最後の旅(2)
この出来事の後も世尊は諸国を遊行し、再びラージャグリハへ還ってしばらく霊鷲山に滞在した。そのとき、マガダ国のアジャータシャトル王はヴァッジ国を討とうと考えていた。王はヴァッジ領内にある宝石鉱山の権利をめぐって何年もヴァッジのリッチャヴィ族と争っていた。
そこで王は大臣のヴァッサカーラ(雨行)を呼んだ。
「ヴァッサカーラよ、世尊はここより程遠からぬ処にいらせられる。急ぎゆき、私のために御教えを請い、よく仰せを憶えて帰るがよい。仏の仰せに、虚妄はない」
ヴァッサカーラはアジャータシャトル王の信頼が最も厚い大臣で、黒い顎鬚を短く刈り、立派な体格をした壮年のバラモンであった。
彼はマガダ王の命を受け、ヴァイシャーカ月のよく晴れた日、華やかに飾った車に乗って多くの者を従え、霊鷲山の山頂へと登っていった。道が細くなり、車が通れない所に至ると降り、徒歩でシャーキャ族の聖者が住する洞窟へ向かってゆく。
やがて、久しぶりにまみえた世尊は八十歳を迎えた人のようには見えず、以前と変わりない清々しい姿で寂かに坐っていた。その後ろでは侍者のアーナンダが立って扇を手にし、師へ風を送っている。
しかし洞窟はあまりにも狭く、大臣ひとりしか入ることが出来なかったため、他の家臣たちは入り口の辺りに控えて中の様子を窺った。
そして、ヴァッサカーラは仏陀を拝して挨拶を交わしたのち、王の言葉を伝えた。
「マガダの王アジャータシャトルは御足を礼して御起居を伺い奉ります。きみ、ゴータマよ」
自分の仕える王が敬う大沙門であっても階級が下の世尊を、丁寧な言葉と恭しい態度で尊敬を示しながら、このように呼びかけることで、彼が強国マガダの王の名代であり、バラモンであることをヴァッサカーラはつき従ってきた者たちとその場にいる人々に知らしめようとした。
「……御身体安らかに、飲み物食い物常の如くにましますか」
「善い哉、ヴァッサカーラよ。汝の王も民も、また共に和らいで物の値平らかであろうか」
「幸いに仏恩に依って皆自ずからに和らぎあい、風も雨も時にかない、国の中、豊かに富み栄えております」
このように礼を尽くしたのち、ヴァッサカーラは本題に入った。
「きみよ、アジャータシャトル王はヴァッジを討とうと考えています。しかし聖意においてはいかがでありましょう。何卒、御教えを垂れてください」
問われて世尊は、背後に立って師を扇いでいたアーナンダを顧み、云った。
「アーナンダよ、汝はヴァッジの民たちがしばしば相集まって政を諮り備えを修めて自ら守っている(一)と聞いたか」
「はい……」
と、答えながら、アーナンダは思った。
(これはなんとも、政治的世俗的な問いであるな。出家は俗世のことに関わってはならない。しかしながら、マガダ国王の問いかけであり、ヴァッジの人々の命が係っておる。答えねばなるまい。だが、大臣に直接向かうことは憚られ、我が師は私に問われたのだろう)
「……さように聞きました」
「さればまた、彼の国の民たちが上下常に和らいで共に国のことを議らい(二)、古よりの風習を尊んでみだりに改めず、礼を重んじ敬いを守り(三)、男と女の間には自ずからに別ちがあり、長たると幼きものとの間によく道があり(四)父母によく仕え師長に素直に(五)、祖先の宗廟を崇めて儀典を廃てず(六)、道を尊び徳を敬うて、もし戒ある人の遠くより来た場合は、衣服飲食坐具薬湯など諸々(もろもろ)の生計の品々をそなえてこれを饗し(七)、これらのことをよく守って少しも怠らぬということを、聞いたか」
「いかにも、そのように承っております」
「それでは、ヴァッジは決して衰えることはないであろう」
アーナンダが答えたのに対し、世尊は深く頷く。そしてヴァッサカーラ・バラモンに向かって云った。
「かつてヴァイシャリーのチャーパーラの祠に在ったとき、私はヴァッジの人々へ衰亡を来たさないための法を説いたことがある。もし国を持つものが皆この七つの法を守ったならば、たとえ天が下の兵を挙げて攻め寄せるとしても、滅ぼすことは出来ぬであろう」
そう教えられてマガダの大臣は応えた。
「ヴァッジの人たちがこの道の一つを行っても栄えるというのに、まして七つを具えていては尚更です。我が君は戦によってヴァッジの国を滅ぼすことは出来ないでしょう」
と、彼は世尊を拝んで去り、都へ戻るとアジャータシャトル王へこれを伝えた。
「世尊は、そのように申されたか……」
マガダ王は玉座に坐り、考え込んだ。
(確かに今のヴァッジの民たちは和して争わず、つけ入る隙がない。だが、翻っていえば、彼らが七つの法を守らず反目しあうときこそ、我等の好機ということか)
「……仕方がない。ヴァッサカーラよ、その時ではないようだ。此度は世尊の聖意に従って師を起こすのはやめにしよう」
アジャータシャトル王は大臣に云った。
しかし頷きながら、そのとき主君と目があったヴァッサカーラはすぐにその意を汲み取り、不敵な笑みを浮かべた。