第二話 ダーレンシュタイン村へ
王都を発って三日目、石畳の大通りは土の道となり、やがて轍だらけの泥道へと変わった。幌つき荷馬車の中で、ストラシュは藁の上に横たわり、天幕の隙間から漏れる光を見つめていた。
馬車の縁で、ルヴィナチワは藁の上に浅く腰掛けて、後を追うように飛んでいるカラスを見つめていた。
黒い外套は埃に汚れ、裾はほつれているが、それでもなお彼女を包む闇のような存在感。漆黒の長髪は無造作にまとめられ、とんがり帽子の中に収まっている。少し垂れた髪の艶は、まるでカラスの濡れた羽のようだった。
ストラシュは横になったまま大きく伸びをする。まだまだ行程は長い。自分の足で道なき道……いや地面かも怪しい肉の上を歩く魔界での旅と違って、気楽なものである。
起き上がろうと上半身を起こした。右足が膝までしかない体にも段々慣れつつある。藁のしゃくしゃく鳴る音にルヴィナチワが即座に振り向いた。
「トイレですか?」
「いや……ちょっと伸びをしただけだ」
彼女の色白の顔は血色が悪く、まるで長い病を患っているかのようだ。しかしその病的な白さは、奇妙な美しさを纏っていた。生者と死者の境界に立つ者のような、この世のものとは思えない儚さ。紫の瞳は虚ろにストラシュを見つめでいるが、何も見ていないようにも見えるのだった。荷馬車の隙間から差し込む光さえも、彼女の周りでは弱まるように見えた。黒い外套が光を吸い込み、その陰気な美しさが馬車の中に重たい沈黙を広げていく。
「かーっ」
馬車の後ろを物見のように飛んでいるカラスは時折りスーッと降りてきて彼女の肩に留まる。川袋の水を手のひらに出して水を飲ませたりしていた。そしてときおり視線がカラスの真っ黒な瞳に注がれ、ただ僅かに首を横に振ったり縦に振ったり。それだけで、鳥と人との間に言葉以上の何かが交わされているのがわかった。魔女なりの、使い魔との無言の対話。闇と闇が通じ合う、不吉な静寂。
(魔女か。思えば、俺はこいつのことをあまりよく思っていなかったのかもしれないな)
ストラシュは少しだけため息をついた。
彼にとって彼女は妻でもなく、恋人でもない。確かに旅の仲間ではあった。だが今では、契約によって縛られた都合のいい介護者だ……と言われて、反論する気も起きないのが本心だ。
(勇者様は必ず魔王を倒します)
この幌馬車に乗ったあとでも一回、そんなセリフを聞いた気がする。
(やめてくれ……)
ストラシュは頭を抱えたくなった。その言葉は耳にこびりつく。励ましのようであり、呪文のようであり、妄執のようである言葉。
(もういい)
ストラシュは思う。
(俺はもう勇者じゃない。ただの片足の抜け殻だ)
思わず、日が暮れるまでの間に、光が差し込む幌馬車の後部からだんだんとジリジリ後ずさって、夜の闇が来る頃には片方だけの膝を抱えて縮こまってしまった。
*****
四日目に通りがかりの村で井戸を借りることができた。
「勇者さまですって!」
「おお! 勇者さま!」
村人たちが次々と駆け寄ってきた。老婆が震える手でストラシュの外套の裾に触れ、涙を流しながら跪く。若い母親が赤子を抱いたまま近づき、「この子に祝福を」と懇願する。男たちも帽子を脱ぎ、深々と頭を下げた。そして一人、また一人と、ストラシュの前に膝をつき、恭しくその手を取って唇を押し当てていく。
「勇者さまの御手に触れられるなんて」
「魔王を倒してくださるお方だ」
粗末な麻の服を着た農夫も、小麦粉で白く汚れたパン屋の女房も、皆が競うようにストラシュの手に接吻した。まるで聖遺物に触れるかのような畏敬の念を込めて。ストラシュは慣れた様子で微笑みを浮かべ、時折「ありがとう」「神の加護があらんことを」と短い言葉をかけた。まだ片足を失う前の、威厳ある勇者の姿がそこにはあった。
たとえ、村の広場で粗末な木箱に座ったままであっても。村長が貸してくれた冬用の分厚い毛布の下に、足が一本しかなくても。ストラシュはそれがバレないかヒヤヒヤしていた。子供達が元気に駆け寄ってきてさらにその危惧は強まる。彼は不安げにあたりを見回す。
(ルヴィ……)
こういう時、魔女は姿を消す。勇者への信仰があつければあついほど、魔女への態度が侮蔑的なのは、よくわかっていることだった。
矛盾ではある。勇者を選んで力を与えるのは魔女教団とそこから派遣される魔女なのに、人々は勇者ばかりを誉めそやす。そして魔女を差別するのだ。教会も、だんだんと冷淡になっていた。「魔女教団が魔王と通じていて、ここ数十年のあいだ勇者が目立った成果をあげられないのは彼女たちのせいなのだ」……などという、根も葉もない噂を、積極的に否定しようともしない。
秋で蓄えがたっぷりあったらしく、勇者御一行として彼らは大いに歓待された。もともと少食なルヴィナチワと、遠慮がちなストラシュを尻目に、御者の男は脇目も振らずに黒パンを頬張っていた。
秋で蓄えがたっぷりあったらしく、勇者御一行として彼らは大いに歓待された。もともと少食なルヴィナチワと、遠慮がちなストラシュ、そして食い気のはやる御者の男が招かれた。
村長の家の土間に設えられた食卓には、普段なら冬まで大切に取っておくはずの食べ物が所狭しと並んでいた。塩漬けの豚肉、燻製にした川魚、蜂蜜をかけた林檎、バターを塗った温かい黒パン。村の女たちが総出で作った野菜のスープは、大鍋いっぱいに湯気を立てている。
「こんなもてなしは収穫祭以来ですわい」
村長が誇らしげに言った。
「勇者さまがお越しになるなんて、村始まって以来の栄誉ですからな」
ストラシュは申し訳なさそうに少しずつ口に運んだ。魔界での記憶がまだ生々しく、肉を見ると吐き気がした。それでも村人たちの期待に満ちた視線を感じて、美味しそうに食べる演技をした。
ルヴィナチワは隅の席で、誰とも目を合わせずに静かにスープをすすっていた。カラスは彼女の肩から離れず、時折小さく鳴いた。村の女たちが彼女を横目で見ながらひそひそと囁き合う。
「魔女を連れておいでとは」
「でも勇者さまには必要なんでしょう」
「不吉な鳥まで連れて……」
その間、御者だけは周囲の空気など気にも留めず、両手で黒パンを掴み、大口を開けて齧りついていた。豚肉を頬張り、エールを喉に流し込み、げっぷをした。
「うめぇ! こりゃあうめぇ!」
彼の無遠慮な食べっぷりに、村人たちはむしろ安心したようだった。少なくとも一人は、自分たちの料理を心から楽しんでくれている
乗せてくれた手前、ストラシュは特に気にしていなかったが、このように御者は野卑で粗野な男だった。たらふく食って気が大きくなったのかもしれない。つい口が緩んだようだ。
「勇者さぁ! あの女はけっこう肥えたいい尻してますねえ! なかなかめっけもんですぜ!」
村長の家の裏手でストラシュが体を洗っている最中、御者が話しかけてきた。つい周りを警戒する。村長は信用のおける老人だった。人払いは完全にしてくれたようだ。魔女のやつもいない。最初はあまりな物言いに面くらったが、勇者に任ぜられて以来、お行儀のいい連中としか話をしなかった彼にとってはむしろありがたかった。
「まあ、魔界での旅じゃあ、それに癒されることも何度もあったが……」
御者の男はたった一人で罪人の処刑に歓喜する市民の一群分の声をあげて笑っている。
「やっぱり! それにずいぶん甲斐甲斐しいじゃねえですか!」
「まあな。今じゃすっかり杖代わりさ」
御者の男はその物言いが気に入ったらしく、腹を抱えて大笑いした。
「昼は勇者さぁが女を杖にして、夜は女が勇者さぁの杖を持つ! ダハハ!」
ちょっと野卑と粗野の程度がストラシュの期待を大きく越えていたが、彼は久々の猥談を楽しむことにした。
「五年……以上か。それだけの間いっしょにいたが。あいつを理解できた気はしない」
「その間ずっと旅の美空ですかい!? 女連れで! 毎晩お楽しみでしょうなあ!」
「……まあな」
話に乗っておいて少々身勝手な話だが、ストラシュはもうさっさと体を拭いて衣服を身につけ、その場を去りたい気分だった。だがこういう時に片足は難儀する。御者の男は、目的地まで無事に送り届けなければならない勇者であるはずの彼を手伝おうともしない。その醜悪で卑しい口を閉じたりもしない。
「それにしても、わぁはここら辺出身でげすがね、ここらじゃあ、あんなのはけっこう獲れるんですよ!」
「え?」
ストラシュは怪訝そうに間抜けな声を発してしまった。御者はたまに街へ行ったときの娼館での経験を語るように、喜色満面で続けた。
「森の魔女どもでさぁ! 祭りの前になると村の男総出で魔女狩りをするんでさぁ! そんで年ごろの娘っ子ぉ、捕まえてきてぇ、豚小屋で飼うんでさぁ! いえなに、祭りの楽しみってやつで! ダハハハハハ!」
ちょっとこれは流石に笑えなかったのでストラシュも気を悪くした。だがノってしまった御者はそれにも気づかず話を続ける。
「なに、殺しはしませんけどねえ! 使い終わったらちゃんと森に返しますわ! 祭りの間じゅう、ここみてえな洗い場に四つん這いで繋いでですなあ、ダハハハハハ! わぁはほら、ずっと馬の尻ばかり見てるでしょお!? それを思いだしちまって! ダハハハハハ!」
ストラシュはすっかり嫌になってしまった。この御者のことも、これから向かう村のことも。
*****
七日目、森が道の両側から迫ってきた。巨大な樫の木が道を覆い、昼なお暗い緑のトンネルを作っている。時折、獣の遠吠えが聞こえ、御者が鞭を振るって馬を急かす。
八日目、寒い日であった。ルヴィナチワが少し体調を崩した。魔界にいた頃からよくあることだった。もともと病弱なのである。
荷馬車が揺れるたびに、彼女の顔色がさらに青白くなっていく。額には汗が滲み、呼吸も浅い。カラスが心配そうに主人の頬を嘴でつついた。
「休もう」
ストラシュが御者に声をかけた。
「少し止めてくれ」
「へい、勇者さま」
道端の木陰に荷馬車を止め、ストラシュは水袋を取り出した。片足で不安定ながらも、ルヴィナチワの背中を支え幌馬車の中の荷に寄り掛からせ、水を飲ませる。
「すみません」
彼女が掠れた声で言った。
「足手まといで」
「何を言うんだ」
ストラシュは素っ気なく答え、濡らした布で彼女の額を拭いた。
「魔界でも何度もあった。今更気にするな」
「ありがとうございます、勇者様」
ルヴィナチワの紫の瞳に、微かな感謝の色が浮かんだ。
「それに……」
勇者と呼ばれた男は、少しためらってからこう言った。
「足手まといというなら、いまは俺の方が……」
「そんなことは!」
普段は静かなルヴィナチワが、思わず大きな声を上げた。その激しさに、ストラシュも驚いて目を見開く。カラスまでが羽をばたつかせた。
「おーい、勇者さま! 大丈夫ですかい?」
御者が幌の外から心配そうに声をかけてきた。馬車の揺れが止まった静寂の中で、魔女の上げた声が思いのほか響いたらしい。
「ああ、何でもない」
ストラシュが慌てて答える。
「水を飲ませているだけだ。すぐに出発できる」
「へい、わかりやした」
御者の足音が遠ざかっていく。幌の中に、重い沈黙が降りた。ルヴィナチワは自分の激情に驚いたように俯き、ストラシュも何と言っていいかわからず、手にした布を握りしめたまま固まっていた。カラスだけが首を傾げて、二人を交互に見つめている。
ストラシュはその視線から目を逸らし、
「早く良くなれ。俺一人じゃ歩けないんだから」
と付け加えた。
*****
九日目、曇り空ばかりだったのが久々に晴れた。幌馬車は休憩のために麦畑のそばに留まったのだ。御者は馬に水を飲ませながら、自分も水筒を傾け、満足そうに大きく伸びをした。粗野な男だが、馬の扱いだけは丁寧で、優しく首筋を撫でながら何やら話しかけている。
ストラシュは切り株に腰掛けてしばし風景に見入っていた。
目の前には、地平線まで続くかと思われる黄金の麦畑が広がっていた。秋の陽光を受けて、無数の穂が風に揺れるたび、まるで黄金の海のように波打つ。穂先は重く実り、頭を垂れて互いに触れ合い、さらさらと乾いた音を立てている。時折吹く風が麦の香りを運び、それは焼きたてのパンを思わせる温かな匂いだった。空は澄み渡り、流れる雲の影が麦畑の上を滑るように移動していく。
彼のかたわらのルヴィナチワは、高く飛ぶカラスを見上げていた。 麦畑の上、はるか高く。その顔には快癒した爽やかさがあった。
「よかった、ルヴィ」
ストラシュは魔界で旅をしていた時には言わなかったことを言った。カラスがギャアギャア言いながら降りてきて、彼女の肩に降り立った。
(なんだろう、まるで……)
魔女が振り返った瞬間、ストラシュは息を呑んだ。黄金の麦畑を背景に、秋の陽光が彼女の黒髪に赤褐色の輝きを与えている。いつも青白い頬には微かな血色が差し、紫の瞳は空を映して透き通っていた。風が彼女の外套と髪を優しく揺らし、その姿はまるで絵画から抜け出した聖女のようだった。暗い魔界では決して見ることのなかった、彼女の隠された美しさがそこにあった。
「ふう」
ストラシュは頭を振る。この間御者にはああ言ったが、あれが少しでも真実であったことなどない。魔界への旅で、お互いの体温で暖を取る以上のつながりを感じたことはなかった。
(そんな余裕は……)
むしろ彼は、一人になりたかった。どこか山奥の洞窟にでも篭って……。
(だがそれはできない。ひとたび魔女と契約して勇者になったら、もう離れられないのだ。旅を続ける間にどんどん魔力を高める術の代わりに、あまり離れるとお互いの心臓が止まる……もちろん、片方が死ねば、もう片方も……)
広大な麦畑に、無数の案山子が立っている。どれも片足で立ち、ぼろ布を纏い、カラスを追い払うために腕を広げている。しかしその腕に当たる部分には、追い払うべきカラスが留っているのだから皮肉である。
黒い鳥たちは案山子を恐れもせず、むしろ見晴らしの良い止まり木として利用していた。ある案山子の頭には三羽も留まり、別の案山子の腕には五羽が整然と並んでいる。風に揺れる藁の髪、裂けた顔、片足の不安定な姿勢。それら全てが、今のストラシュ自身を映し出しているようで、胸が締め付けられた。
ふとした瞬間、カラスたちが一斉に飛び立った。しかしルヴィナチワのカラスだけは、主人である魔女の肩でじっとしている。
「俺もカカシみたいなものだな」
ストラシュは自嘲的に笑った。
「何の役にも立たない。カラスを追い払うことだってできないんだ」
ルヴィナチワが何か言いかけた時、御者が近づいてきた。
「なかなか詩的なこと言いますなあ、勇者さま」
御者が意外にも教養のある口調で言った。
「でもね、カラスってのは昔から特別な鳥でしてね。古い伝説では、カラスに導かれた王がいたそうですぜ」
「カラスに導かれた王?」
ストラシュが眉をひそめた。
「ええ、東の果てへ向かう王をカラスが導いたって話です」
ルヴィナチワがわずかに身じろぎした。彼女の肩のカラスが、まるで理解しているかのように小さく鳴いた。
「そうなのですよ」
彼女が言った。
「昔、カラスは王を魔を倒すための征伐の旅において、力を与えながら導いたということです。東に向けて……」
ルヴィナチワが口を開いた。
「賢き黒き鳥は、迷える者に道を示したんですよ」
「道を示す、か」
ストラシュは冷たく笑った。
「その王は幸せな最期を迎えたのか? それとも俺のように、東の果てで全てを失ったのか?」
カラスが悲しげに鳴いた。
*****
その夜、夢の中でストラシュは見た。自分が本当の案山子になって畑に立ち、魔女のカラスが遠くから自分を見つめている光景を。近づきたくても近づけない、永遠の距離を保ったまま。
次の日もストラシュは夢を見た。 仲間たちがまだ生きていた。聖騎士のローランは相変わらず大げさな身振りで正義を語り、弓使いのミーナは皮肉な冗談を飛ばし、僧侶のセバスチャンは温厚な笑みを浮かべている。そしてもちろん勇者である彼とその導き手の魔女ルヴィナチワも。
五人焚き火を囲み、明日の戦いについて話し合う。まだ魔界の邪悪な風景を見ずに済んでいた、まだ出発して日が浅い、希望に満ちていた頃の夢。
そして場面は一転する。
ローランの上半身が、肉の壁に飲み込まれていく。ミーナはどうやったのか、自分の放った矢で自分の眼を射抜いている。セバスチャンは狂ったように笑いながら、自分の内臓を素手で引きずり出している。
それが、魔界のもたらす死の狂気だった。
「う、うわあっ!?」
ストラシュは叫んで目を覚ました。 薄暮れの草地に、荷馬車は止まっていた。西の空は血のような赤から深い紫へと移り変わり、最初の星が瞬き始めている。秋の夜露が草の葉先に宿り、冷たい風が頬を撫でた。
「はあ、はあ、はあ……」
御者は少し離れた場所で焚き火の準備をしており、こちらのことは聞こえていないようだ。遠くで梟が鳴き、森の奥からは名も知らぬ虫の音が響いてきた。
ルヴィナチワがすぐそばにいて、また抱きしめてくれた。ストラシュは彼女の胸に顔を埋め、子供のように泣いた。
朝になれば、また無表情な仮面を被るのだが、夜の間だけは、魔女の腕の中で壊れることが許された。 多分、これからずっと、そんな関係が続くのだろう。
十四日目、ダーレンシュタイン村が見えてきた。




