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第四話 日々の始まり

 二人きりになると、ルヴィナチワは黙々と荷物を整理し始めた。ストラシュの着替えを箪笥にしまい、薬草を棚に並べ、竈に火を起こす。その手際の良さは、まるでずっとここで暮らしていたかのようだった。

 ストラシュは椅子に座り、窓から外を眺めた。広場で村人たちがまだ話し込んでいる。こちらを見ている者もいる。森の方を見る者も。

「森か……」

 ストラシュは感慨深げにガラスのない窓からその黒い壁のような存在を見た。ここは村の一番東側だ。村と森の緩衝地帯になっている畑を除けば、森に一番近いのは教会とこの家だ。森は窓からはっきり見えた。木々のこんもりした濃くて暗い葉の塊や、そのぼやっとかすみがかった空気の様子さえも。魔界へと続く国境の森。陸地を飲み込む手前で静止した津波のような、不気味な存在感があった。それは人間界を侵食する前線としてそこにあるのだ。

「ふう……」

 勇者はめまいを感じ、額を撫でる。無理を言って、村の西側に住居を用意してもらうべきだっただろうか? 

 森の奥……かつて存在した東方の三つの国を超えた先にある、尋常ならざる悪魔的光景……魔界から押し寄せる無言の軍勢。それにより活動が活発化するゴブリンやオークなど、もともと森にいた魔物たち……。 バサバサと音がした。

「カァーッ!」

「お、おう」

 カラスが窓枠に留まり、ストラシュと森の間を塞ぐように黒い翼を広げた。

「ふ、俺を心配してくれているのか。そうだよなあ。自分に大きな傷を植え付けたものを、あまり見るもんじゃないよな」

 カラスは首を傾げ、何かを見透かすような黒い瞳で彼を見つめていた。


*****


 日が傾き始める頃、最初の訪問者が現れた。グレゴール神父だった。両手に籠を抱えている。

「勇者様、村からの贈り物です」

 パン、チーズ、干し肉、野菜。素朴だが、この村では貴重な食料だ。

「村長をはじめ、皆様が貴方様のご無事を祈っております」

 神父は魔女には目もくれず、ストラシュだけに話しかける。ルヴィナチワは椅子を持ってきた後、黙って荷物を受け取り、棚に並べ始めた。

(完全に端女扱いだな。まあ、お互いその方が軋轢を産まなくて良いのかもしれない)

 ストラシュが玄関の椅子に座った後、グレゴール神父は笑顔で一礼し、この村で気をつけることを教えてくれた。井戸の使い方のマナー、トイレの処理、などなど……。村長が病床と言っていたから、今はこの老齢の神父がいろいろ世話を焼いてくれるのだろう。

 話しているうちに、村人たちがぽつぽつと訪れた。年配の男が帽子を手に持って頭を下げる。

「勇者様がおられると聞いて。この村に光が差します」

 ある老婆が孫娘を連れてきた。

「勇者様に祝福を」

 白い頭巾を被った少女の小さな手をストラシュの手に触れさせようとする。ストラシュは形式的な笑顔を浮かべ、簡単な言葉をかける。

(もう休ませてくれ)

 この村までの旅の直後である。椅子に座って話を聞いているだけだが、それはそれできつい。内心の疲弊を隠しながら、笑顔を顔に貼り付け続ける。人はどんどん増え、まるで集会のようになって、雑談など始める老人などもいた。グレゴール神父が見かねたのか、そわそわし始めた。

 その時、戸口に明るい声が響いた。

「あらぁ! ずいぶんと賑やかじゃない」

 振り返ると、一人の女が立っていた。

 歳は三十代になったばかりといったところ。豊満な体つきに髪を編み上げ、他の村人より華やかな服装。顔立ちは決して美しいとは言えないが、人を惹きつける生気が溢れている。両手には包みを抱えている。

「勇者様でしょう? 私はローザ。この村の……まあ、ただの女さ」

 彼女が中に入ろうとした時、老婆が立ち塞がった。

「あんたは来なくていいよ」

 冷たい声だった。孫娘を連れてきた、あの敬虔そうな老婆が。少女は老婆の後ろに隠れながら、ローザと名乗った華美な女性から目を離さない。

「勇者様に、あんたみたいな者が近づくもんじゃない」

 他の村人たちも黙って頷く。露骨な拒絶だった。しかしローザは笑った。明るく、少しも気にした様子がない。

「あらあら、相変わらずね、おばあちゃん。でも私、ちゃんと贈り物持ってきたんだから」

 老婆を無視して前に出る。しかし決して押しのけたりはせず、するりと軽やかにストラシュの前に進み出る。

「はい、これ」

 包みを開けると、厚手のクッションが二つ。手の込んだ刺繍を見るに、どう見てもこの辺境の品ではない。

「片足で座ってると、お尻が痛くなるでしょう? あと、これ」

 もう一つの包みには、しっかりした木製の杖。

「前の宿の主人が使ってたやつ。倉庫に眠ってたの。もったいないから、使ってちょうだい」

 ストラシュは驚いた。誰も、彼の片足を直接話題にしなかった。まるで見えないものとして扱っていた。しかしこの女は、あっけらかんと、しかし実用的な配慮をしている。

「おお、これは……ありがとう」

 素直に礼を言うと、ローザはにっこり笑った。花がパッと咲くような印象の笑み。

「どういたしまして。ああ、そっちの魔女さんも大変ね。村の連中、意地悪だから」

 ルヴィナチワが僅かに顔を上げる。紫の瞳がローザを見つめた。ローザは魔女に向かって軽く手を振った。

「お互い、村八分同士、頑張りましょうね」

 村人たちがざわつく。

「あんた、口が過ぎるよ」

「そうだそうだ、勇者様の前で」

 しかしローザは気にしない。

「じゃあ、私はこれで。勇者様、またね。魔女さんも」

 軽やかに去っていくローザ。その後ろ姿を、老人たちも神父も、苦々しい顔で見送る。老婆が連れてきた小さな女の子だけが、白い頭巾から髪を出して弄っている。ローザの真似がしたいのだろう。

 しかし老婆がそれをやめさせ、吐き捨てるように言った。

「娼婦上がりのくせに」

「領主様に気に入られたからって、図々しい」

 ストラシュはそっとグレゴール神父にきく。

「あの女は何者だ?」

「ああ、その……」

 神父は禿頭をシワだらけの手で撫でながら答えにくそうにし、小声で答えた。

「領主様の……まあ、そういう者です」

「愛人か」

 神父は苦々しい顔で頷いた。

「左様です。本来なら教会で悔い改めるべき罪人ですが……領主様の庇護がありますので」

 言葉の端々に、軽蔑と無力感が滲む。

「……実用的な贈り物だった。感謝しないとな」

 ストラシュはもらった杖を立て、立ち上がって体重をかけてみた。少し短かったが、先を継ぎ足せば十分使えるだろう。

 片足の勇者様が立ち上がって見せた様子に、村人たちは不満そうに顔を見合わせた。そして神父が注意するより先に、ぽつぽつと去り始めた。神父も最後の祝福の言葉を短く述べ、教会へと戻っていった。

 ストラシュは杖で家の中を歩き回ってみた。しっかりした作りで、普通に使っていて折れることはないだろう。

「これでお前にばかり頼らずに済むよ、ルヴィ」

 ルヴィナチワに笑みを向けてそう言う。彼女は小さく頷いた。

 その時、カラスが窓辺から小さく鳴いた。まるで何かを言いたげに。

「な、なんだよ? 別に俺は……その……」

 ルヴィナチワがクスッと笑った。

「そんな勇者様、久々に見ました」

 ストラシュは照れ隠しに窓の外を見た。日はすっかり傾き、村に夕闇が降り始めていた。



*****


 夕飯時にもう二人、三人来て、その日の訪問は止んだ。戸口を閉めた音が静寂の中に沈んでいった。

 ルヴィナチワは黙々と夕食後の片付けを始めた。木の皿を布で拭い、竈の灰を掻き出し、床に散った藁屑を箒で掃く。手際のいいことである。しかし彼女の額には薄く汗が滲み、ときおり手を止めて深く息をつく。

 長い一日だった。村人たちの……勇者への敬意と、魔女への侮蔑。その落差に耐え続けるのは、見た目以上に疲れる。

 カラスは竈の近くの梁に留まり、黒い瞳で主人の働く姿を見守っていた。時折小さく首を傾げ、羽繕いをする。ルヴィナチワがふと動きを止めると、カラスも動きを止める。二つの視線が交わり、言葉はないが、何かが通じ合う。魔女は小さく頷き、また手を動かし始めた。カラスは満足したように一声鳴いて、羽を畳んだ。

 ストラシュは彼女に労いの言葉をかけると、杖を立てかけて寝台に横たわる。台所のランプの光で薄く浮かび上がる天井の木目を見つめていた。新しい環境。しかし変わらぬ虚無感。帝都でも、荷馬車の中でも、そしてこの辺境の村でも、彼の内側にある空洞は同じだった。

 訪問者たちの顔が瞼の裏に浮かぶ。恭しく頭を下げる老人たち。祝福を求める母親。孫娘の手を自分の手に触れさせようとした老婆——あの時の期待に満ちた目。そして……。

(勇者様は必ず魔王を倒します)

 その言葉までも思い出され、ストラシュは新台の白布の上で頭を揺らし、小さく呻いた。

(もう勘弁してくれ)

 彼らは何もわかっていない。この「勇者」が抜け殻だということも。片足がない役立たずなのは見ればわかるのだから、そっとしておいてほしい。ただの片足のカカシを、彼らは希望だと言って崇める。

 その欺瞞に耐え続けることが、どれほど疲れることか。

 寝台で起き上がると、窓の外が見えた。ストラシュの意識は自然と森の方へと向かった。寝室からも玄関の窓と同じように森が見える。昼間見た時よりもさらに黒く、重く、村を圧するようにそびえている。森は完全な闇の塊となって、まるで今にも村を呑み込もうとしているかのようだった。

 その時、聞こえた。

(なんだ……?)

 最初は風の音だと思った。木々を揺らす、秋の夜風。しかし違う。規則正しい。あまりにも規則正しい。

 ドン......ドン......ドン......

 太鼓のような音。いや、太鼓で間違いない。心臓の鼓動のようなリズムで、重く打ち鳴らされている。音は遠い。村と森の境界よりもっと奥深く。確かに聞こえる。夜の静寂の中、規則的に脈打つ何か。

(報告書に書いてあったな)

 ヨハネス神父の言葉が蘇る。

『森の奥深くで何を見、何と交わっているのか』

『神の御光の届かぬ場所で、邪悪な霊と契約を結んでいても不思議ではない』

 ドン......ドン......ドン......

 音は続いている。時折、低い声のようなものも混じる。歌なのか、呪文なのか。言葉にならない何か。

 ストラシュは隣室で片付けをしているルヴィナチワに声をかけようとした。彼女も音に気づいているはずだ。しかし、昼間と同じようにカラスが窓辺にやってきた。鳴きはしない。ただ暗い夜空と暗黒の森より、さらに黒い漆黒の体を立ち塞がらせている。

「わかった、わかった、気にしないよ」

 ストラシュは目を閉じた。関わらなければ、何も起こらない。

 しかし音は止まない。

 ドン......ドン......ドン......

 心臓の鼓動のように。あるいは何か巨大な生き物が、森の奥で呼吸しているかのように。

(何も起こらないでくれ)

 そう願う。しかしその願いがどれほど空しいものか、ストラシュ自身がよく知っていた。魔界で学んだ。人の願いなど、何の力も持たない。ただ絶望が一歩また一歩と近づいてくるだけ。それに抗う術はない。

 音は夜通し続くのだろう。村人たちは慣れているのか、誰も騒がない。あるいは、知らぬふりをしているのか。

 ストラシュは浅い眠りに落ちていった。耳の奥で、まだ太鼓の音が響いている。そして、魔界の記憶と混ざり合い、悪夢の種となっていく。

「うわあっ!?」

 夜中、何かに引き戻されるように目を覚ました。

 最初に見えたのは、闇の中に浮かぶ白い顔だった。

 ルヴィナチワが寝台の縁に腰掛け、濡れた布を手にこちらを見下ろしている。月明かりを受けて、その顔は蒼白く、まるで幽霊のようだった。いつからそこにいたのか。どれくらい自分を見つめていたのか。

「……ルヴィ?」

 掠れた声が出た。喉が渇いている。

「うなされていましたよ」

 魔女の声は静かだった。感情の色がない。

「お疲れで、眠りが深かったせいか、それほど激しくはありませんでしたが……」

 ストラシュは自分の額が汗ばんでいることに気づいた。シーツも湿っている。また悪夢を——

 断片的な映像が蘇る。

 肉の壁。脈動する赤黒い何か。仲間たちの声。助けを求める叫び。そして自分は何もできず、ただ見ているだけで……。

「はっ……はっ……」

 呼吸が乱れかける。魔女が素早く額に布を当てた。冷たい感触が、現実を思い出させる。

「大丈夫です。ここは村です。安全な場所です」

 カラスは窓辺の木枠に留まり、じっとこちらを見つめている。月明かりを受けて、その黒い羽が鈍く光った。こいつも仲間だ。ストラシュは少し安心する。

 外は静かだった。村は眠りについている……はずだった。

 しかし……。

 ストラシュは耳を澄ました。

 聞こえる。

 森の方から、太鼓の音。さっきよりもはっきりと。規則的な、生き物の鼓動のような響き。そして時折混じる、低い声。複数の人間が何かを唱えているような——

「あれは……」

 ストラシュが呟きかけると、魔女が小さく首を横に振った。

「気にしないでください」

 その声には、僅かな緊張があった。

「森の音です。この地域ではいつものことです」

「あ、あれは森の民の……? お前は知っているのか?」

 ルヴィナチワは頷いた。

「はい。この近くではありませんが、小さい頃に魔術の修行で彼らと同じ生活をする人々と寝食を共にしました。あれは日常的な儀式なのです」

「そ、そうか……」

 それならなぜ、報告書には「不浄な関わり」と書かれていた? なぜ神父は森を恐れる? なぜ村人たちは森の奥へ入ることを禁じられている? 昼間の様子を見ると、森へ分け入っていくようには思えない。森の民は森にいて、村人は村にいる。たまに公益で品物を交換する。それだけではないのか……? 

 そう思ったが、しかしストラシュは問い詰める気力がなかった。息をフーッと吐く。気分の悪さがおさまっていく。

(ここで静かに死ねればいい)

 そう思った。

(しかし…何かが始まろうとしている)

 いや、違う。気のせいだ。何も起こらない。起こるはずがない。自分はもう関係ない。傍観者だ。ただの片足のカカシに、何ができる?

(何も起こらないでくれ)

 祈るように、そう願った。

 闇の中で、魔女が立ち上がる気配がした。

「おやすみなさい、勇者様」

 その声は優しかった。しかしその優しさが、かえってストラシュの胸を締め付ける。

 ストラシュは答えなかった。ただ目を閉じ、再び眠りを求めた。カラスが小さく、一度だけ羽ばたく音がした。


*****


 翌朝から、村での生活が始まった。

 数日ほどは寝て起きてだけだった。

 毎朝、同じ時刻に目を覚ます。魔女が竈に火を起こす音。カラスの羽ばたき。窓から差し込む弱い光。

 そして、黒パンと薄いスープ。時には卵が一つ。グレゴール神父が世話してくれる食料だ。

 ストラシュは窓際の椅子に座り、ぼんやりと外を眺めながら口に運んだ。味などわからない。黒パンは固く、顎が疲れる。スープは塩辛い。卵は……何の味もしない。ただ、生きるために食べるだけだ。

 窓の外では村人たちが動いている。畑へ向かう男たち。井戸へ向かう女たち。走り回る子供たち。皆、何かの目的を持って動いている。

 自分だけが、ここに置き去りにされている。

 昼は大抵ベッドで過ごした。本を読む気力もなく、ただ天井の木目を数え、時間が過ぎるのを待つ。一本、二本、三本……数え終わると、また最初から。何度も、何度も。

 ときおり、昼でも発作を感じることがあった。

「失礼します」

 ストラシュが部屋の中でうずくまると、ルヴィナチワが膝をついて背中を撫でてくれる。

 右足の傷口も疼くことがある。そのたびに彼女は傷跡を確認し、彼女特製の薬を塗り、新しい布を巻く。その手つきは慣れたもので、優しかった。

 だがそれこそがストラシュを苛んだ。

 自分は足手まといだ。もう少し発作がおさまれば、村の鍛冶屋の手伝いか、神父の手伝いをしてもいいかもしれない。だが今は他人の世話になるしかない。

(ルヴィ。俺はお前のことすら恨んでしまうそうだよ)

 相棒の魔女は毎日、村へ出て水を汲み、食事を作り、掃除をし、彼の世話をしている。一方、自分は何もしていない。何もできない。

 そう言いたかったが、言葉にする気力もなかった。世話してくれる甲斐甲斐しさを受け止めるしかない。

 一週間が過ぎた。

 夕方になると、魔女は出かける。黒い外套を纏い、カラスを肩に留まらせて。

 ストラシュは時々、玄関からその姿を見送った。

 村人たちは露骨に距離を取る。魔女が通ると、女たちは顔を背ける。男たちはまるで誰もいないかのように挨拶をしない。子供たちの中には石を投げる者すらいた。広場の井戸と、教会で食料を分けてもらうだけの道のりで、そういうことがあるのだ。

 それでも魔女は何も言わない。淡々と必要なものを持って戻ってくる。

 黒い外套の裾には、時には歩っただけではつかない量の泥がついていた。しかし彼女は気にした様子もない。ただ黙々と夕食の支度を始めるだけだった。

 同じ日々の繰り返し。朝、昼、夜。食事、世話、睡眠。何も変わらない。何も起こらない。

 ただ、夜だけが辛かった。

 暗闇の中で、魔界の記憶が蘇る。それは日によって異なる悪夢となってストラシュを襲った。

 ある夜は、ローランだった。

 聖騎士ローランが、肉の壁に飲み込まれていく。上半身だけが残り、必死に手を伸ばす。

「ストラシュ! 助けてくれ! 頼む!」

 しかし自分は動けない。足が……両足があった頃でさえ、動けなかった。ただ見ているだけ。ローランの悲鳴が遠ざかり、やがて肉に呑まれて消える。

「うわあああっ!」

 叫んで目を覚ます。全身が汗でびっしょりだ。

 別の夜は、ミーナだった。

 弓使いのミーナが、自分の放った矢で自分の目を射抜く。魔界の怪物に射かけたはずが、なぜか射手である彼女に戻ってきたのだ。狂ったように笑いながら、何度も、何度も射ては、それが目に刺さる。

「やめろ! やめてくれ!」

「ははははははははははははははははは!!」

 しかし彼女は笑い続ける。血まみれになりながら。

 またある夜は、セバスチャンだった。

 僧侶セバスチャンが、温厚な笑みを浮かべたまま、自分の内臓を素手で引きずり出す。

「大丈夫ですよ、ストラシュ様。これも神の御心です」

 そう言いながら、臓物を床に並べていく——

「ああっ、あああっ——」

 今夜も、悪夢から叫んで目を覚ました。心臓が破裂しそうなほど脈打っている。

「はあ、はあ、はあ、くっ、はあ、はあ、はあ」

 肉の壁が……今もまだ、瞼の裏に見える。赤黒い筋肉組織が脈動し、血管が浮き上がり、どろりとした体液が滴る。魔界のおぞましい光景。そして声が……言葉にならない、しかし確実に何かを伝えようとする声が頭の中に響く。

「ぐっ、うー、うー」

 ストラシュはたまらず頭を抑える。過呼吸が始まる。胸が締め付けられ、息ができない。空気が、空気が……。

「勇者様」

 魔女の声。

 いつの間にか、彼女がそばにいた。いつからいたのか。ずっと見守っていたのか。

 細い腕が、ストラシュを抱きしめる。魔女の胸に顔が埋まる。冷たいが、優しい感触。

「大丈夫です。私がいます」

 その腕には、見た目以上の力強さがあった。まるで、決して離さないという意志が込められているかのように。

 魔女の体温を感じながら、ストラシュは少しずつ呼吸を整えていく。ゆっくりと。一つずつ。

 こんなことがもう何度繰り返されただろう。旅の間も。帝都でも。そしてこの村に来てからも。毎晩のように悪夢を見る。毎晩のように、魔女に抱きしめられる。

 これからも、きっと……。

 明け方、ようやく落ち着いたストラシュは、魔女の腕の中で呟いた。

「なぜお前はここにいる」

「契約ですから」

 即座に返ってくる答え。まるで何度も答えてきたかのように。

「……それだけか」

 沈黙。

 魔女は答えなかった。ただ、ストラシュをさらに強く抱きしめた。その腕に込められた力が、何かを語っているようだった。しかしストラシュには、それが何なのかわからなかった。

 窓の外では、夜が白み始めていた。カラスが静かに羽ばたき、新しい一日を告げるように鳴いた。

 そしてまた同じ日々が繰り返される。何も変わらない、変われない日々が。

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