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第七話 森の民

 村に到着してから、二週間が経っていた。

 朝食が終わるとストラシュは屋内の寝台に横たわり、天井の木目を眺めていた。朝の光が窓から差し込み、埃が舞っているのが見える。神父が持ってきてくれる食料を、ルヴィが料理し、二人で食べ、それ以外は何もしない。ただ、時間だけが過ぎていく。

「……このままじゃ、肉体の死を待つまでに心の方が先に死ぬなあ」

 呟きは、誰に聞かせるでもなく、ホコリの舞う空気の中に消えた。魔界でこんな気持ちになったことは一度もなかった。何とか食べられる魔物の肉を調べ、生き延びることに徹し、毎日血反吐を吐く思いで前に進む。

 倦み疲れるヒマなんかあるはずもない。足を片方失うまで、確実にストラシュは生命の極限で充実を得ていた。

 ストラシュは身体を起こし、杖に手を伸ばした。右足の切断部は全く傷まない。帝都の最高の魔法医療を受けられたことには、本当に感謝したい思いだった。今では杖で動くのに支障はない。

「さて、どうするか」

 ふと、魔界で夜営の度に武器の手入れをしていた記憶が蘇る。剣の刃を研ぎ、鎧の傷を叩いて直す。座ってできる作業だ。片足でもできるかもしれない。

 決意が固まった。ストラシュは杖をつき、家を出た。

 鍛冶屋までの道のりは短いが、ストラシュにとっては長い道程だった。杖を突きながら一歩一歩進む。村人たちが驚いた顔で見つめるのを感じ、心配させまいとできるだけ笑顔で挨拶をする。困惑混じりの返答があったが、構わず前へ進んだ。

 だんだんと、金槌のカンカンキンキンという音が聞こえてきた。


 鍛冶屋の作業場は村の外れにあった。開け放たれた入口からは、炉の熱気が立ち昇っている。中を覗くと、筋骨逞しい男が真っ赤に熱した鉄を金床の上で打っていた。火花が散り、リズミカルな金槌の音が響く。

「すみません」

 ストラシュが声をかけると、鍛冶屋は手を止め、振り返った。五十過ぎと思しき男の顔には、長年火に炙られた跡が刻まれている。

「おお、あんたは……」

 鍛冶屋は目を見開いた。

「英雄様じゃねえか。どうした、こんなところまで」

「少し、相談があって」

 ストラシュは杖をつきながら一歩踏み込んだ。

「ここで、仕事を手伝わせてもらえないだろうか」

「仕事?」

 鍛冶屋は怪訝そうに眉を寄せた。視線が、ストラシュの右足に向けられる。杖で支えられた身体。左足だけで立つ姿。

「あんた……」

「座ってできることがあれば、何でもいい」

 ストラシュは真っ直ぐに鍛冶屋を見た。

「刃を研ぐとか、鎧の補修とか。魔界では毎晩やっていた」

 鍛冶屋はしばらく黙ってストラシュを見つめ、困惑した表情を浮かべた。五十を過ぎた屈強な男だが、今は戸惑いに満ちた少年のような顔をしている。しかしやがて男は作業場の隅に向かった。そこには修理待ちの農具や武器が山積みになっている。その中でできるだけ刃が真っ直ぐで研ぎやすそうなナイフを選ぶ。そして作業台の前に椅子を用意した。

「足漕ぎで回すグラインダーは……片足じゃ無理だよな。砥石でいいか?」

「ありがたい」

 ストラシュはそこに座り、杖を脇に置いた。右足がない分、バランスを取るのに気を使うが、座ってしまえば問題ない。上着を脱ぐと、親方が息を呑むのが聞こえた気がした。

 上半身にも、無数の傷があった。

 切り傷、刺し傷、焼け跡。魔界での戦いの痕跡が、肌に刻まれている。特に胸から腹にかけて走る大きな傷は、何かの爪で引き裂かれたような痕だった。

「勇者様……」

 今までどことなく煙たがるような調子だった鍛冶屋の声に、本当の尊敬の響きが聞こえた。ストラシュは苦笑する。

「その呼び方はやめてくれ。ストラシュでいい」

 そして砥石に水をつけて、シャッシャと研ぎ出した。

「じゃ、じゃあストラシュさん」

 鍛冶屋は金槌を置き、汗を拭った。

「あんた、これからどうするつもりなんだ?」

「どうするって、別に何も」

 ストラシュは手元に視線を戻した。

「ただ、こうして……手を動かすことをしたいだけだ。座って天井を見つめているより、ずっとマシだ」

 鍛冶屋は腕組みをして、ストラシュを見下ろした。その目には、好奇心と困惑が混じっている。

「年寄りみてえなこと言うんだな。村の連中は……あんたに期待してるぞ」

「期待?」

 ストラシュは苦笑した。

「何を期待するんだ。片足の抜け殻に」

「いや、そりゃあ……」

 鍛冶屋は言葉に詰まった。視線を逸らし、炉の方を見る。

「神父様なんかは、あんたが何か奇跡を起こすんじゃねえかって……」

「奇跡なんて起きない」

 ストラシュは静かに言った。研ぎの手は止めない。

「魔王は討てなかった。仲間は死んだ。俺は逃げ帰ってきた。それだけだ」

 シャッ、シャッ、と砥石の音だけが響く。

「……そうか」

 鍛冶屋は何か言いたげだったが、結局何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。そしてもう一度、炉の方を見た。

「まあ、なんだ」

 ぽつりと呟く。

「あんたがここで、刃を研いでくれるってんなら……俺は嬉しいよ。それだけだ」  その言葉に、ストラシュは顔を上げた。鍛冶屋は照れくさそうに頭を掻いている。

「変な期待とか、そういうのは俺にはわからねえ。でもあんた、いい手してる。戦う中でそうなったのか知らねえが、職人の手だ。そういうやつと一緒に仕事できるのは……悪くねえ」

 鍛冶屋は再び作業に戻り、金槌の音が再開した。炉の熱と火花、鉄の匂い。魔界で野営をしていた時とは違うが、不思議と落ち着く。手を動かすこと、何かを作ること、直すこと。それだけで、停滞していた心が少しずつ動き始めるのを感じた。

「まだ英雄だよ、あんたは。みんなそう言ってる。正直言って、あんたが来た時は驚いたもんよ。見てたけど……勇者様と呼ぶにゃあ、ずいぶん覇気がねえんじゃねえのってな」

「はは」

 ストラシュは手を止めることなく笑う。

「村に来てから初めてだよ、そこまで言ってくれるのは。だが事実だな」

「あんたは腑抜けに見えた……。だが村の連中は、神父様も、あんたに何か期待してるんじゃねえのか」

「期待されても困る」

 ストラシュは砥石に向かってナイフを動かし続けた。刃が少しずつ本来の鋭さを取り戻していく。

「俺はもう、誰も救えない。自分一人、生きるのがやっとだ」

「それでも、ここに来たんだな」

 鍛冶屋は再び金槌を手に取った。

「何もしないでいるよりは、絶対にその方がいい」

「……ああ」

 一時間ほど経っただろうか。ストラシュが研いでいたナイフの刃が、鈍い光を取り戻し始めた。なまくらだった刃が、最低限使える鋭さになっている。

「おお……」

 鍛冶屋が作業の手を止め、近づいてきた。刃を手に取り、親指の腹でそっと刃先を確かめる。

「初めてだと思えねえ! こんなに綺麗に……」

「旅の間はそこらの石ころで武器を手入れしてたからな」

 ストラシュは砥石を置き、手の平を見た。久々に作業をしてジンジンと感じるものがある。充実の感覚だった。

「研ぎ方は我流さ。ただ、刃を研がなければ死ぬ。それだけだった」

 鍛冶屋は何も言わず、頷いた。そして次の農具を持ってきた。しかしストラシュは手を上げて制した。腕が震え、手に力が入らない。

「ふう……やはり、ゴロゴロしてたせいでなまっているな」

 自嘲気味に呟き、ストラシュは砥石を鍛冶屋に渡した。全身から力が抜け、椅子にもたれかかる。疲労が、波のように押し寄せてきた。

「勇者様、ありがとう。少しずつやれるようになりゃあいい。あんた、研ぎの腕はかなりのもんだぞ? 量さえこなせるようになりゃあ、村の外からも仕事がくるかもしれねえ」

「そうかい、そりゃ嬉しいよ」

 ストラシュは疲れた顔で笑った。

「なら、また来てもいいか?」

 親方は首を縦に振った後、何か言いかけたが、結局何も言わなかった。ただ、深く頭を下げた。ストラシュは上着を羽織り、杖をついて立ち上がった。帰り道は、来た時よりもさらに長く感じられた。だが、胸の中には、確かな充実感があった。

久しぶりに、生きている実感があった。


*****


 午後、広場がざわめき始めた。

 井戸のそばを借りて体を洗っていたストラシュは、森の方角から東の方から色鮮やかな一団が近づいてくるのを見た。女を中心とした集団で、薄汚れているが、華やかな衣装を身につけていた。荷車には香辛料の袋、薬草の束、見慣れない布地が積まれている。

 行商人だった。彼らの肌は病人のように白く、瞳は深い紫色。女たちは鮮やかな刺繍の入った長いスカートを履き、頭には色とりどりのスカーフを巻いている。男たちは革のベストに幅広のズボン。この帝国の人々とは明らかに違う出で立ちだった。彼らは荷車を引きながら、独特の抑揚のある言葉で話し合っている。村人たちが使う帝国語とは全く違う、東の言葉だ。

 村人たちは距離を置きながらも、必要な品を求めに集まってくる。辺境のこの村では通貨は日常では使われることはない。物々交換だ。村人は採れた野菜や鉄の道具を持って集まってくる。しかし誰も彼らに近づきすぎることはない。ひそひそと囁き合い、視線を交わし合っている。

 ストラシュは体を拭きながら、その光景を見ていた。行商人の中の一人の若い女が目に留まった。黒い髪、色白の肌、細い体つき。どことなくルヴィに似ている。いや、似ているというより……同じ出自なのだろう。東の森の民。魔女と呼ばれる者たちと、同じ血を引く人々。ストラシュは改めて、ルヴィがこの村でどれほど孤立しているかを思い知らされた。

「勇者様」

 木桶を持ったグレゴール神父がストラシュに近づいてきた。キョロキョロと辺りを見て、誰も聴いていなさそうだと判断すると、声を潜めて言う。

「あの者たちは東の民です」

「ああ」

「魔女教団と通じておりますゆえ、どうかお気をつけください」

 神父の目は真剣だった。ストラシュは少し咎めたい気持ちになった。

「おいおい、もしかして俺の仲間のルヴィに対してもそんなふうに思ってるんじゃないだろうな? そんな気はしているが、村の人たちの視線を彼女も怖がっている。神父様。あなたのそういう態度は、その、少し……」

「実を申しますと、ストラシュ様」

神父は視線を落とした。「私は……彼らを恐れているわけではないのです。ただ、彼らを守りたいと思っているだけで」そして顔を上げ、ストラシュの目を見た。「この村はまだ、ましな方なのです」

「もっと西の村々では……いえ、帝都に近い村でさえ、東の民に対して酷いことをしておりました。祭りの前になると、森から彼らを攫ってきて……その、慰み者にするのです」

 神父の声には嫌悪と悲しみが混じっている。

「男も女も、子供さえも。豚小屋に繋いで、祭りの間じゅう……」

 言葉を濁す。

「それを『魔女狩り』などと称して。使い終われば森に捨てる。まるで獣のように」

 窓から見ていたカラスが、悲しげに鳴いた。

「しかしこの村は違いました」

 グレゴールの声に、かすかな誇りが滲む。

「私の祖父の代から、いえ、もっと前から、東の民とは交易の関係がありました。彼らから薬草や毛皮、琥珀を買い、こちらは穀物や鉄器を売る。相互に必要な、対等な関係でした」

 神父は語気を強くする。

「父は特に厳しく禁じました。『彼らも神の子である』と。祭りの時期になると、西から来る者たちに『この村では東の民に手を出すな。さもなくば神罰が下る』と告げて回ったものです」

 しかし、そこで神父の表情が翳る。

「父が生きていた頃は……村人も、まだ人の心を持っていました。今は……」

 ストラシュの脳裏に、あの下品な笑い声が蘇った。帝都からこの村へ向かう荷馬車の御者。赤ら顔で酒臭い男が、歯を剥き出して笑っていた。

(祭りの楽しみってやつで! ダハハハハハ! 豚小屋に繋いで。四つん這いで。魔女の女を。 ダハハハハハ)

 ストラシュは拳を握りしめた。あの時は聞き流そうとした。不快だったが、関わりたくなかった。だが今は違う。目の前に、東の民がいる。ルヴィと同じ血を引く人々が。

 そして、神父が語る「父が生きていた頃」という過去形の重み。

「……神父様」

 ストラシュは静かに尋ねた。

「今のこの村は、本当に安全なのか?」

 グレゴール神父は木桶を抱えて黙ってしまった。ストラシュは思う。

(東の民を守っているだって? ただ単に村の人間たちが彼らをいじめて罪を犯すような機会を遠ざけてるだけだろう? 彼らを魔女と蔑んでいるのが証拠だ。彼らのことを考えているのではなく、この地域の帝国人みんなの暴力性に怯えているだけだろう)

 神父と別れ家に戻ろうとした時、ストラシュは杖を持ったまま止まった。

 ルヴィが、行商人の一団に近づいていくのが見えたのだ。村人たちの人だかりを回り込んで目立たないように。彼女は迷うことなく一人の老婆の前に立った。老婆は痩せた体に色褪せたショールを巻き、深い皺の刻まれた顔をしていた。しかしその目は鋭く、何かを見抜くような光を宿していた。明らかに他の異国の女たちとは違う雰囲気だ。まとうオーラはむしろ商人というより、ルヴィのような普通の職業ではない人間に近い。

 二人は何か言葉を交わし始めた。ストラシュには聞こえない。いや聞こえてもどうしようもないだろう。東の言葉だろうから。二人は親しげに見える。笑顔で会話しているわけではないが、顔見知りなのは確かなように見えた。

 その様子はときおり人混みに隠れてよく見えなかったが、確かに見えた。老婆が懐から小さな包みを取り出し、ルヴィに渡した。彼女は深く頷き、それを外套の奥に隠した。老婆の表情は厳しいが、同時に哀しみも含んでいるように見えた。

 ストラシュが見ていることは気づかれていないようだ。


*****


 夕食は、いつものように小さなテーブルを挟んで取った。

 黒パン、スープ、チーズ。簡素な食事。二人ともほとんど無言で食べた。ストラシュは味を感じない。ルヴィはいつも通り少食だった。

「今日、鍛冶屋に行ったんだ」

 ストラシュが口を開いた。魔女が顔を上げる。

「そうでしたか。お疲れになったのでは」

「ああ、まあな。でも……少しは役に立てた気がする」

 沈黙。

「村の人間は相変わらずだな」

 ストラシュは続けた。

「もう少し魔女という存在への敵意がなかったらよかったんだがな。帝都では、東の民自体が珍しいから、何とも思われてなかったよな?」

「そうですね、でも疎まれるのは慣れていますから」

 ルヴィは淡々と答えた。

「それに、ここよりも西の村だと、人間扱いすらされませんから」

 ストラシュは黙って聴いていた。グレゴール神父の言っていたのと同じだった。

「悪く言われるだけ、同じ人間だと思ってもらえてる証拠ですから」

 ルヴィは何でもないように言った。カラスがテーブルの上のパン屑をつついた。それを見ていた彼女が小さく微笑む。珍しい表情だった。

 ストラシュはその横顔を見て、思い切って聞いた。

「なあ、今日……東の民と何を話していた?」

 魔女の手が止まった。

「……薬草の調合について」

「薬草?」

「はい。勇者様の滋養のための。東の民は優れた知識を持っていますから」

 嘘ではないのだろう。しかし全てでもない。ストラシュはそう感じた。だが、追及する気力がなかった。想像以上に疲れていたらしい。

「そうか」

 それ以上は何も言わなかった。

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