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第十話 血の暴力

第十話 血の暴力

 グレゴール神父の涙を見てから十日ほどが経った。ストラシュは鍛冶屋のところから農具を束にして持ち帰り、裏手で研ぐことをしていた。これなら村外れの鍛冶屋まで毎朝往復して無駄に体力を消耗せずに済む。

(よし、ずいぶんペースが上がって来たな。湾曲して難しい鎌も、砥石の角を他の刃物で研ぎ減らせて丸まったものを使えばきちんと研げる)

 働く時間が増えていた。ストラシュは創意工夫も大いに楽しみ、家の裏手から見える畑で働く農夫に使い心地を聞いては次に生かしていた。

 午後、研ぎ終わった農具を縛って背負い、久々に鍛冶屋まで歩くことにした。流石に杖に片足でものを背負うとバランスが取りにくいが、魔界の辛い行程を思えば軽いものだ。

(片足を失った後で、体調を崩したルヴィナチワを背負って移動した記憶があるが……あんなことどうしたらできたんだろう。今思い返すと信じられん。這って行ったんだったっけか?)

 最近は夜の発作も少なくなり、昼間にこうして魔界の記憶が蘇っても、不快感を感じなくなった。回復、そして新たな生活。

(大丈夫、俺は……大丈夫……)

 少なくとも、目に見える範囲では全てが順調に思えた。しかしストラシュは、何か言い知れない不安のようなものをぬぐいさることができなかった。

「ん?」

 井戸のそば、広場の中心まで来ると、何か……気づくことがあった。

(なんだ、この感覚は……?)

 村の空気が変わっていた。いつもと同じ風景。同じ広場。同じ井戸。村人たちは変わらず午後の農作業のために畑に向かい、女たちは水汲みをし、手が空いたものはおしゃべりに余念がない。

 しかし、何かが違う。

(この違和感はなんだ?)

 具体的にどうこう言えないが、何日か前、鍛冶屋から戻る時にここを通った時とは雰囲気が違っている。

 どこかみんな、落ち着きがなかった。

「あら、勇者様。そんなに背負って大丈夫ですか? 手伝いましょうか?」

 井戸の周りでひそひそと話していた村長の妻がストラシュに挨拶した。他の女たちは一瞬彼を見て一礼したが、すぐにおしゃべりに戻った。よほど関心のある話らしい。

「そう言えば昨日、神父様の様子がおかしかったわね」

 中年の女が不安げに言った。

「ええ。礼拝の後、ずっと一人で教会にいらしたって」

 赤子を抱く若い母親が答える。

「何かあったのかしら」

 女たちの声は不安に満ちていた。ストラシュは村長の妻に適当に挨拶を返しながら、その会話に耳を傾けていた。

「でも今朝、お会いしたら……」

 若い母親が赤子をゆっくりあやしながら言う

「なんだか、晴れやかな顔をしてらしたわ」

「晴れやか?」

 中年の女が訝しげに首を傾げる。

「ええ。笑顔で挨拶してくださったの。久しぶりに見た、あんな穏やかな顔」

「それは……よかったじゃない」

「あの、勇者様?」

 村長の妻に怪訝そうな声をかけられ、ストラシュはハッとして顔を上げる。つい盗み聞きに集中しすぎていたらしい。その場の全員の視線が集まり、気まずい思いをする。

「い、いや、すまない。流石に病み上がりの身にこれは重かったかな、ははは……」

 その時、赤ん坊がぐずり始めた。若い母親はよしよしと言って揺する。

「ああ、最近夜泣きがひどいんだろう? 大変だねえ」

 村長の妻があやすのを手伝っている。ストラシュは今一度女たちの表情を見る。彼女らの表情は疲れているように見えた。そして困惑している。何かが釈然としないという顔だった。

(この人たちも言葉にできない不安を感じているのか?)

 とりあえずストラシュはそろそろ寒くなるだろうからみんな気をつけて、と言って、再び杖を突いて歩き出す。

 魔界。

「うっ……」

 久々に目眩を感じる。

(なんで今更……)

 彼はふと教会の方を見た。この町で一番大きな建物。しかしその背後の巨大な黒い森に比べたら、はるかに小さい。

 ストラシュは身震いをした。魔界での、旅……次々に仲間が来るっていったあの日々。ようやく恐怖が薄れ始めたというのに、また不安が蘇ってくる。

(もしかしてみんなこの落ち着かない感覚を得ているのか? 村のみんなが?)

 魔界は、魔王は、この世に存在するだけで人を狂わせる。

 かつて旅の前半で、ルヴィナチワが言ったことだった。それは魔界を進む勇者一行にのみ当てはまることかと思っていた。

(今夜、ルヴィにも聞いてみよう)


 *****


 ストラシュが鍛冶屋の工房に着くと、親方は不在だった。なんとなく一人であるというだけで不安になった。

(馬鹿げてる。子供じゃあるまいし)

 彼は頭を振って無理に不安を追い出すと、言われていた置き場に背中の農具の束を下ろし、荷造り紐を解き始める。

「ああ、勇者様。来てたんだな。すまんね、告解の時間だったから……」

 ストラシュが農具を整理していると、帰ってきた親方は額の汗を拭いながら声をかけた。

「告解……」

 ストラシュはまだ教会の週の予定を把握していなかったが、この曜日のこの時間、グレゴール神父は教会の中で村人の罪の告白を聞いてくれるらしかった。

 ストラシュはそれとなく神父の様子をたずねてみた。鍛冶屋の親方は少し逡巡する様子だったが、このことを話せるのは同じ宗教的尊敬を集める勇者しかいないと言って話し始めた。

「神父様の様子が……なんというか……」

「体調が悪い? まあ、お歳だし……」

 親方は首を横に振った。

「いや、悪いわけじゃねえんだ。むしろ優しくて。いつもより話をよく聞いてくださって」

 親方は言葉を選んでいた。彼ももう五十代だという話だ。だからこそ、神父を心の拠り所にしているのだろう。グレゴール神父は六十歳余りで、病に伏せる村長を除けば、この村一番の年長者だからだ。勇者であるストラシュ相手にも物怖じしない大柄で豪胆なこの男が、唯一心を許せるのがグレゴール神父なのだ。

 そんな人の様子がおかしいとしたら、不安にもなる。

「でも……なんていうか……」

 ストラシュは水を向けてやる。

「歯切れが悪い?」

「そうなんです!」

 親方のごつい顔が明るくなった。

「俺が罪を告白しても、『ああ、そうですか』って。いつもなら聖典の言葉を引いて諭してくださるのに」

 親方は首を捻った。

「まるで、ご自分も迷ってらっしゃるような……」

 ストラシュは黙って頷いた。心当たりは……あった。

(俺のせいだろうな、きっと)


 *****


 その夜、ストラシュは寝台に横になりながら、天井を見つめていた。

 蝋燭の灯りで以前もらったこの村の報告書を読み直す。偏見に満ちたものだが、堕胎についてすでに書かれている。

(神父からではなく、村人から情報を得たな? そして神父を見張ってたんだ。異端審問の才能があるかもな)

 随分調べる能力のある人だったらしい。だがグレゴール神父の苦悩までは読みきれなかったようだ。これが領主の目に入らずに中央にだけ伝わり、そして中央は辺境のことなど誰も気にしていないというのは、皮肉だった。

「神と中央のみぞ知る……というべきか? いや、神のみぞグレゴール神父の苦悩を知る、だな」

 いや、と思い直す。今やストラシュも知ってしまった。

 神父の告白が頭の中で反響している。堕胎薬。森の儀式。村の秘密。そしてそれらは領主の耳に入ればオオゴトになることだった。

「それは帝都でも読んでいたものですか?」

 蝋燭の灯りの中に白い肌が入ってきて、言った。

「あ、ああ……」

 一瞬、ストラシュは報告書を隠そうと思った。魔女への偏見……森の民への差別的な記述を見せたくないと思ったのだ。しかしヨハネス神父の筆法は、村の人までたいそう悪く書いていたので、むしろ痛快かもしれなかった。

 ストラシュは紙片を渡した。ルヴィナチワはじっとそれに目を落とす。

「これは案外村の本質を書き記しているかもしれない。だが、神父や村人の複雑な心のうちまでは書ききれなかったようだな」

「やはり堕胎のことが書かれていますね」

 ストラシュは寝転がったまま驚いた顔をルヴィナチワに向けた。

「知っていたのか?」

「はい」

 彼女は報告書を読みつつ答える

「その……森の民の老婆が堕胎薬を神父に渡していたことも?」

 ルヴィナチワは頷く。白い顔は蝋燭の中でいつもの無表情を張り付かせている。

「はい。この地域の人が森の民から薬を受け取るなら、それが一番多いですから」

 ストラシュは少し身を起こして彼女の方に体を向けた、

「……なあ、ルヴィ。お前はどう思ったんだ? 自分を差別している村の人々が、結局魔女の秘術に頼っているのを見て、溜飲が下がったか?」

 ルヴィナチワは報告書から顔を上げ、ストラシュを見た。紫の瞳には、いつもの静けさがあった。

「そんなさもしい気持ちはありません」

 その声は穏やかで、非難めいたものは何もなかった。 ストラシュは真剣な口調で返答する。

「そう感じたっていいんだぞ? ルヴィ」

 ルヴィナチワは答えない。ストラシュはうーんと唸る。

「神父は誠実な苦悩の中にいるが……村人たちは……迷える子羊そのものだ」

「……人はみんな弱いんですよ。誰でも。もちろん私でも」

 ルヴィナチワは報告書を畳んだ。 そしてなんでもないように、

「勇者様、あなたでも」

 と言った。

「だろうな」

 ストラシュは苦笑した。

「ルヴィ。それはその通りだ。だから自分が軽蔑しているはずの相手にも縋るし、そのことを認められない。感謝すらできず、むしろ憎む」

「そういうことです」

 ルヴィナチワは立ち上がった。

「さあ、寝ましょう。また苦しい気持ちになってしまいますよ」

「ああ、そうだな」

 ストラシュは寝台の上で仰向けになるよう寝返りを打ちながら言った。どっと疲れを感じ始める。

「ふう、最近平気になってきた気がするが……なんだか……その……」

 彼が窓の外にチラッと目をやろうとすると、今までどこにいたのか、カラスがすかさず飛んできた。そして窓枠に留まって、カーと小さく鳴いた。

「ははっ、わかったわかった」

 ストラシュは参ったというふうに朗らかな声を出す。

「なんだか今日、感じたんだ。魔界の気配を。魔王の息遣いを」

 彼は天井を見つめた。

「ルヴィ。お前は前に、そういうものはこの世に存在するだけで人を狂わせるって言ってたよな? それはてっきり俺は、魔界を進む俺たちにだけ作用するのかと思っていたが、もし魔界の侵食が広がっているのだとしたら……」

「寝てください」

 ルヴィナチワはピシャリという。

「はい」

 ストラシュは素直にいうことを聞き、目を閉じようとする。だが最後になんとはなしにルヴィナチワが蝋燭に手を伸ばし、消そうとするのを見ていた。

「どうか心配せずに」

 優しい声だった。ストラシュの瞼が降り、眠りに入る。だが、すぐに眠気は吹き飛び、体の血液が逆流するのを感じた。蝋燭の光が彼女の手を照らし出したのだ。そこには……。

 手の甲に、紫色の痣がくっきりと浮かんでいた。ストラシュはガバリと飛び起きる。ルヴィナチワはしまったという顔をして手を引っ込めた。明らかに隠していたのだ。

「……どうしたんだそれは」

 ストラシュの声が低くなる。

「どこで怪我した!?」

 魔女は首を振る。

「ぶつけたんです」

 長い付き合いである。その仕草が何かを誤魔化すときのものであることはすぐわかった。ストラシュは身を起こした。

「そんなわけないだろ!? 怪我なんかいくらでもしてきたじゃないか! 見ればそれが単なる怪我じゃないことはわかる!」

 つい大きな声が出た。ストラシュはすぐに反省し、大きく深呼吸をした。

「すまない。俺はお前のことを大事に思っている。だから、何かあったら話して欲しい……」

「仲間として、ですよね?」

 ルヴィナチワの声は静かだった。しかしいつにない力強さをはらんでいた。それは確認ではなく、警告であった。関係性を間違えてはいけない。そう言っているのだ。

 ストラシュは言葉に詰まった。

(ルヴィは、俺の何だ? 仲間、だよな? それとも……)

 ルヴィナチワがすっと蝋燭が吹き消し、闇が部屋を包んだ。

 *****

 モゾモゾと彼女が寝床に入るのがわかった。毛布は森の民が持ってきたものを魔界遠征時の魔力付加の装備品と交換で手に入れていたから、もう藁に寝なくても済んでいる。

 ストラシュもまた再び横になって目を閉じた。

(俺は……この村を愛せるのだろうか)

 彼はこの村がだんだん好きになっていた。しかし、村人は決して善人ではないことなんてとっくにわかっていたことだ。

(ルヴィへの差別心は、折り合いがつくものだと思っていたのだが……)

 グレゴール神父の信仰心の迷い、よりひどくなった魔女への差別、そして村人たちの不安……。

(不安だ。久々に)

 何かが始まろうとしている。止められない何かが。 ストラシュはそう思った。

「なあ、ルヴィ。起きているか?」

 彼は寝台の下に声をかけた。

「俺はお前を大切に思っているよ。この関係性は……俺はまだ名前をつけることすら躊躇うが……村でずっと暮らせればいいと思っている。もし村のみんなと軋轢があるなら、俺がなんとかするから、もっと話してほしい」

 闇の中、返事はなかった。規則正しい寝息だけが聞こえる。ストラシュは小さく息を吐いた。

(明日、調べてみるか)

 窓の外から、遠く森の太鼓の音が聞こえた。いつもより激しく、いつもより不穏に。カラスが梁の上で小さく鳴いた。 ストラシュは毛布を引き寄せ、目を閉じた。しかし眠りは、なかなか訪れなかった。


*****


 数日後、ある日の夕方のことだった。鍛冶屋からの帰り道、ストラシュは杖をつきながら道を歩いていた。上半身は汗で湿り、工具を握っていた腕が痺れている。数時間の仕事で思った以上に疲労していた。

(少し無理をしてしまったかもな)

 今日は親方に研ぎ以外の仕事のことを教わっていた。金属の曲がりの補修は、数ヶ月の練習が必要そうだった。工房のただの木の板の椅子にずいぶん長く座っていたので、臀部だけではなく右足の切断面までもが鈍く痛んだ。

(ローザにもらったあの刺繍入りのクッション、流石に工房に持ち込むのはなあ……)

 そんなことを考えながら井戸のある広場に差し掛かったとき、ストラシュは足を止めた。

 ルヴィナチワがいた。木桶を両手で抱えて、井戸へと向かっている。黒い外套が足元で揺れ、カラスは肩に留まっている。いつもと変わらぬ光景だった。

 しかし、その後ろから……。

(え?)

 三人の少年が石を拾うのが見えた。

(あの子たちは……)

 ストラシュには見覚えがあった。農作業の手伝いと神父に叱られる悪戯を日々繰り返しているような子供たち。子供には全く興味のない彼だったが、村に来て一番最初に顔を覚えた、といえばわかりやすいだろうか。それくらい目立った悪たれである。

 十歳前後、泥にまみれた麻の服を着て、膝には擦り傷、足は裸足。農家の子供たちだ。おそらく畑仕事の途中だろう。手には土がこびりついている。日に焼けた顔は無邪気な子供のものに見えるが……

 だが、その目が違った。

 三人とも、ルヴィナチワを見つめている。その瞳に宿るのは……子供特有の残酷さだった。まだ善悪の境界を知らない年齢の、純粋な憎しみ。大人たちが囁く言葉をそのまま信じ込んでいる、濁りのない敵意。

「あ、ま、待て……」

 ストラシュの声はうわずってつっかえた。叫び声にならなかった。

 それはちょうど手に収まる大きさの石だった。子供が投げるのに適した重さの石。まるで何度もやったことがあるかのような、慣れた手つき。いや、実際何度もやっているのだろう。

 ストラシュの脳裏に、この前見たあざが思い浮かんだ。

「魔女!」

 最初の声が響いた。

「呪われた女!」

 次の声が続く。

「村から出て行け!」

 三人目が叫んだ。三つの石が、ルヴィナチワの方へ飛んでいった。

 最初の石は外れた。二つ目も地面に落ちた。

 しかし三つ目が……。

 ごつっ。

 鈍い音だった。

 ルヴィナチワの額に石が当たり、転がり落ちた。彼女の足が止まる。木桶を抱えたまま、その場に立ち尽くす。

 額の皮膚が裂け、血が滲み始めた。ゆっくりと、赤い筋が白い顔に伝っていく。

「カァアアアアッ!」

 カラスが激しく鳴いた。羽を広げ、身を乗り出す。黒い瞳で少年たちを睨みつけ、今にも飛びかかろうとする。

 ルヴィナチワは木桶を地面に置き、肩のカラスに手を伸ばした。優しく黒い羽を撫でる。まるで「いいのよ」と言うように。「仕方ないのよ」と諭すように。カラスの鳴き声が弱まる。しかしその黒い瞳は、まだ少年たちを見つめていた。

 ストラシュは杖を握りしめた。なぜだか声が出ない。

(と、止めなければ)

 前へ進もうとする。

(叫ばなければ)

 だが喉が動かない。

 なぜだ。なぜ、なぜ、なぜ……。

 広場の周囲には大人たちもいた。農具を手にした男。洗濯物を抱えた女。パンを売る老婆。誰も動かなかった。見て見ぬふりをしている。いや、中には薄笑いを浮かべる者さえいた。

 みんな敬うべき勇者様が見ていることに気づいていない。鍛冶屋があるのは村外れだ。そちらの方角には民家はなく、誰も注意深く見ない方向。

 それゆえに、魔女への"正当な"攻撃は止まらなかった。

「あ……あ……」

 その瞬間、ストラシュの脳裏に別の光景が蘇った。

 魔界。肉の壁が蠢く通路。仲間が引きずり込まれていく。セバスチャンの手が伸びている。ミーナが叫んでいる。ローランが……。

(なんで、こんな時に)

 ストラシュの足がもつれた。

(なんで今、魔界のことを——!)

 杖を投げ出し、地面に崩れ落ちる。片足では支えきれない。土埃が舞い上がった。

(助けられなかった)

あの時も。今も。

「ハッ、はあ……はあ……」

 ストラシュは泥の地面に両手をついて、荒い呼吸をどうにか宥めようとする。教会の方角……いや、真っ黒で巨大な森の方向が気になって仕方ない。

(ま、魔界……まさか……え、影響が……?)

「あ、ああ!? 勇者様!!」

「勇者様が倒れられたぞ!!」

 誰かが気づいたのだろう。村人たちが駆け寄ってきた。さっきまでルヴィナチワを無視していた者たちが、勇者が倒れると我先にと集まってくる。

「大丈夫ですか!」

「お怪我は!」

 ストラシュは荒い息をついた。視界が歪む。胸が締め付けられる。

(違う。助けるべきは俺じゃない)

「お、お、俺は……いい!」

 喉を振り絞って叫んだ。

「ルヴィを……俺の魔女を……助けて……やってくれ!」

人混みを押し分けて、一人の女が現れた。ローザだった。お腹を抱え、息を切らせながらストラシュの側に膝をつく。

「勇者の旦那……」

 ストラシュは大きく呼吸をしながらローザに縋りつく。まるで胸ぐらを掴むような勢いで。

「ローザ! 頼む、ルヴィを……!」

 ローザはストラシュの腕を掴んだ。その手が震えている。

「ごめん、あたしさ……」

 彼女はお腹を押さ、さすった。歯を食いしばる。

 ストラシュは察した。領主の子だ。ローザは妊娠中なのだ。大きな声は出せない。走れない。あの悪ガキたちは、自分にも石を投げるかもしれない。

 ストラシュが歯もあらわに大きな口を開けて苦悶の呼吸をする目の前で。ローザの目に悔し涙が滲んだ。

「……領主様に報告する。必ず」

 彼女にできるのは、それが精一杯だった。


*****


 井戸の前で、ルヴィナチワは額に手を当てていた。血が指の間から流れ落ちる。赤い雫が地面に落ち、湿った土に吸い込まれていく。

 彼女はゆっくりと少年たちを見た。

 その目に——怒りはなかった。哀しみでもなかった。ただ、深い諦めのような何かがあった。まるでこれが当然だと知っているかのように。まるで何度も繰り返されてきたことだと分かっているかのように。

 少年たちは石を握りしめたまま、魔女を見返していた。互いに目配せしている様子を見ると、やりすぎたことは理解していた。だがその瞳にあるのは後悔と申し訳なさではなく、怯えと憎しみであった。謝罪の言葉は一向に出てこない。オオゴトになることへの不安と、魔女からの復讐を恐れ憎む感情だけが見てとれた。

 カラスは主人の肩で、黒い瞳で少年たちを見つめ続けていた。

 ルヴィナチワは何も言わなかった。

 木桶を拾い上げ、そのまま歩き続けた。血を流しながら。まっすぐ前を見て。井戸で水を汲み、木桶を抱えて、家へと向かう。

 その背中に、村人たちの視線が突き刺さっていた。

 ストラシュは地面に座り込んだまま、その後ろ姿を見ていた。何もできなかった自分を呪いながら。また見ているだけだった自分を憎みながら。

ローザが肩を貸してくれた。村人たちが杖を拾い、手を貸してくれた。ストラシュはすぐに杖に縋って、ローザに負担をかけないようにした。

 ストラシュの心の中で、何かが音を立てて壊れた。 村への親しみが、憎しみへと変わり始めていた。

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