている。でも本当は……ただの臆病者だ。仲間を見殺しにして、一人だけ生き延びた卑怯者だ」
神父がストラシュを見た。その目に、驚きと……そして共感。深い、痛みを伴う共感。
「グレゴール神父。俺もただの人間だ。神に選ばれた英雄なんかじゃない。ただの、弱い人間だ」
二人の間に、これまでにない親密さが生まれた。仮面を脱いだ者同士の、静かな連帯。役割を押し付けられ、それに潰されそうになっている者同士の、無言の理解。
ストラシュは深く息を吸った。そして、話し始めた。
「俺は生まれは貴族だ」
神父が顔を上げる。
「田舎の、取るに足らない貴族だがな。それでも教育は受けた。教会の語る聖典の内容だけでなく、俗世の歴史も学ばされたものだ」
「……はい」
「勇者は聖典にも書かれた英雄だ。それは確かだ。光と闇の戦い。終末の預言。そういうのは全部知っている」
ストラシュは言葉を選びながら続けた。
「だが……勇者の冒険譚に魔女が関わっているという古い伝説が歴史書に記されている。東方の古い物語だ」
「ああ、『カラスの勇者譚』ですね」
神父は少し身を乗り出した。話題が変わったことで、少し楽になったようだった。
「私も存じております。何せこの地域では聖典の内容と混同してしまっている信徒も多いものですから。東方の民間伝承。黒いカラスが勇者を導き、魔女が力を与える物語。教会ではもちろん俗信、異教の残滓とされています」
「俗信か」
ストラシュは苦笑した。
「聖典と歴史が矛盾するなら、どちらを信じるべきかは明白、というわけか」
「その通りです」
神父は頷いた。しかしその動きには、どこか躊躇いがあった。
「しかし……」
「しかし?」
「しかし、私も……疑問を持つことがあります」
神父の声が小さくなる。
「教会の教えと、この目で見る現実が……食い違う時……例えば、魔女のことです」
「魔女?」
「教会は魔女を『神の道具』と呼びます」
神父は言葉を選びながら、慎重に話した。
「善でも悪でもない、ただの道具だと。神が御自分の計画のために用いる、意志のない存在だと」
「しかし?」
「しかし……」
神父は深く息を吸った。
「しかし、私はこの村で、魔女の……いえ、東の民の女性たちを見てきました。何十年も」
その声に、かすかな温かみが戻った。
「彼女たちは……道具ではありません。人間です」
「……」
「苦しみ、泣き、笑い……我々と同じ、血の通った人間です。母であり、娘であり、姉妹です。教会の教えでは、彼女たちを軽蔑すべきです。実際、私も皆の前ではそのように振る舞います。あなた様のお仲間にも随分無礼な態度をとってしまいました」
神父はストラシュの目を見た。そこには本当のことを語る老人の、小さな灯火のような光があった。ストラシュは話題を変える。
「しかし、なぜ教皇は魔女教団の占いに従って勇者を選出するのだ?」
神父の体が固まった。
「俺が勇者に選ばれたのも、魔女の一人が夢で教皇に告げたからだ。皇帝はどうもそれを信じていないようで、ただの催し物のように語っていたが……だがそんな魔術めいた方法がいまだに継続しているのは……」
グレゴール神父は真摯に耳を傾けてくれていた。
「その伝説に従うことに意味があると、教会も知っていたからじゃないか? 魔女の力が本物だと、認めているからじゃないか?」
神父は息を呑んだ。その質問は、信仰の根幹を揺さぶる。
「……それは」
言葉に詰まる。額に汗が滲む。
「神が……魔女をも御自分の計画のために用いておられるから……」
「本当にそう思うのか?」
ストラシュは身を乗り出した。
「それとも……教会が認めたくない真実があるんじゃないのか? 魔女の力は、神の道具なんかじゃない。もっと古い、もっと根源的な何かだ」
「勇者様……」
神父の声が震えた。
「あなたは……何をおっしゃっているのです」
「俺が言いたいのはな」
ストラシュは静かに、しかし確信を持って言った。
「聖典にも、教会にも、全ての答えがあるわけじゃない。時には……異教の知恵にも、耳を傾けるべきなんじゃないか?」
神父は黙り込んだ。その言葉は、六十年以上築いてきた信仰の城壁に、亀裂を入れる。
しかし……否定できない。心のどこかで、ずっと思っていたことだから。
「東へ向かう王をカラスが導いたという伝説もあるそうだ」
ストラシュは続けた。
「カラス……魔女の象徴だ。そして今でも使い魔として使役される。俺の仲間の魔女、ルヴィナチワがそうするようにな」
神父は小さく頷いた。
「あのカラスは……不思議な鳥です」
「不思議?」
「普通の鳥ではありません。あの目は……何かを知っている」
神父は窓の外を見た。どこかに、あのカラスがいるのだろうか。
「魔女を輩出する森の民の力」
ストラシュは神父の横顔を見つめた。
「それをあんただって信じてるんじゃないのか? 昨晩、森の老婆から何かを受け取っていたのも信じてなければできないだろう?」
長い沈黙。
神父の顔に、苦悩が深く刻まれていく。思ってもみないことを言われ、信仰と現実の間で、引き裂かれていく。
そしてついに……告白した。
「……ええ」
小さな、しかし明瞭な声。
「信じています」
その一言が、堰を少し開いた。水が、ほんの少しだけ流れ始める。
「彼らの知恵を……必要としています」
神父は続けた。
「教会の祈りだけでは……足りないのです。私は異教の秘術に頼っています」




