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水族館へ⑤


 それから、柚季はどれくらい泣き続けていただろうか。


 泣き始めた時にはかなり高い位置にあった太陽。さすがにまだ日没にはだいぶ余裕があるものの、それでも、かなり西に傾き、陽光はハチミツのようなねっとりとした色彩になっているのだった。


「落ち着いたか?」


 柚季が泣き続けているあいだ、清修は黙って彼女の手を握り、砂浜で座りながら肩を抱き続けていた。


 そして、徐々に落ち着きを取り戻し始めた時に、ようやく声をかけるのだった。


 清修の問いかけに、無言でうなずく柚季。


「ねえ……」


 そして、清修の胸に顔を埋もれさせた体勢のまま、今度は逆に清修に問いかける。


「清修は、わたしが『ユウ』だって、いつ頃から気づいていたの?」


「あー、初めて『そうじゃないか』と思ったのは、一緒に洋食屋に行った時。そっからハンバーグや作ってくれた時に確信した」


「そうなんだ……」


「オマエは、いつ俺のことに気づいてたんだ?」


 今度は逆に清修が柚季に問いかける。


「わたしは入学して同じクラスになった時に、すぐに気づいたよ」


 普段の彼女からは想像できないくらい幼い、まるで子供が自慢する時のような微笑みを柚季はみせる。


「身長が高くなって、声変わりしても、むかし一緒になって遊んでいた清修だって一発で分かった。でも、清修のほうはぜんぜん気づいてくれなかった……。だから、クラスの男子たちが休んでいる清修に文化祭の実行委員を押しつけてるのをみて、わたしも立候補したの」


 頬をふくらませ、非難するような目つきで見あげてくる柚季。


「しょーがねーだろ。俺、ずっとオマエのこと男だと思ってたんだから」


「うん。そうだよね。子供の時もわたしは何度か女だって伝えてるのに、ぜんぜん信じてくれなかったもん」


「あれ? そうだっけ?」


「うん。そうだよ。まあ、信じてくれなかったっていうよりも、たいして興味がなかったっていうほうが正確かな。だって、あの時の清修、わたしの事よりもわたしがつくった食べ物のほうに夢中だったんだもん」


「あー、すまん」


 気まずそうに人差し指で頬をかく清修。


「ううん。いいの」


 しかし、柚季は嬉しそうに首を横に振るのだった。

「わたしは清修がおいしそうにわたしが作ったごはんを食べてる姿をみるのがいちばん嬉しかったから」


 そして、柚季は今までの寂しさを埋めるかのように、8年前の思い出を語りだす。


 夏の暑い日にはふたりで一緒にかき氷をつくったこと。


 酢豚をつくったら、清修は肉ばかり食べて柚季を困らせたこと。


 オニヤンマを捕まえようとしたら、清修が斜面を何メートルも滑落して柚季を心配させたが、何事もなく無傷だったこと。


 それらを語る柚季の表情は、まるで目に映るすべてを慈しむかのように目を細めているのだった。


「ねえ、覚えてる? 試食会の初日にパンケーキをつくったけど、あれって、わたしが初めて清修に作ってあげた料理なんだよ?」


「ああ、覚えてるよ。あれを初めて食べた時は、この世にこんな旨いもんがあるのかと心の底から驚いた」


「そしたら、清修ってば、メープルシロップがなくなっちゃうまで食べちゃうんだもん」


「それでも、まだ食べたいって俺が駄々こねたら、家の冷蔵庫からジャムを取り出してきてくれたんだよな?」


「そこまで覚えてたんだ……」


「忘れるわけないだろ」


 驚く柚季に対して清修はさも当然と言わんばかりにそう答えるのだった。


 しかし、次の瞬間、柚季は不満げに頬をふくらませる。


「そこまで覚えてくれてるのに、なんで半年もわたしのこと気づいてくれなかったの?」


「うっ……仕方ないだろ。さすがに8年も前の事だし、なにより……オマエ、クラスの男子にモテまくるくらい、すっげー綺麗になってたから分かるわけねーじゃん」


 言い訳以外の何物でもない清修のひとこと。


 しかし、それでも、柚季は嬉しさのあまり瞳を星の光のように輝かす。


「わたし、そんなに綺麗になってた?」


「ああ、未だにあの『ユウ』がこんな美少女に成長してるなんて信じられないくらいだよ」


「へへへ。そっか。わたし、綺麗になってたんだ」


 今までの人生で何度も「綺麗」だとか「美少女」なんて言葉で褒められてきただろうに、柚季はまるで生まれて初めて言われたかのように笑み崩れるのであった。


「えへへへ❤」


 ご機嫌な笑顔で、柚季は何度も清修の胸板に頬を寄せる。


 しかし、何かに気づいたように、その笑顔がとつぜん曇りだすのであった。


「ごめんね……」


 鼻でもかんでいれば聞き逃してしまいそうな声で柚季は呟く。


「わたし事を『ユウ』だって事に気づいていても、清修が声をかけられなかったのって、『あのとき』のせいだよね」


 柚季の言う『あのとき』とは、ふたりの別れ。柚季が清修に「大嫌い」と宣言した時のことだというくらい即座に理解できた。


「わたしね、あの時はクラスの男子たちにけっこうイジめられてたの」


 そして、柚季はその過去を語り始める。


「父さんはあの店を開く前は銀座の高級店で働いてて、わたしも東京で育ったから、クラスであきらかに浮いてたの。それでなくても、当時のわたしは男みたいな見た目してたでしょ? クラスの男子から『おとこおんな』ってよくからかわれての。だから、学校なんかよりもそんな事も気にせずわたしと対等に遊んでくれる清修といる時のほうがずっと楽しかった。

 だからね、清修がクラスの男子を殴り飛ばしてくれた時は、嬉しいって感情よりも、いじめられている事も知られて恥ずかしいっていう感情が先に来たの。それに、いつもわたしが作った料理がニコニコ笑って食べてる清修があんな事をするなんて思ってなかったから、とても驚いたし、それ以上に怖かったの。だから、わたしもパニックになっちゃって、あんなふうなこと口走っちゃったの。ごめんね」


「いいよ。俺はもう気にしてないし」


「あれから、ずっと今すぐにでも謝りに行かなきゃって思ってんだけど、勇気がなくて行けなかった。そんなふうに迷ってるうちに店を閉める事になってほとんど夜逃げみたいな形で引っ越さなきゃならなくなったの……」


 再び柚季の瞳が涙で滲む。


「ごめんね。本当はわたしのほうから声をかけるのが一番よかったんだろうけど、もし清修にあの時のことで拒絶されたら……って思ったら、怖くて仕方がなかった。だから、清修のほうから気づいてほしくて、あんな回りくどいことをしたの。『あんなこと』なんて何もなかったように昔みたいな感じで声をかけてほしかったの。本当に臆病でごめんね……」


「だから、もういいって。俺は何も気にしてないから」


 本当は「大嫌い」と言われたことすら今日の朝まで忘れていて、柚季が必死になっている姿がかわいいと思っていたからスルーしていただけなのだが、本当のことを言うとまたポカポカ殴られそうなので、清修は黙っておく事にしたのであった。


「それよりもさぁ……」


 今度は逆に清修が柚季に問いかける。


「関係ないっちゃ関係ない話なんだが、さっき水族館のレストランで話しかけてた、あの兄ちゃんは柚季の何なんだ?」


 それは、今更どうしようもない過去よりも清修にとっては重大な事だった。なにせ、学校でも柚季が他の男とあそこまで楽しそうに話している姿など見た事がなかったのだから。


「さっきのって、岩田さんのこと?」


「ああ」


「えーと、岩田さんはわたしが通ってる美容院の美容師さんなの」


「ふーん。美容師ねぇ。じゃあ、なんで行きつけの美容師にわざわざクッキーなんて渡すんだ?」


「それは、この前、岩田さんが海外旅行に行った時にお土産をもらって、それで、お返しにクッキーをあげただけなの」


「そのクッキーって柚季がつくったの? それとも市販のやつ?」


 あいもかわらず憮然とした表情の清修。


 そして、柚季はそんな清修の横顔を覗き見ると、目を丸くする。しかし、すぐに、くすりとやわらかい笑みをこぼすのであった。


「あのね、岩田さんは若く見えるけど、もう40歳過ぎてて、わたしとは親子くらい年齢が離れてるんだよ。お父さんみたいな存在だけど、全然そんな特別な関係じゃないよ」


「そ、そうなのか?」


 清修の顔がぱっと明るくなる。


「うん。そうだよ。本当にただの美容師とお客さんの関係。それにあの人、モテるからつきあってる女の人いっぱいいるもん。清修、もしかして、岩田さんの事わたしの恋人だと思ってた?」


「ま、まぁ……」


「お馬鹿さん。わたしがいちばん好きなのは清修だよ。これからは、昔みたいにいっぱい美味しいものつくってあげるからね」


 すでに陽光はオレンジの色彩を放ち、清修の胸の中でしあわせそうに微笑む柚季の顔を鮮やかに染めあげる。


 そして、清修はそんな柚季の掌をいつまでも握り続けるのだった。



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