第六話 井戸での出来事
村に着いて十日ほど経った午前、ルヴィナチワが「水を汲んでまいります」と言って外へ出た。いつもの日課である。
「ああ」
ストラシュは窓際の椅子に座り、その後ろ姿に声をかける。黒い外套が朝の光を吸い込むように揺れ、玄関のドアの影に消えた。
少しぼーっとしていつものように畑の方を見る。森を意識せずに農具を振るう村人たちを眺めるのにも慣れた。こういうものもある種の訓練のような気がした。森……魔界の記憶の象徴を見ないようにするのではなく、あえて背景として受け入れる……。それだって立派な日々の仕事だ。そう言い聞かせた。
しかし今日は、何かが違った。
(このまま座っているのも……もう限界だな)
ストラシュは立ち上がった。寝て、起きて、食べて、また寝る。その繰り返しに心が悲鳴を上げ始めていた。動かねば。どこへでもいい、何でもいい。
ローザがくれた杖を手に取る。しっかりした作りで、この数日で随分と手に馴染んできた。
「少し散歩でもするか」
独り言を呟き、ストラシュは玄関を出た。片足で杖をつきながら、ゆっくりと一歩ずつ。魔女が向かった方角、広場の井戸へと歩き始めた。気まぐれか、それとも何か予感めいたものがあったのか、自分でもわからない。
ちょっとした木立を曲がればすぐ。家からは声をあげれば届くくらいの距離である。しかし土の道は思ったより歩きにくい。平らに整えられた神父の家の前とは違う。泥の窪み、小石、わずかな段差。そのすべてが片足の身には難敵だった。
杖、左足、杖、左足。
ゆっくりとしたリズムで進む。すでに魔女の姿は見えない。木立の向こう、井戸のあたりにいるはずだ。
(まったく……何をしているんだ、俺は)
自嘲しながらも、足は止まらなかった。
広場が近づくにつれ、声が聞こえてきた。女たちの笑い声。井戸端での会話。村の、ごく日常的な光景の音。ストラシュは木陰に身を寄せた。井戸は二十歩ほど先。木々の隙間から、はっきりと様子が見える。
井戸の周りには五人の女たちがいた。
年配の女……村長の妻だろうか? 轆轤を回している。桶が井戸の中へ降りていく、ぎいぎい軋む音がする。その隣では若い母親が赤子を背負い、空になった桶を地面に置いている。少し離れたところでは、中年の女が二人、何やら噂話に花を咲かせていた。そしてもう一人、十代後半の娘が、濡れた布を絞りながら時々笑っている。
「まったく、うちの亭主ったら……」
「あら、どうしたの」
「昨日の晩、酒を飲みすぎてね」
笑い声。井戸端の、何の変哲もない会話。桶を満たす水の音、布を絞る音、赤子のぐずる声。
平和な朝の一コマ。
その時、一人の女が何かに気づいたように顔を上げた。
「あ……」
声が途切れる。他の女たちも、ほぼ同時に視線を向けた。広場の向こう側から、黒い影が近づいてくる。
ルヴィナチワだった。共用の桶を借りてきたのだろう。木桶を抱え、いつものように無表情で。肩には黒いカラスが留まり、その瞳は井戸を見つめている。
空気が、変わった。
さっきまで和やかだった雰囲気が、まるで冷水を浴びせられたように凍りついた。笑い声は消え、会話は途絶え、動きが止まる。
若い母親が、無意識に赤子を抱き直した。まるで何か危険なものから守るように。中年の女たちは顔を見合わせ、小声で何か囁き合う。その目には明らかな嫌悪が浮かんでいる。娘は一歩後ずさった。濡れた布を握りしめたまま、魔女から距離を取ろうとする。
そして村長の妻……彼女は轆轤から手を離し、まっすぐに魔女を見据えた。
ルヴィナチワは何も言わず、井戸へと近づく。いつもと同じ足取りで。しかし女たちは、まるで病人を避けるように、いや、それ以上の嫌悪を込めて、露骨に距離を取った。
「魔女だ」
誰かが、吐き捨てるように言った。声は低いが、はっきりと聞こえる。
「ねえ、あの鳥を見てよ」
別の女が十字を切った。
「不吉な……」
カラスが小さく首を傾げる。その黒い瞳が、女たちを一人一人見つめた。女たちはさらに後ずさる。
村長の妻が一歩前に出た。その顔には、義務を果たすかのような硬い表情がある。
「悪いけど、後にしてくれないかしら」
その声は冷たかった。感情を殺したような、しかし拒絶の意思だけははっきりと込められた声。
「あんたが触った水、すぐには使いたくないのよねえ。私らの後なら構わないからさあ」
他の女たちは何も言わない。しかし誰一人として反対の声を上げない。むしろ、村長の妻の後ろに固まるように立ち、無言で同意を示している。若い母親は赤子を抱きしめたまま、目を伏せた。まだ子供っぽさの残る娘は唇を噛んで、魔女を見ないようにしている。しかしその態度自体が、拒絶を物語っていた。
ストラシュは木陰で杖を握りしめた。
(止めるべきか)
しかし足が動かない。ここから大声を出せば届くだろう。「やめろ」と叫べば、女たちは気づく。元勇者の声だと知れば、きっと散るだろう。
だが……。
(軋轢を生む気力が……ない)
情けない。わかっている。目の前で魔女が侮辱されているのに、何もできない。いや、しない。ただ木陰に隠れて、遠くから見ているだけ。なぜなら……波風立てたくないから。両種に言われたからだろうか? いや、彼だって、そこまで大人しくしろとは言っていないはずだ。むしろ、こんな理不尽な扱いは、彼が目にしたら止めるだろう。ストラシュには物申す権利と……義務すらあった。
片足が震える。杖を握りしめる。たった二十歩が、まるで魔界の蠢く深い肉の谷のように遠い。
そうしているうちに、ルヴィナチワは無言で頷いた。抗議もせず、言い返しもせず。ただ静かに井戸から離れようとする。木桶を抱えたまま、背を向ける。
「カァ!」
カラスだけが女たちの方を向いて鳴いた。抗議するような、悲しげな声。羽を広げかける。魔女は肩のカラスに手を伸ばし、その羽を優しく撫でた。まるで「いいのよ」と言うように。「仕方ないのよ」と諭すように。カラスは主人の手に頭を擦り寄せ、それ以上は鳴かなかった。ただ黒い瞳で、井戸の女たちを見つめ続けた。
魔女がストラシュが隠れている方とは違う方向へ去っていく。つまり、家とは反対の方へ。
女たちは、その後ろ姿を無言で見送る。誰かが小さく息を吐いた。安堵のような、それでいて何か後ろめたさを含んだような吐息。
しかし誰も、それについて何も言わない。まるで何事もなかったかのように、再び井戸仕事に戻り始める。轆轤が軋み、水が桶に注がれる音。しかし、さっきまでの和やかな会話は戻ってこなかった。
ストラシュは歯を食いしばった。
(俺は……何をしている)
やきもきする。胸が締め付けられる。今行けば女たちも流石に悪びれるだろう。杖を前に出す。
その時だった。
広場の反対側から、明るい声が響いた。
「あらあら、随分と賑やかじゃない」
女たちが一斉に振り向く。ストラシュもつい木陰から顔を出した。
色鮮やかな服を纏った女が、腰に手を当てて立っていた。ローザだった。栗色の髪を編み上げ、朝の光の中でも存在感を放っている。その顔には、軽い笑みが浮かんでいた。しかしその目は笑っていない。
「こんな朝っぱらから、井戸で楽しそうな集まりね」
ローザはゆっくりと歩いてくる。井戸へ向かうのか、それとも……。
村長の妻が顔をしかめた。
「あんたには関係ないよ」
「そうかしら」
ローザは足を止めなかった。むしろ、井戸の方へと真っ直ぐ向かう。女たちの間を通り抜けようとする。
「来ないでよ、ローザ」
若い母親が赤子を抱えたまま道を塞ぐ。しかしローザは立ち止まり、その母親をじっと見つめた。
「ねえ、あんたたち」
ローザは周囲を見回した。背の高さはそれほどでもない、むしろ他の女たちよし少し低いくらいなのに、堂々としたその立ち姿は、この中で一番大きく感じられた。彼女は井戸のそばでくるりと回り、周りの女たち全員に強い視線を向ける。
「あんたたちに、石を投げる資格があるのかい?」
空気が凍りついた。
「な、何を……」
「村長の奥さん」
ローザは村長の妻を見た。
「あんたの旦那、去年の秋祭りの夜、どこにいたか知ってる? あたしは知ってるよ? それ以来床に伏せってるんだろう?」
村長の妻の顔が蒼白になる。
「それから」
ローザは若い母親に視線を移した。
「あんたの亭主、春先に東の民の女のところに行ったでしょう? 森の奥で、ね」
母親が息を呑む。赤子を抱く腕が震えた。
「や、やめなさいよ!」
中年の女が声を上げた。 口調は強いが、すっかり気圧されているらしく、声は震えている。
「あんたこそ、領主様の……その、あんな真似をして……」
「そうよ」
ローザは笑った。明るく、しかし冷たく。
「あたしは娼婦上がりの、領主様の愛人さ。それがどうした? 少なくとも、あたしは隠してない。偽善者の仮面なんて被ってないよ」
女たちは何も言い返せない。ただ顔を見合わせ、唇を噛む。
「魔女を責める前に、自分の胸に手を当ててみなよ」
ローザは井戸の縁に手をついた。
「あんたたちだって、夜になれば森で何やってるか、神父様は知らないんだろう?」
誰も答えない。沈黙が重く垂れ込める。 今まであんなにやかましく、そして場を支配するような圧迫感のする雰囲気を発していたのに、もうすっかりおとなしい。
「……行きましょう」
俯きながら目配せしつつ、村長の妻が屈んで桶を抱えた。他の女たちも慌てて荷物をまとめ始める。誰もローザの目を見ようとしない。
「そうそう、行った行った」
ローザは埃でも払うように手を振った。子供を追い払うような仕草だ。
「偽善者どもは、日の光の下がお似合いだ! 闇の中で何してるか、みんな知らないふりしてさあ!」
女たちは足早に去っていった。若い母親は赤子を抱きしめたまま、中年の女たちは肩を寄せ合って、娘は半ば走るようにして。最後に村長の妻が振り返り、何か言いかけたが、結局何も言わずに背を向けた。
広場に静寂が戻る。
井戸の傍には、ローザだけが残っていた。そして少し離れたところに、木桶を抱えたルヴィナチワが立っている。 二人の視線が交わった。 ローザの琥珀色の瞳と、魔女の紫の瞳。お互い、何も言わない。しかしその沈黙には、言葉以上の何かがあった。同じ疎外を知る者同士の、無言の理解。村から拒絶され、蔑まれ、それでも生き延びている者たちの、静かな連帯。
ルヴィナチワが小さく頭を下げた。感謝か、それとも別の何か。ローザは片手を上げ、軽く手を振った。
「お互い、大変ねえ」
それだけ言って、ローザは井戸から離れた。ルヴィナチワの方ではなく、別の方向へ。広場を横切り、村の中心へと歩いていく。その足取りは軽やかで、まるで何事もなかったかのようだった。
魔女は井戸へと近づく。誰もいない。轆轤を回し、桶を降ろす。きいきいと軋む音だけが、朝の静寂に響いた。
ストラシュは木陰からようやく一歩を踏み出した。 杖を突き、左足を引きずり、ゆっくりと井戸へ向かう。一歩、また一歩。
魔女はすでに水を汲み終えていた。重い桶を両手で抱え、こちらへ戻ってこようとしている。
「ルヴィ」
声をかけると、魔女が立ち止まった。紫の瞳が大きく開かれてストラシュを見る。
「勇者様……」
驚いた様子だった。ここにいるとは思わなかったのだろう。ストラシュはルヴィナチワの前まで辿り着き、杖に体重を預けた。
「お前……井戸でいつもあんな思いをしているのか」
魔女は何も答えない。ただ静かに首を横に振って、肩のカラスを見た。
「いつもではありません。時々です」
「時々?」
「ええ。村人全員が敵対的なわけではありませんから」
その声には感情がなかった。まるで天気の話でもするかのように、淡々と答える。カラスを撫でることの方が大事だとでもいうかの如く、肩の上の使い魔の方ばかり気にしている。
「しかし……」
ストラシュは眉をしかめ、言葉を探した。何を言えばいいのか。謝罪か? 同情か? それとも怒りか?
「気にしないでください」
魔女が先に口を開いた。
「慣れています。それに、今日はローザ様が助けてくださいました」
「ああ……」
ストラシュはローザが去った方向を見た。もう姿は見えない。
「あの人は……」
その時、別の方向から声が聞こえた。
「なーに? 人のウワサ話かな?」
ストラシュが振り向くと、ローザが戻ってきていた。手には空の桶を持っている。
「あら、勇者様」
ローザは明るく笑った。
「こんなところで何してるの? 散歩?」
どうやらタイミングを図られたようだ。木陰で見ているのにも気づいていたのかもしれない。
「ああ、まあ……」
ストラシュは杖を見下ろした。
「この杖の調子がとてもいいんでね」
「それはよかったぁ!」
ローザは井戸の縁に桶を置き、轆轤を回し始めた。
「じゃあ、ちょうどいいわ。あたしも水汲みついでだし、ちょっと話でもしましょうか」
魔女が一歩引いた。
「私は先に戻ります」
「あ……」
ストラシュは困惑した。魔女は重い桶を抱え、黙って去っていった。カラスが一度だけ鳴き、主人の肩から飛びあがって井戸の轆轤の上に据え付けられたひさしにとまった。
「あら、お目付役ねぇ。悪さはできないわねえ」
ローザはそんな軽口を言ってストラシュを見る。彼はため息をついた。最近の自分の弾力を失った心では、こういう女性の媚態にどう反応したらいいかわからない。桶が水で満たされるのを待ちながらローザは言った。
「あんたも見てたんでしょう? 木陰から」
「……ああ」
ストラシュは認めた。
「止めようと思ったが……どうも、止められなくて……」
「止めなかった、でしょう?」
ローザは笑った。しかし嘲笑ではない。理解するような、少し悲しげな笑みだった。
「いいのよ。あんたにできることじゃない。この村で偽善者どもに、やれ勇者さまぁ、なんて持ち上げられながら、おまんまを世話される生活を思えば、強く言えないもんね」
「あー……」
もはやストラシュは苦笑するしかない。ガックリと杖に体重を預けて降参の笑みを浮かべた。
「まいったな、こりゃあ……」
「あはは! 気にしなさんな! 思ったこと何でも言っちゃうバカ女の戯言だよ!」
ローザは大笑いすると、桶を引き上げ始めた。話す声は急に真剣なトーンになる。
「村の女たちはね」
まるで打ち明け話のような。
「表向きは敬虔で、正しくて、清らかなふりをしてる。でも裏じゃ、みんな好き勝手やってるのよ」
水の滴る音。井戸からぽちゃぽちゃと水琴のような音がした。ローザは桶を石組みの縁に置き、体重をかけた。しなをつくったその体の曲線は、スカートの下のふくよかさを想像させ、魅力的である。
「あたしはさー」
ローザは遠くを見て話し始める。
「娼婦上がりで、領主様の愛人。村の女たちから蔑まれてる。でもね、領主様の庇護があるから、手出しはできない。だからあいつえあは陰で囁くだけ。『あの女は不浄だ』『恥知らず』ってね」
「神父は?」
「ああ、あの坊主」
ローザは肩をすくめた。
「説教のネタにするのよ。『この村にも悔い改めが足りないものがいるが』ってさ。でも実際には何もできない。領主様が許してる以上、教会だって手出しできないから」
彼女は笑った。自嘲的に。ストラシュは黙って真剣に聞いていた。
「偽善者ばかりだよ、この村は。魔女を責めるくせに、自分たちは夜になると森で異教の儀式。東の民を蔑むくせに、その知恵を借りて生き延びてる」
ストラシュは黙って聞いていた。
「あんたの魔女もね」
ローザは続けた。
「あたしと同じ。村八分同士さ。違うのは……」
彼女は少し考え込んだ。
「そうさねえ、言ってしまえば、あたしは戦えるけど、あの子は戦わない。戦えないんじゃなくて、戦わないの」
ストラシュは怪訝そうな顔をする。
「なぜだ」
「さあね」
ローザは桶を持ち上げた。
「でも、あたしにはわかる。あの子、何か……大きな目的を持ってる。この村の、この偽善の、そのずっと先を見てる」
ストラシュの胸に、何かが引っかかった。
「ローザ、お前は……」
「ん?」
「魔女が、怖くないのか」
ローザは首を傾げた。
「怖い? なんで?」
「村人は皆、恐れている。カラスを不吉だと言い、魔女を呪いの根源だと……」
「ああ、それ」
ローザは笑った。
「あたしはね、勇者様。人を見る目には自信があるの。娼婦やってたからね。男がどんな嘘をつくか、どんな本音を隠してるか、見抜けるようになったのよ。女の方はもっと簡単だし」
彼女は井戸の方を振り返った。
「あの魔女はね、誰かを呪おうなんて思ってない。むしろ……誰かを救おうとしてる。それも、とんでもなく大きな犠牲を払ってまで」
ストラシュは息を呑んだ。
「どうして、そんなことが……」
「女の勘よ」
ローザはウインクした。
「それに、あんたを見てればわかる。あの魔女、あんたのことを……」
彼女は言葉を切った。
「まあ、いいわ。とにかく、村の連中の言うことなんて、半分も信じちゃダメよ」
そう言って、ローザは桶を抱えて歩き出した。
「じゃあね、勇者様。あんまり無理しないでね。片足で立ってると、疲れるでしょう」
「ああ……ありがとう」
ローザの後ろ姿を見送りながら、ストラシュは杖に寄りかかった。
(魔女が……誰かを救おうとしている?)
朝の光が広場を照らす。ストラシュは井戸を覗き込んだ。ひんやりした空気を感じる。水面が、静かに揺れていた。
「勇者様」
ストラシュはハッとして顔を上げた。 いつの間にか、ルヴィナチワがすぐ傍に立っていた。重い桶は少し離れた石の上に置かれている。朝の光が彼女の横顔を照らし、いつもは病的なまでに白い頬に、ほんの僅かな血色が差していた。黒い外套が風に揺れ、その下から覗く首筋は象牙のように滑らかだ。紫の瞳は、まっすぐにストラシュを見つめている。
「お礼を言ってくださいましたか? 私はどうもこういう時に口下手になってしまって……。自分のことでお礼を言うのが下手で……」
「カーッ!」
轆轤の上のひさしから、カラスが大きく鳴いた。まるで「そうだよ、本当に口下手なんだから」と言っているかのように。その声には、どこか主人を心配するような、それでいて少し呆れたような響きがあった。
ルヴィナチワが、くすっと笑った。
その瞬間、ストラシュの心臓が跳ねた。
いつも無表情な魔女が、カラスを見上げて微笑んでいる。控えめな、しかし心からの笑み。朝の光の中で、その横顔は……。
(なんだ、これは)
胸の奥が熱くなる。 魔界での旅では感じなかった。帝都でも、荷馬車の中でも、この村に来てからも。ただの契約相手、介護者、都合のいい道具……そう思っていた。思いたかった。その方が心が楽だから。
だが今、井戸の傍に立つ彼女を見て、黒髪に宿る赤褐色の輝き、風に揺れる外套、そして何より……あの笑顔。
(まずい)
ストラシュは慌てて視線を逸らした。
「ああ、礼は……言った。ローザは、気にするなと」
声が少し上ずった。杖を握る手に力が入る。
「そうですか」
魔女は満足そうに頷いた。
「では、戻りましょう。水が重いので……」
「俺が持つ」
思わず口から出た言葉だった。
「え?」
「いや、その……」
ストラシュは自分の片足を見下ろし、次に杖を見た。
「無理か。すまない」
「いえ」
魔女は首を振った。
「お気持ちだけで十分です」
そう言って、彼女は桶を持ち上げた。重そうに、しかし慣れた手つきで。カラスが羽ばたき、主人の肩に戻る。
二人は並んで歩き始めた。ストラシュは杖を突き、ルヴィナチワは桶を抱え。




