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最後の旅(7)ー1

 それから世尊はアーナンダを伴ってヴァイシャリーへ向かい、城外の樹園に(とど)まった。そこは娼女(おそびめ)アンバパーリー(菴婆波利)の所有するマンゴー林であった。

 彼女は自分の園林に仏陀が滞在していると聞き、美しく装い、仲間を連れて華やかな車に乗ってやって来た。

 商都ヴァイシャリーには娼女(ガニカー)が多い。彼女たちは容色優れ、舞踊、歌など音曲を能くし、求愛する人々に言い寄られて一夜に五十金、百金を受けるものもいた。娼婦であっても社会的な地位は高く、富裕で大邸宅に住み、ことにアンバパーリーはマンゴー林で拾われた孤児であったが、その美貌と才能、機知によって評判の娼女(ガニカー)となった。彼女を目当てに諸国の王や王子、富商が来訪し、人々が多く集まれば市が立ち、物が動き、やがてヴァイシャリーの繁栄はアンバパーリーに負うところが大であるとまで言われるほどの存在になっていた。

 世尊は、はるか彼方に女たちの姿を認め、弟子たちに云う。

弟子(おしえご)等よ、自ら念じて、よく気をつけるがよい。暴虎の口に入り、狂人の(やいば)の下に立ち、あるいは(やけ)(がね)の槍で双眸(そうぼう)(えぐ)られるとも欲に惑うてはならぬ。健やかに(おさ)えよ。すでに生まれた悪は断ち、未だ生まれぬ悪は(おこ)らないようにし、すでに生まれた善はそだて、未だ生まれぬ善は(おこ)るようにするがよい。かようにして、よくその心を修めよ。もし初めに止めなければ、(あと)になっては(おさ)(がた)くなる。(ゆえ)にただ心を(おさ)えるがよい。放逸(なおざり)であってはならぬ。されば精進の弓と智慧の(ほこ)とを()り、正念の(よろい)を着て五欲との戦いを(さだ)めるがよい。私は道を求めてからこのかた、(こころ)と争うて量りない時を重ねた。その間、(よこしま)の心に(したが)わず、勤め励んでついに正覚(さとり)を得たのである。

 弟子(おしえご)等よ、その心を(ただ)しくせよ。(おんみ)等の心は久しい間、(けがれ)の中にあった。今や自らその中から抜け出でて、諸々(もろもろ)の(くるしみ)(のが)れねばならぬ。生まれて死ぬる定めのものは外を見ても苦しく、(うち)を見てもみな(くるしみ)に満ちている」

 と、世尊が語り終わったとき、アンバパーリーの車が目の前に止まった。彼女は尊き人を拝んでそこから降り、前に進んで礼を為してから喜びに満ち溢れて傍らに坐った。共にやって来た女たちも、それに(なら)う。

 天女の一群が舞い降りたかのような光景に、師から注意を受けていたにも関わらず、弟子たちの間から、ため息のような微かなどよめきが起こった。

「これほどの美姫は見たことがない……」

「さすがにヴァイシャリーの娼女(ガニカー)、いずれも劣らぬ美貌の持ち主よ。ことにアンバパーリーの名は、父の頃から名高い」

「いや、私は祖父から聞いた」

 新参の弟子たちが(ささや)きあっている。

 確かに、美女の中でひと際輝き、目を引くのは、アンバパーリーである。漆黒の髪は長く背に流れ、毛先が可愛らしく縮れていた。その頭は黄金の髪留めと花で飾られ、良い香りがし、くっきりとした眉、又その下の双眸(そうぼう)は青みがかった黒色で宝石のようにきらめいている。通った鼻筋、形良い唇は紅く、言葉を発すれば、そこから白い歯が(のぞ)く。艶やかな肌に羽根のように軽い衣をまとい、彼女が動くたびに腕輪や足輪などの黄金の装身具が光暈(こううん)を引いて揺らめいている。妖艶な肢体と美貌の中にも、少女のような無邪気さを持ち、アンバパーリーは男たちの心を捕えて離さなかった。

 しかし実はその彼女も、じきに六十に手が届く年齢であった。あらゆる美容術を駆使して十代のころのしなやかな体型と容貌を保ち、娼女(ガニカー)の頂点に君臨していた彼女も、近頃は容色と身体(からだ)の衰えが気になるようになっていた。

(御歳を召されたとはいえ、仏は美男にまします)

 アンバパーリーが瞳を輝かせた。

 マガダのビンビサーラ王との間に出来た子コンダンニャは既に仏弟子となっており、息子からその教えを聴いたアンバパーリーはかねてから仏陀に興味を持っていた。

 世尊が問う。

「何のためにここへ来たのであるか」

 甘やかなよく通る声で、アンバパーリーは答えた。

(わたくし)はたびたび、世尊が神々にも勝りたもうことを聞きました。それゆえ御教(みおし)えを受けて夜に日に自ら努め、何とかして(よこしま)な道に(おちい)りたくないと思うのでございます」

 世尊は頷き、尋ねた。

(そなた)は、女となったことを喜ぶか」

 いきなりの質問に、アンバパーリーは微かに眉根を寄せた。高名な娼女(あそびめ)であることを誇り、女を武器として生涯を過ごして来た彼女の生の本質と、今の彼女の心の揺らぎをそれは突いていた。

「神が、(わたくし)を女としたまでです。(わたくし)は何も喜んではおりません」

 アンバパーリーは応える。

「もし喜ばぬとすれば、誰が(そなた)に、五百の娼女を養わしめたのか」

(わたくし)の……愚かの仕業でございます」

 アンバパーリーは目を伏せた。誇る気持ちなどとうに失せていた。

「善い(かな)、アンバパーリーよ」

 世尊が微笑む。

「行いの(みだ)るるものには、五つの(さわり)がある。名は損なわれ、人々に憎まれ、(おそれ)(うたがい)とを(いだ)くことが多く、死んで地獄に入り、ついで畜生の(すがた)を受けるであろう。皆これ欲のためである。また、行いの清い者には五つの(さいわい)がある。名は称えられ、(かみ)を畏れることなく、身は安く、死んで天界に生まれ、ついで清らかな(さとり)の道に立つであろう。されば自ら(うれ)えて教戒(おしえ)を行え。さすれば(きよ)らかな道を得るであろう」

 と、世尊が種々に法を説く。するとアンバパーリーの心は歓喜に溢れた。

 世尊は云う。

(そなた)の心は既に(きよ)らかである。男が法に進むことはさして難しいことではないが、女が法を楽しむようになることは(なか)(なか)に難しい。まして(とし)(わか)く家も豊かに、容色(みめかたち)のそなわったものとしては尚更(なおさら)である。アンバパーリーよ、(たから)と色とは永劫の宝ではない。ただ道のみ尊いものである。強きは病に(やぶ)られ、(わか)きは老いに(うつ)され、命は死に(くる)しめられ、愛でるものには離れ、(あだ)には隣りあい、求むる所は多く(こころ)(したが)うことはない。しかしただ道のみは、心のままである。これを行えば侵しうるものとてはない」

釈迦牟尼世尊の言葉はアンバパーリーの心を捕え、彼女には深く想うところがあった。

 そしてアンバパーリーは礼を述べ、座を避けて跪き、云った。

「明日の朝、いささかの供養(みつぎ)をささげたいと(おも)います。どうか御弟子(みでし)たちと一緒に(わたくし)の家へおいでを願います」

 世尊が沈黙をもって許したので、彼女は立って挨拶をした後、右遶(うにょう)の礼をして去っていった。


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