最後の旅(12)
ボーガの市に心ゆくまで滞在した世尊は、次にパーヴァーへと向かった。そこからはマッラ族の国、故郷のカピラヴァストウへはあと数日の距離であった。
パーヴァーでは鍛冶工の子であるチュンダ(准陀)のマンゴー林にとどまった。
チュンダは自分の所有する園林に仏陀がいると聞き、衣を整え、喜んでやってきた。
彼はシュードラであったが、上等なカーシー産の衣を身につけていた。けれども、労働する人らしく肩の筋肉が盛り上がっており、大きな手を持ち、浅黒い肌で素朴な容貌をした若者であった。
チュンダは世尊を拝してから一方に坐し、法話を聴いた。そして、
「尊い方よ、明朝、御弟子達と共に私の家で食事をなさって下さい」
と、云った。
その申し出を世尊が沈黙によって了承したので、彼は右遶の礼をしたのち、直ちに辞し終夜、心を尽くして食を整えた。
翌朝になるとチュンダが時を告げたので、世尊は内衣を整え、衣と鉢を携えて、弟子達を伴い、チュンダの家へと入った。
金銀銅鉄などの金属を細工する職人である彼は、賤しい職業にたずさわる者として世間の人々から軽蔑されていた。しかし交易が盛んになってくると、彼のような職人の腕が必要とされた。そのためチュンダは富裕であった。
供養のために出された食事も豪華なもので、美味な噛む食べ物、柔らかい食べ物、また高価で珍味な栴檀樹に生えたきのこの料理などがきらびやかな銅の皿に数多く盛ってあった。
やがて設けられた座についた世尊は、きのこ料理を自分のために取り分けてほしいとチュンダに云った。
彼は師の言葉通りに給仕し、他の食物を弟子達に捧げた。そしてこの供養が終わった後、世尊は『残ったきのこ料理を穴に埋めなさい』と告げた。
(妙なことだ。世尊は今日にかぎって、何故このようなことを仰せられるのだろう)
傍らにいたアーナンダは不思議に思ったが、話が始まったので、すぐにその疑問を忘れてしまった。
ちょうどそのときチュンダが小さな机を取り、前に出て世尊に尋ね始めたのだった。
「世尊、世にどれほどの出家がいるのでありましょうか」
若いチュンダは家業を継いだばかりであった。家族を護ってゆく身となって、どのようにこの世間を渡ってゆこうか迷うことが多かった。そのため彼はこの高名な大沙門に、人としての生き方を聞きたいと思っていた。他から卑しめられる階層の生まれであったが、祖父、父、そして自分と勤勉に働き、その技によって世間の人々がうらやむほど豊かになった。他人の嫉妬と羨望を受ける身は、思わぬところで罪咎を作る。仏の教えは商うことを否定せず、ものをつくる徳が賞賛され、人を生まれで差別することがなかった。そのためチュンダは、仏陀こそは自分の疑問に答えてくれると考えていた。
「……善く道を行うて憂と畏との海を渡り、高く人間と天界との道を超えて涅槃に至る者が、是その一つである」
世尊が応える。
「善く第一の義を説いて汚すことなく、慈あって明らかに諸々(もろもろ)の疑を決めるものが、これその二つである。はるかに無垢の地を望んで他を顧みず、勤めて倦むことなく、法をうけて自ら養うものはこれその三つである。外浄らかであっても内濁り、誠なくして穢れを行うものは、これその四つである。
チュンダよ、一人をもって多くの人を責めてはならぬ。世に善いことと悪いこととがあり、浄いものと穢れたものとが雑わっているから、一つと見なしてはならぬ。それゆえ形によってにわかに相親しんではならぬ。形の好いのは好いのではない。意の浄い者こそ好いのである」
チュンダは、仏の言葉を自らの心に刻み込むように、じっと聴いていた。そしてまた、問う。
「かつて世尊は、有っているものを一切に施すのは讃むべきことであると仰せになりましたが。この義はどういうことでありますか」
「ただ一つだけを除くがよい」
「それは何でありましょう」
「戒を破る人である」
世尊は応えた。
「戒を破る人というには善根を断ち切った人のことである」
「それは如何ような人でありますか」
「……あららかな語をだして正法を謗り、永くそれを改めないで慙ずる事のない者である。四つの重い禁戒を犯し五つの逆罪を造って、心に怖畏も慙愧もなく、永久に正法を護る心もなく、却ってこれを軽んじ賤しめ、謗り毀って語に過咎の多いのは、これまた善根を断つものである。また、もし仏も法も僧伽もないということを説くものがあるならば、これもまた善根を断つものである。これを除いたほかに施すものは、すべて称えねばならぬものである」
「このような戒を破る人でもなお救われるでしょうか」
チュンダはさらに訊いた。それに対して、世尊は丁寧に答える。
「因縁さえ具われば救われよう。もし悔い、愧じ、恐れて法に還り、自ら『どうしてこの重い罪を犯したのであろうか、正法の他には私を救うものがない、正法に立ってきっとこれを護らねばならぬ』と、己を責めるようになれば、五つの逆罪とはいわない。もしこの人に施せば、その福に限りがない。
チュンダよ、一人の女があって身重になり、産みどきに近づいて、たまたま国が乱れたので他国に逃れゆき、とある廟に留まってその子を産んだ。既に故郷が鎮まったことを聞き、その児を抱えて帰途についたが、道半ばにして河の水があふれていたので児を負うて渡ることが出来ない。よって念うには、『いっそ、この児と一緒に死のう、児を捨てて独り渡ることは出来ぬから』と、心を決めて、ついに一緒に溺れた。この女の性は悪かったけれども、子を愛しんだことによって、死んでから天界に生まれた。
チュンダよ、正法を護る心もまたこの通りであって、前に善からぬ業があったとしても、正法を護ることによって、彼は世の中のこの上ない福田となるのである。
チュンダよ、道を信するものは他を羨んではならぬ。他の語に迷うてはならぬ。また、他のものが作すか作さぬかを見ていてはならぬ。ただ自分の善と悪とに気をつけることが要である。さすれば道を得ることが早いであろう。汝は汝自ら心を修めて、いかようなことにも、放逸にならしめてはならぬ」
このシャーキャ族の聖者の言葉はチュンダの心に染み入り、彼は喜びに満ち溢れた。




