第一話 敗北、帰還、追放
彼が石造りの門をくぐったとき、衛兵たちの顔に浮かんだのは歓迎ではなく困惑だった。
帝都を出発した時、彼は威厳のある立ち姿で白銀の鎧に身を包み、腰には聖剣を佩き、紅の外套を風になびかせていた。群衆は歓声を上げ、花弁を撒き、聖歌隊の清らかな歌声が石造りの大通りに響き渡った。幼い子供たちは憧憬の眼差しで見上げ、娘たちは頬を紅潮させて手を振り、老人たちは涙を流しながら十字を切った。
だが今、衛兵たちの前に立つのは、その面影すらない抜け殻だった。
「勇者ストラシュ・モルヴァフ様……ですか?」
若い衛兵が信じられないという顔で呟く。灰褐色の髪は脂と埃にまみれて肩まで伸び、かつて希望に輝いていた青灰色の瞳は、濁った沼のように澱んでいる。聖剣も、鎧も、仲間たちも、すべて東の果て……魔界の深淵に置いてきた。残ったのは、ぼろぼろの外套と、左の膝から下がない身体。そして、彼の肩を支える黒衣の女、魔女ルヴィナチワだけだった。
彼女は項垂れたままの勇者の代わりに潰れかけのとんがり帽子を取って礼をする。
魔女の肩には一羽のカラスが止まっていた。艶やかな黒い羽は、主人の髪と同じ色をしている。カラスは首を傾げ、片目で元勇者を見つめた。その瞳には、魔女と同じ深淵が宿っているように見えた。
魔界から戻って三週間。傷は塞がり、熱も下がった。しかし、閉じた瞼の裏には今も肉の壁が脈動し、耳の奥では狂気を呼ぶ何かの声が響いている。夜中に目覚めれば、失った左足がまだそこにあるような幻肢痛に襲われ、次の瞬間には、あの瞬間——巨大な顎が自分の足を食いちぎる感触が蘇る。
帝都の大通りを進む二人と一羽を、市民たちが遠巻きに見つめていた。出立のときには花を投げ、聖歌を歌い、涙を流して見送った同じ人々が、今は目を逸らし、ひそひそと囁き合う。
「あれが勇者様?」「片足がないわ」「魔女しか連れていない」「失敗したのね」
カラスが羽ばたき、声の主たちの頭上を旋回する。人々は不吉な鳥に怯え、さらに距離を取った。魔女は無表情のまま、カラスを呼び戻すこともしない。
「大丈夫、心配しないでください」
ルヴィナチワの声が、彼——ストラシュの耳元でささやく。
「あなたは魔王を倒せます、必ず」
ストラシュは横目で旅の間ずっと一緒だった魔女を見た。どういうつもりの言葉なのかわからなかった。その言葉は励ましなのか、呪いなのか。
「ありがとう、ルヴィ」
もはや彼には判別がつかなかった。
勇者とそれに従う魔女が宮殿の方向へ去った後、人々は遠慮なく大声で今見たものを語り合った。出立の時には英雄と呼ばれた者が、今や畑に立つ人形のような姿で帰還したのだ。
「カカシだ」
誰かが言い、たくさんの者が繰り返す。
「勇者様がカカシになって帰ってきた」
上空を飛ぶ魔女の使い……カラスが悲しげに鳴いた。その声には、失われた栄光への哀歌が込められているようだった。
*****
「ああ、勇者殿。傷は癒えたかね?」
皇帝の声は穏やかだったが、その視線はストラシュにちらりと向けられただけだった。書記官が支え持っている書類、食べながらそれに目を通すことに夢中だ。ストラシュはルヴィナチワの肩を借りていたのをどうにか外し、バランスを崩さないように注意しながらお辞儀をした。ボサボサの髪と無精髭がどうもこの場に似つかわしくない。
「おかげさまで……貴重な回復魔法を使っていただきありがとうございます」
「いいのだ、いいのだ」
皇帝は口にものを含みながら答えた。ナプキンで口を拭く。帝都の市民でも一生口にできないような高級ソースがシミを作る。
「さあさあ、来たまえ。それでは立っているのは辛いだろう」
「お気遣いありがとうございます」
そう言って、ストラシュは再びお辞儀する。皇帝の前で、彼は案山子のように立っていた。片足で、支えられながら、ぎこちなく。
長大な食卓には豪華な料理が並び、宮廷の重臣たちが着席していた。彼らは慇懃なマナー通りの仕草で静かに食事をしている。時折り一言か二言、書記官に何かを言う。宮廷の執務は休みなしのようだ。
しかし、ルヴィナチワがストラシュを支えて食卓に近づこうとすると、皇帝は手を挙げた。
「ああ、衛兵、衛兵。手伝ってやりなさい」」
衛兵が進み出て、半ば強引にストラシュを魔女から引き離し、椅子に座らせた。魔女は黙って隅へと下がる。ストラシュはできる限り表情を崩さないように気を遣った。
明らかに……彼女を食卓に近づけたくなかったのである。彼は振り返らずに状況に任せた。ルヴィナチワを振り返ることもなかった。その顔に浮かぶ表情を、元勇者は見たくはなかった。カラスは主人である魔女の肩から離れず、黒い瞳で皇帝を見据えていた。その視線に、皇帝は僅かに居心地悪そうに身じろぎした。
「おほん……さて」
皇帝は銀の杯を手に取った。
「君の勇敢な戦いには感謝している。魔界の脅威について、貴重な情報をもたらしてくれた」
嘘だ、と元勇者は思った。誰も魔界の本当の恐怖など知りたがらない。肉の壁が呼吸するように蠢き、空気そのものが狂気を含み、一歩進むごとに正気が削られていく、あの地獄を。
思い出すだけで、めまいがした。
しかし彼は目を伏せて笑みを浮かべ、「もったいないお言葉です」と返した。
「これから君が守護することになる村の話だが……」
皇帝が手を挙げると、壁際に立っていた書記官がつかつかとやってきて、革張りの書類をストラシュの前に置いた。
「それが報告書だ」
皇帝は見もせずに言った。
「私は読んでいないが、きっと色々とわかることだろう」
ストラシュが頭を下げている間に、話題はすぐに次へと移った。
「次の勇者選抜後の出立式は、過去最大の盛り上がりにしましょうぞ!」
宰相が身を乗り出した。金の装飾がついた衣服がチャラチャラと音を立てた。
「経済効果も無視できないではありませんか! 市民の士気を高めるためにも、盛大な祭りが必要なのです!」
「新しい勇者は誰になるのです?」
枢機卿が問う。
「魔女教団が三人の候補を挙げている」
別の重臣が答えた。
「いずれも若く、有望な」
若く。その言葉が……"元"勇者であるストラシュの胸に突き刺さった。自分もつい半年前まではその形容詞で語られていた。今は使い古された、壊れた道具でしかない。
皇帝の好意で食事が運ばれてきたが、元勇者は丁寧に辞退した。一口も喉を通りそうもない。肉料理を見れば魔界の肉壁を思い出し、ワインの赤は血を想起させた。
「ダーレンシュタイン村は、君に任せる」
皇帝が唐突に言った。
「辺境だが、静かで良い場所だ。ゆっくり養生するといい」
ストラシュには皇帝の内心がわかっていた。この有能な指導者はきっと彼の存在などもう明日には忘れているのだろう。しかし、もはやどうでもよかった。
*****
その夜、あてがわれたのは国外の賓客用の館だった。昨日まで養老院の一角で寝かされていた今までと比べれば極めていい環境。他ならぬ希望の星である勇者が……片足を失って戻ってきたなどという噂があまり広がらないようにするための措置だったが。ストラシュは寝台に寝転がりながら、皇帝から渡された報告書を開いた。
『神聖帝国辺境視察報告書』
主の御名において
報告者:中央大司教区派遣司祭 ヨハネス・フォン・ヴィッテンベルク
視察地:ダーレンシュタイン村及び周辺地域
神紀1482年9月
閣下へ
此度の辺境視察の命を受け、帝都より十四日の行程を経て、当地に到着いたしました。道中の困難は筆舌に尽くしがたく、舗装された帝都の石畳から離れるや否や、泥濘と馬糞にまみれた獣道を行く有様でした。文明の光から遠ざかるにつれ、人々の野蛮さは増すばかりでございます。
村落の概況について
当地ダーレンシュタインは、帝国の威光がかろうじて及ぶ最南端に位置し、住民は凡そ三百名余り。彼らを「人間」と呼ぶべきか躊躇するほどの有様です。
まず驚愕すべきは、その住居の惨状です。豚小屋と見紛うばかりの木造家屋に、藁を無造作に葺いただけの屋根。扉を開ければ、人間と家畜が同じ空間に雑居しており、その悪臭たるや地獄の業火を思わせます。帝都の馬小屋の方がよほど清潔でございましょう。彼らは冬の寒さを理由にしておりますが、獣と寝起きを共にすることで、その精神もまた獣に近づいているのは明白です。
農民どもの食事風景を目にした時の衝撃を、どう表現すべきでしょうか。黒く硬いパンらしきものを、歯を剥き出しにして噛みちぎる様は、まさに犬が骨を齧るが如し。スプーンの使い方も知らず、木の椀から直接すすり、手づかみで食物を口に運びます。我々が祈りを捧げてから食事をとるのに対し、彼らはただ獣のように貪るのみです。
森との不浄な関わりについて
特に憂慮すべきは、村民と森との関係でございます。神が人間に与えし土地を耕すことこそが正しき営みであるにも関わらず、彼らは暗き森へ日々出入りしております。
木こりと称する者どもは、朝な夕なに森へ消えていきますが、その間に何をしているか、誰も正確には把握しておりません。薪を拾うと称して森に入る女子供も、しばしば奇怪な茸や得体の知れぬ草を持ち帰ります。これらを「薬」と称して用いる様は、まさに異教の名残であります。
森で狩りをする者に至っては、もはや半ば野生の獣と化しております。血に塗れた獣の死骸を嬉々として解体し、その臓物を素手で掴む姿は、悪魔の饗宴を思わせます。彼らは森の奥深くで何を見、何と交わっているのか。神の御光の届かぬ場所で、邪悪な霊と契約を結んでいても不思議ではありません。
東方からの穢れた行商人について
さらに重大な問題は、定期的にこの地を訪れる東方の行商人どもでございます。主に東方から来る彼らは、その容貌からして我々とは異なる劣等な血統であることが明白です。
女を中心とした一座で移動し、奇怪な言葉を操り、十字を切る作法も知らぬ半異教徒どもです。彼女らの纏う汚らしい毛織物の外套からは、香辛料とも獣脂ともつかぬ異臭が漂い、近寄るだけで吐き気を催します。
ある老婆などは、平然と堕胎の術を心得ていると噂され、実際、子を孕んだ未婚の娘が彼女のもとを訪れる姿を目撃いたしました。顔までよく見えませんでしたが、あの背格好や体つきは間違いなく覚えがあります。村の教会で熱心に祈りを捧げていた若い娘でした。信じられますか! 個人的に感心していたのに。神父に最も近い神の信徒がそのようなことを! 神の御心に背くこの所業を、村民どもは見て見ぬふりをしております。
村民の精神的堕落について
日曜の礼拝に集まる者は全体の半数にも満たず、来た者も居眠りをし、あるいは隣人と世俗の話に興じる有様です。説教の最中に咳き込み、鼻をすすり、時には放屁する不届き者さえおります。聖体拝領の意味も理解せず、ただパンと葡萄酒を貰えるから来る者も多いのです。
神聖古語の祈祷文など一つも諳んじることができず、主の祈りさえ満足に唱えられません。彼らの信仰は、森の精霊への畏れと、教義の表面的な記述が混濁した、醜悪な混合物に過ぎません。
領主と称する男も、帝都の下級官吏にも劣る教養しか持ち合わせておらず、読み書きもおぼつかない有様です。しばしば騎馬を駆っては子飼いの騎士とともに無意味に辺りを走り回って領民を威圧しています。あれは盗賊と変わらないでしょう。統治はこんな有様で、暴力と恐怖ばかり。正義も慈悲もございません。
結論と提言
この地は、まさに文明と野蛮の境界線上にあり、放置すれば完全に異教の闇に飲み込まれかねません。特に東方からの行商人どもは、その存在自体が教会の権威への挑戦であり、いずれ断固たる措置が必要となりましょう。
村民どもも、その大半は獣に毛が生えた程度の存在ですが、強制的にでも教化すれば、多少は人間らしくなる可能性もございます。ただし、それには相当の時間と労力を要することを覚悟せねばなりません。
神の御加護が、この暗黒の地にも届きますよう、日々祈念しております。
敬具
主の僕 ヨハネス・フォン・ヴィッテンベルク
(印章)
ストラシュは気が滅入ってくるのを感じた。村人たちの「野蛮」な生活、森との「不浄」な関わり、東方からの行商人たち。神父の偏見と侮蔑に満ちた文章が続く。報告書を読み進めるうちに、文章一つ一つ、単語一つ一つ、そしてその背後にある暗い差別感情に基づく言葉選び……そんなもののせいかわからないが、呼吸が浅くなっていった。めまいがする。
「うっ……」
枕元の燭台が作る影が踊る。白く傷がない館の壁にできた黒い何かが揺れる。
あの時……魔界と呼ばれるあの場所では、全てが蠢いていた。あたりにあったのは肉の壁だった。視界が歪み、壁が呼吸を始める。ひくひくと蠢き、血管が浮き上がり、どくどくと脈打つ。
「う、ぐぅ、は……」
ストラシュの精神を極大の不快感が勢いをつけてぶん殴るように襲いかかる。
蝋燭が作る影がゆらゆらと蠢く。魔界の記憶がドンドンと彼の心のドアを叩く。
違う、これはただの石壁だ。ここは帝都だ。安心できる場所なんだ。しかし、視界が歪み、壁が呼吸を始める。ひくひくと蠢き、血管が浮き上がり、どくどくと脈打つ。耳の奥で、あの声が——魔界の深奥から響く、言葉にならない呼び声が聞こえてくる。
「はっ、はっ、はっ——」
過呼吸が始まった。胸が締め付けられ、空気が肺に入ってこない。
「カァーっ!! カァーっ!!」
そのとき、窓の外でカラスが鳴いた。真夜中に響き渡る鳴き声。不吉な声が、まるで警告のように響く。
「勇者様!」
ルヴィナチワが部屋のドアを開けて駆け込んできた。カラスも窓から飛び込んできて、ストラシュの枕元に留まる。
「勇者様、だいじょうぶ、だいじょうぶですよ……」
魔女は後ろから元勇者を抱きしめ、カラスは静かに見守っていた。
「……ルヴィ……」
魔女の華奢な身体を少しだけ覆う肉の柔らかさを感じていると、カラスの全てを知っているような静かな黒い瞳を見つめていると、不思議と呼吸が整っていく。
「安心してください。ここは帝都です。勇者様はもう安全な場所にたどり着いたんですよ」
魔女の腕の中で、元勇者は小刻みに震えながら、心を整えていった。発作が収まるまで、ルヴィナチワはずっと元勇者を抱きしめていた。その体温だけが、現実との唯一の接点だった。
今後の成功があり得ない、みじめだが穏やかな生活。その中でいくたびもこんな目に遭うのか。今すぐ死んでしまいたい。しかし、今の元勇者には自殺する気力すらなかった。




