最後の旅(3)
一方、霊鷲山ではヴァッサカーラ・バラモンが去った後、世尊はアーナンダに云ってラージャグリハ近辺で修行している弟子たちを講堂に集めさせた。
彼らの師は前に坐って云った。
「弟子等よ、私はいま汝等のために、七つの法を説くであろう。汝等、あきらかに聴いて善くこれを心にかけるがよい。
弟子等よ、しばしば相集まって法を語らえ、されば道は久しく住まるであろう。上下相和らぎ互いに敬い合うて違うことなく、法を崇め戒を畏れ、みだりにこれを易えてはならぬ。長たると幼きと、また先なると後なると、相交わるには礼をもってし、心を護って直きと敬とを旨とし、閑な処にあって行いを清め、人を先にし、己を後にして道に従い、人々を愛しんで来るものには厚く施し、病めるものには懇ろに看護するならば、道は久しく住まるであろう。
弟子等よ、また七つの法があって道を栄えしめる。すなわち清浄を守って事の多きを楽わず、欲無きを守って貪らず、忍辱を守って争わず、静黙を守って戯れず、法を守って憍ることなく、一心を守って余の行に従わず、倹素を守って衣食に約かであるならば、道は末長く住まることであろう。
弟子等よ、一切のいきものに慈を加えよ。人の死んだときにはこれを哀れめ、死にゆく人は途を知らず、嘆き悲しむ人々もまた、その赴く所を知らない。道を得たものだけが、知るのみである。仏はこのために教えを宣べる。教えは学び、道は行わねばならぬ。天下には道は多い、その中においても、王法は大きなものである。しかし仏道はさらに高いものである。
弟子等よ、仏の教法を修めるものは、他が道を得たのを見ても、己のいまだ得ていない事を悲しんではならぬ。たとえば、数多の人々が共に弓を習うのに、前に中るものもあり、後に中るものもあって、そのときは同じではないけれど、射てやまないならば、いつかはしまいに中るようなものであり、また小さな谷を流れる水も、やがては流れ流れて大きな谷に入り、またも流れて大きな河に入り、はては終いにみな海に入るように、修めて止むことがなければ、後には必ず證を得るようになるものである」