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張り込み


 あくる日の金曜日の放課後――


 すでに太陽は西の山の稜線に完全に隠れ、アスファルトの芯まで闇色が染み込んでいた。


 盛り場などでは、これから多くの人が集まり活気に満ちていく時間帯だが、生憎ここ場所はただの住宅街。外を歩く人はほとんどいなくなり、静寂のみが場を支配しているのであった。


「うー、寒い。くそ、つい最近まであんなに暑かったのになぁ……。こんなに寒くなるんだったら、ジャンパーを持ってきたら、よかったぜ」


 そんなひと気ない住宅街の片隅で、渚は自らの腕を抱いて寒さに耐えているのであった。


「あー、寒いと余計に腹が減るぜ」


 ひと気がないと言っても、それはあくまで建物の外の話。


 おのおの家の中ではすでに照明が灯され、煮炊きの匂いが屋外まで漏れ出しているのであった。


 そんな状況で、ひとり寒空の下、路上で佇んでいると、いったい自分はなぜこんなことをしているのだろうか、という疑問に苛まれてくる。


 しかし、これもすべて柚季のためだった。


 最初は、ただふたりを手助けするために、文化祭実行委員の仕事を手伝っていた渚。

しかし、柚季と親しくなり、料理の楽しさに目覚めていくうちに何としても成功させてやりたいという思いが日増しに強くなっていたのだった。だから、渚は清修の代わりに犯人を捕まえるために、柚季の家の前で刑事さながらの張り込みを続けているのだ。柚季の家の前で何か怪しい動きをする影が目に入ったら、渚はすぐに物影から飛び出すつもりだ。たしかに、渚はか弱い女の子だが、問題ない。その時のためにスタンガンと催涙スプレーを持ってきたのだ。


 すでに明日に迫った文化祭。          


 校内には不特定多数の人間が出入りする。せめて、柚季にはこのイベントを気兼ねなく楽しんでもらいたい。だから、できるなら、今日中に犯人に捕まえるのが理想だ。


 それにもかかわらず……


〝清修の野郎め……〟


 その名を心の中で反芻し、渚は露骨な舌打ちをくりかえす。


 まさか、1日3食の食事の世話だけではなく、食後の歯みがきまでさせているくせに

柚季よりもバイトのほうを優先するなんて。


 たしかに、今この場に清修がいたとしても犯人を確保できるとは限らない。むしろ、この数日間の清修の張り込みが空振りに終わっている結果から鑑みると、まったく意味がない行動かもしれない。


 しかし、それでも、柚季は清修が外で見守ってくれているという事実だけで、枕を高くして眠る事ができるのだ。


 渚は柚季の家に視線を移し、彼女の寝室が存在する二階の窓を見あげる。


 きっと、学校では気丈にふるまっていたが、きっと今は不安と心細さで押し潰されそうになっているに違いない。


〝あたしがストーカー野郎を捕まえてやるからな〟


 コブシを強く握りしめる渚。


 しかし、その時だ。

 何の予告も前兆もなく、渚の背後から男性のものと思われる腕が伸びてきて、目の前に掌が現れる。


〝えっ……?〟


 その奇襲に渚は驚く。それほどまでに背後から迫ってきた黒い影は気配を感じさせなかったのだ。


 そして、その掌はまったく無駄がない最小限の動きで渚の口をふさいでしまうのであった。


「~~! ~~!」


 気がつけば、腕も抑えられていて、渚はあっというまに声も出すことも身動きを取る事もできない状態に追い込まれる。


 最悪の未来さえも想像してしまい、渚の背筋に冷たい汗が落ちる。


 そして、渚の背後に存在する黒い影は低い声でつぶやく。


「静かにしろ」


 しかし、渚はその声に聞き覚えがあった。


〝清修?〟


 そう、渚を後ろから抑えつけていたのは、バイトに行っているはずの清修だったのだ。


 不審者だと思っていた人物が一転、気心の知れた友人だと分かり、渚は抵抗をやめる。


 しかし、清修はため息をつくような呆れた口調で問いかける。


「武藤。オマエ、こんなところで何してるんだ?」


 口元を覆われていた清修の掌が取り除かれたことにより、ようやく声を出すことができる渚。


「何をしてるって……そんなの決まってるだろ! オマエの代わりにストーカー捕まるために見張ってるんだよ!」


「このバカ……」


 そして、清修は今度こそため息のような声ではなく、正真正銘のため息をつくのであった。


「オマエなぁ……。もうちょっと後先のことを考えて行動しろよ。オマエだって一応は女なんだから、何かあったらどうするつもりなんだ?」


「ああ? オマエがいねえんだから、こうするしかねえだろ! ――っていうか、なんで清修がここにいるんだよ。バイトだったんじゃねえのか?」


「俺が柚季よりもバイトを優先するわけないだろ」


 さも当然のように答える清修。


「それだったら、なんでわざわざウソをついてまで、こんなことをしてんだよ? オマエのせいで柚季がどれだけ不安になってるのか、分かってんのか?」


 すると、清修は途端に苦虫を噛みつぶしたような表情になる。


「とにかく、ストーカーの見張りは俺が引き続きやるから、武藤は早く帰れ!」


「ああ? そんな説明で帰れるわけないだろ! それに、ストーカー野郎にはあたしだってムカつてるんだ。警察に突き出す前に一発ぶん殴ってやりてぇんだ!」


「オマエって奴は……」


 清修は舌打ちをして、頭を掻きむしるのだった。


「勝手にしろ。その代わり何かあっても俺は面倒みないからな! あと、デカい声、出すんじゃねえ。オマエ、普通に話してるつもりでも声がデケぇからな」


 そんな憎まれ口を叩く清修だったが、渚には確信があった。


 きっと、清修が柚季に心苦しいウソをついてまで、こんな事をするのには何か明白な理由があるはずだ。


 それを見定めるまでひとりで帰るわけにはいかなかった。


 「言っとくが武藤、ストーカーがいつまた柚季に嫌がらせするなんて分からないから、今日、都合よく捕まられるなんて考えるなよ」


 そして、渚は引き続き清修と共に見張りを続けるのだった。


〝ううぅ、やっぱり寒みぃ……〟


 清修がいた驚きと口論による興奮が冷めると、先程までは忘れていた寒さが途端に身に染み出す。


「ほらよ。これでも着とけよ」


 すると、清修は着ていたジャンパーを渚に手渡す。


「清修は寒くないのか?」


「寒いよ。だけど、このくらいで風邪をひくようなヤワな鍛え方はしてねえんだよ。いいから、着とけよ」


「ああ、サンキュー」


 清修が渡してくれたジャンパーに袖を通すと、ようやく渚の身体の震えは収まるのだった。


「だから、言っただろ。いいか。今日のうちにカタがつくなんて思うなよ。こういう張り込みは何週間も続けても空振りに終わる可能性のほうが高いんだからな」


 そして、清修は悪態をつくのであった。



 今日、都合よく捕まえられるなと思うなよ――

 何週間も続けても空振りに終わる可能性のほうが高い――



 

 先程から清修は、この張り込みが長期戦になることを示唆するセリフを立て続けに述べている。


〝もしかして、こいつ、今日じゅうに犯人を捕まえられる算段がついてるんじゃないのか?〟


 渚だって、すぐに犯人を捕まえられるとは思っていなかった。


 しかし、今の清修はそんな当たり前の事をわざわざ強調している。そして、高校を入学してから付き合いだが、普段はあまり自らの考えは多く語らない清修が饒舌になるのは、自らの真意を悟られないためにあえて逆の事を言っているパターンが多いのだ(もちろん、単純に渚を早く帰したいという思いもあるだろうが)。


 そんな事をぼんやりと考えていた渚だったが、それでも清修が来ていたからといっても、そうそう都合よく犯人が現れるわけがない。


 張り込みを続ける清修の横顔をみつめる渚。


 その表情は、今まで学校や柚季の家で見てきた悪友のものとはまったく違っていた。


 まるで、これから果し合いをする侍のように真剣で、だけど、その顔には気負いや動揺といった心の乱れを感じさせない。


 その瞳を覗いていると、まるで渚は底の見えない海を眺めているような気分になる。


「清修、オマエってこういう事をやりなれてるのか?」


 渚の問いに清修は「まぁな」と低い声で答える。


「バイトで尾行とか張り込みはやり慣れてるんだよ」


「いや、どんなバイトで尾行や張り込みなんかするんだよ」


「最近、よくやってるのは探偵事務所の手伝いだな。浮気の証拠集めや婚約相手の素行調査。外回りの営業社員の勤務ぶりを調べてほしいって言ってきた社長もいたな。俺はそういうのが得意だし、普通のバイトより金になるからよくやってるんだよ」


 普通ではない清修のバイト歴に渚は驚く。まず、普通の高校生は尾行が得意ということはない。


「それって、やっぱりオマエの生い立ちが関係があるのか?」


「あん? どういうことだよ?」


「オマエって、ガキの頃から忍者としの修行をさせられてたんだろ?」


 核心をついた渚のひとことに、一瞬だけ清修は驚いたような表情をみせる。


「そうだよ」


 しかし、すぐに何もなかったように元の表情に戻すのだった。


 そして、これ以上は隠していても無駄だと思ったのだろう。清修は自らの過去を語りだす。


「俺が今やってるバイトの探偵事務所もジイさんの古い知り合いらしいからな」


「オマエのジイさんっていったい何者なんだ?」


「さあ、知らね。ジイさんは過去の事は語りたがらないし、身内もそのジイさん以外いないからな。もしかして、本当の俺の肉親じゃなくて、素質がありそうなガキをどっかから攫ってきただけなのかもしれないしな」


「そうか」


 それ以上は深く立ち入ることができなくなった渚は沈黙に身をゆだねる。


 びゅっとカミソリのように鋭く、冷たい風が吹きすさぶのであった。


 あいかわらず、柚季の家から少し離れた物影で張り込みを続ける渚と清修。そして、1時間、2時間と時間だけが過ぎていく。


 だが、日付も変わり、周辺の民家の窓から漏れだす灯りがだいぶ減っていった時刻だった。


 怪しい人影が、徒歩で柚季の家の前に姿を現すのであった。


 その影は、キョロキョロと周辺を見渡した後に柚季の家の玄関の前に何かを置く。そして、懐から何かを取り出すと(おそらくペットボトルだろうか)、その中身の液体をぶちまけるのであった。


 完全にビンゴである。


 しかし、そんな事は渚よりも清修だって分かっているのだろう。


 すでに、隣に清修はいなかった。


 気配を断ち、完全に闇の中に溶け込んでいる清修。


 そして、次の瞬間には目にも止まらぬ速さで犯人を捕縛しているのだった。


「騒ぐな」


 犯人の肩とヒジの関節を極めている清修が冷徹な声で指示する。

「俺があと少しでも力を込めたら、オマエの右腕がおしゃかになるのは分かるな? これからもクソした後のケツを自分(テメェ)で拭きたかったら、おとなしく俺に従え」


 すると、犯人は観念したのか抵抗をやめる。そして、顔を伏せて黙り込むのだった。


「よし、それじゃあ、歩け」


 清修は犯人の関節を極めたまま歩き出す。


 なぜ、この場ですぐに警察に通報しないのか疑問に思う渚。


 しかし、そんな渚の思惑をよそに清修は共に柚季の家から離れ、月極めの駐車場に犯人を連れ出すのであった。


「警察に突き出す前に答えてもらおうか。なぜ、オマエは柚季にこんな嫌がらせをした?」


 そして、月極めの駐車場の照明は路地の街灯よりも明るい。渚はこの時、初めて犯人の顔を確認する。


 偏見と言われればそれまでだが、なんとなく渚はストーカーをするような人間は、自らの容姿に自信がない清潔感皆無の男をイメージしていた。


 しかし、このストーカー男の身なりは整えられており、大人の男が醸し出す色気と逞しさを兼ね揃えていた。


 ハッキリ言って非モテどころか、これはそうとう女子受けがよい部類に入るだろう。


「柚季はな。オマエの事を信頼してたんだぜ」


 その清修の言葉に渚は疑問を抱く。清修はこのストーカー男と知り合いなのだろうか。しかし、この男はさすがにどうみても高校生には見えないし、渚も見覚えがないため、教師を始めとする学校関係者ではないはずだ。


「清修、こいつはオマエの知り合いなのか?」


 渚の問いに清修は静かにかぶりをふる。


「いいや、俺も1回しかあった事がないし、会話もしたことがねぇ」


「じゃあ、こいつはいったい誰なんだよ?」


「こいつはな、岩田っていう柚季のいきつけの美容院の美容師だよ」


「美容師?」


「ああ、基本的に俺以外の男ことを信用していない柚季だが、こいつだけは別で、子供の頃から世話になっていたらしい」


 その清修の説明で渚は思い出す。


 アクアパッツァを一緒に作っていた時に、柚季は語っていた。


 昔は男の子と間違われるような外見で、クラスの男子たちからいじめられていたが、親身になってくれる美容師のアドバイスに従い、髪を伸ばしてメイクを覚えるようになり、今でも困った事があると、相談に乗ってもらうとか


 そして、誕生日プレゼントには高価なブランド物のバッグをもらったという事実も聞かされた。


 なぜ、そこまで柚季のことを大事に思っている人間が、こんな不埒な悪行を働いたのか渚は理解できなかった。


 しかし、冷徹な目で岩田を見下ろす清修の表情には、渚ほどの驚きはない。まるで、すべては想定の範囲内というような顔だ。


「なあ、清修、もしかして、オマエは初めからストーカーがこいつだって事を分かってたのか?」


 声を上擦らせながら発する渚の問いに、清修は静かにうなずくのであった。


「最初に柚季の家に届いた脅迫状はできるだけ送り主の痕跡を消そうとしていた。だけど、ほんのわずかに香水の匂いがしたんだ。それで、もしかしたらと思った。こいつの香水の匂いはけっこう強烈で印象に残っていたからな」


「オマエ、便箋についてた香水の匂いなんか分かるのか?」


「ああ、俺は鼻が利くからな。本気になれば、トリュフを捜すブタとだって張り合えるぜ」


 学校のたわいない日常時に聞いたならば、面白くない冗談だと一笑に付していただろうが、現に清修はほとんど手がかりすらない状況から犯人を導き出し、こうやって捕縛しているのだから信じずにはいられなかった。


「それに、ここ数日の俺の行動がなぜか犯人には筒抜けだったからな。しかも、柚季にしか教えてない情報がだ。そうなると、犯人は自然と絞られてくる」


 それで、なぜ清修が渚の反感を買い、柚季を不安にさせてまでウソをついたのか、理解できるのだった。


 すべては、この犯人……岩田をおびき寄せるための撒き餌。


 柚季から信頼されている事をいいことに、警護に当たっている清修の情報を聞き出し、出し抜いたと思っている犯人を掌の上で転がしていたのだ。


「俺は九分九厘、あんたが犯人だと思っていたよ」


 低く、静かな声音で犯人に語りかける清修。


「だけどよ、じつは心の片隅ではあんたが犯人でいてくれるな。俺の推理が間違っていてくれって思っていたのは事実なんだぜ。

 柚季はな、本当に男が苦手なんだ。そりゃ、そうだよな。小さい頃は『おとこおんな』なんてからかわれていたなに、思春期になって綺麗になった途端に見る目が変わって、イヤらしい下心に満ちた目で見られていれば、そうなるよな。だけど、尊敬している父親、恋人である俺、それにあんただけは別だった。柚季は今の自分があるのは、あんたのおかげだって感謝してたんだぜ。父親のように信頼してるとも言ってたぜ。その信頼を裏切りやがってよぉ……」


清修の瞳が憤怒によって静かに燃える。


「父親みたいだとぉ……!」


 しかし、岩田は怯まない。それどころか、詰られているはずの立場なのに、その表情は清修よりも濃い憤怒に支配されているのだった。


「ふざけるな! 俺があの女を育てるために、どれだけ金と時間をかけたか分かってんのか?」


 そして、岩田は今まで自らの中に秘めていた激情……いや、心の闇をさらけだす。


 若い頃からそのルックスと女性に不自由しなかった岩田。


 だが、美容師として数多くの女性と接してきても、彼の理想とする容貌の女性は存在しなかった。


 しかし、そんな時に出会ったのが、幼き日の柚季だった。


 まだ未成熟ながらも、その目鼻立ちに将来の美貌を感じ取った岩田は、この宝石を磨き上げることに執心したのだという。


 それまで美容やファッションに無頓着だった柚季にアドバイスを送り、自分好みの容貌にするのはもちろん、誕生日やクリスマスになると高価なプレゼントを送り、時には

日常生活のささいな相談も親身になってアドバイスしていたという。


 それは、あきらかに客と美容師という垣根を超えた親密さだった。そして、性質の悪いナンパ男や痴漢に遭遇した時などは、ここぞとばかりに若い男の性に関する男の醜悪さを強調するエピソードを披露していたのだという。


 その甲斐があって、柚季は同級生にはまったく心を開かずに、色恋沙汰に浮かれず恋人をつくることもなかった。


 18歳という合法的に手を出しても問題ない年齢に柚季が成長するまで我慢して、あとは『収穫』を待つだけ……。


 しかし、そう思っていた矢先に現れたのは清修だった。


 あっさり清修は柚季と恋人同士となり、挙句にのろけ話を岩田に嬉々として語る始末だというのだ。


「くそったれ! まだションベン臭いガキだった時から、俺がどれだけ待っていた思ってんだ!」


 岩田は、唾を飛ばし、そう口汚く罵りの言葉を吐き捨てるのだった。


 たしかに、岩田の立場から見たらトンビに油揚げをさらわれた気分なのだろう。


 大事に大事に手塩にかけた少女がぽっと出の男に奪われる。そして、その愛情が反転して、憎悪に変化したのも理解できなくもない。


 しかし、だからといって、これまでの数々の犯罪行為は看過できないし、やはり、女子高生である渚の立場からみたら、20以上も年齢の離れた幼女を自分好みの恋人に仕立て上げようという考えは、柚季自身の人格を認めずまるで人形をオーダーメイドするようなグロテスクな愛情に見え、やはり嫌悪感を禁じ得ないのであった。


「もういい、清修。こいつの戯言なんて聞くだけ無駄だ! さっさと警察に突き出そうぜ!」


 我慢ができなくなった渚は声を荒げて、清修にそう提言するのだった。


 しかし、清修は応じない。そして、口元に憫笑を刻み、岩田に語りかける。


「そうか。あんたが柚季を育ててくれた女……柚季はいい女だよな。なんせ、朝昼晩と俺のメシをつくってくれるし、休みの日になると俺のパンツも洗ってくれる。

しかも、俺にベタ惚れだから、好きな事を何でもやらせてくれる。この前の日曜日なんか休みなのをいいことに朝から晩まであの身体を堪能してやったぜ。最後のほうなんかゴムがなくなったから生でやらせてくれって頼んだからあっさりOK。しこたま中で出した後に汚れたシーツをあいつにさせたんだ。最高だぜ」 


 くくく、とまるで時代劇に出てくる悪代官のような意地の悪い笑みを浮かべる清修。


 しかし、渚は「こいつは、何を言ってるだ?」と思った。


 たしかに、清修は朝昼晩と柚季にメシをつくってもらっているし、パンツどころか歯まで磨いてもらっている始末だ。


 しかし、後半部分はまったくのデタラメだ。


 渚は柚季と何でも話し合える関係だから、未だに柚季と清修がキスもしていないプラトニックな関係なのを知っている。


 しかし、自らが手に入れるはずだった柚季の肉体(からだ)がすでにどこの馬の骨とも分からない清修によってマーキング済みだったという話を信じ込んでいるようだ。


 端正な顔を憎悪で歪め、今にも清修に殴りかからんばかりの顔で歯を食いしばっているのだった。


「清修……いるの?」


 だが、そのとき、清修と渚の背後から弱々しいものの、鈴の音のようによく通る声が聞こえてくるのだった。


「ゆ、柚季?」


 それは、柚季だった。


 しかも、その服装はパジャマの上からコートを羽織っただけのもの。つい先程まで寝室にいたのは明白だった。


「なんで柚季がここにいるんだよ。あぶねぇじゃねえか」


 動揺で声をかすれさせる渚は、そう問いかけながら柚季の肩を両手でゆさぶる。


「だって、清修がいるような気がしたんだもん」


 そう……柚季は明確な推理や論理的根拠があってこの場に駆けつけたわけではない。 清修の事になると、異常なまでに第六感が鋭くなる。ただ、それだけなのだ。それを渚は完全に渚は失念していた。


「わたし、本当はひとりで部屋にいて、ずっと不安だったの。清修に会いたくて仕方がなかった。そしてら、清修がいるような気がして、実際に外でかすかに清修の声がしたような気がしたから、たまらなくなって外に出てみたの。渚こそ、どうしてここにいるの?」


「いや、あたしは、その……」


 とつぜん柚季が現れるという思いがけない展開に、渚はしどろもどろになる。


 しかし、それは岩田を取り押さえていた清修も同じのようだ。


 表情こそは変えていないものの、その瞳には激しい動揺が走り、額には脂汗が滲むのだった。

 そして、それまで高校生とは思えないほど一部の隙すらなかった清修の動揺を岩田は見逃さなかった。


 清修の腕を振り払い、拘束から逃れる岩田。


〝逃げられる……!〟


 今までの苦労が水の泡になると思い、渚は歯噛みする。


 しかし、よくよく考えれば、この時点で犯行現場と自白は抑えていたのだから、逃げられていても全く問題なかったのだ。


 むしろ、この時おとなしく逃げていてくれれば、どんなによかっただろうと渚は後悔することになるのだから。


 そこから、見た映像は時間にすれば、ほんの10数秒ほどの出来事なのだが、渚の目にはまるでスローモーションのように映るのだった。


 まず、拘束から自由になった岩田は、その端正な顔を歪めて清修を睨みつける。


 そして、ズボンのポケットからバタフライナイフを取り出すのだった。

「い、岩田さん? なんでいるの??」


 この時点で、柚季は岩田の存在に初めて気づき、呆然とした声をあげる。


 しかし、岩田はそんな柚季に頓着することなく、血走った目で清修のみを見据えて奇声をあげる。


 その瞳、表情に宿っているのはまぎれもない殺意。


 その後に起こる展開を誰もが予測できながら、誰もが阻止する事はできなかった。


 岩田が右手に持っていたバタフライナイフが闇夜の街灯の中でゆらめき、次の瞬間、ずぶり、と衣服を突き抜け、清修の腹の肉にめりこんでいく嫌な音がするのだった。


 人を刺したにもかかわらず、岩田の表情は落ち着きに満ちている。心なしか、達成感にも似た笑みを口元にも刻んでいるようにも見える。


 いっぽう、刺されたほうの清修の瞳が険しい光に支配される。顔には血の気がなく、頬には痙攣が走っている。まるで、こっちのほうが人殺しのような恐ろしい顔をしているのであった。


 だが、清修は刺された箇所には目もくれずにコブシを固め、次の瞬間には岩田を渾身の一発を放つ。


 そして、紙人形のように吹き飛び、あっさりアスファルトの上で意識を失うのだった。


 鼻骨は90度に近い形でねじ曲がり、抜け落ちた前歯が路上に転がる。歯が抜けた歯茎、鼻腔、歯が刺さった唇。もうどこから流れているのか分からないほど岩田の顔面の下半分は鮮血に満ちている。もはや、そこにはつい数秒前まで存在していた端正な面立ちは存在しない。まるでぐちゃぐちゃに潰れたストロベリーパイのようだと渚は思った。


 しかし、それでも清修は岩田を殴るのをやめない。


 倒れている岩田にさらに馬乗りになって、その両手が真っ赤になっても、なお殴り続けるのだった。


「もうやめろ! そんな奴を殴るよりも、治療のほうが先だ」


 清修の腹部にはいまだに磐田が刺したバタフライナイフが刺さり続けている。


「大丈夫だよ。こんなもん、かすり傷だ」


 平然とそう言い放つ清修。


 しかし、清修のシャツには、バケツとまでは言わないまでも、すでにコップをひっくりかえしたくらいの量の鮮血に染まっているのだった。


「オマエ、これ……」


 最悪の展開が脳裏をよぎり、渚の声はかすれる。


「い……や……」


 絶望に凍り付いた柚季の瞳。薄く開いた唇から小さな声が漏れる。


「いやあぁぁッ!!」


 そして、今まで聞いたことがないほど大きな声で、柚季は悲鳴をあげるのであった。



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