ケイン・ファビラウス
誰かの話し声が聞こえる。
ホテルの部屋かしら。でも1人で来たはずなのに、誰がいるのだろう?
百合奈は重たい頭とズキズキ痛む頬をさすりながら起きあがろうとした。
「目が覚めた?」
「わたし、1人で大丈夫って言ったじゃない。あ、痛っ。」
「動かない方が良い。頬も腫れているし、倒れた時に腰を打っている。」
「ねぇ、勇人、変な夢を見たの。月がふたつあったの。あと変な格好の騎士みたいな人に殴られた。痣になってない?」
視界がぼんやりしていて、顔がはっきりと見えないが、身近にいる若い男なんて、弟の勇人しかいない。
「……ユートって誰?」
「誰って、君の事でしょう?弟の勇人くんでしょ。」
「リリーナ?どうしたんだ?目覚めてすぐで錯乱しているのか?
それに身体は大丈夫なのか?どうやって一人でここまで歩いて来れたのだ?」
「リリーナ?わたし、百合奈だよ。」
隣に座っているらしき男の緊張が伝わってくる。
「百合奈?まさか、本当に百合奈?」
百合奈は眩しくて目をすがめていたが、初めはぼんやりと、やがてゆっくりと焦点が定まり、顔を覗き込む男と目が合った。
「け、、、圭?」
あれほど会いたかった男の顔が目の前にある。
「君は、リリーナ・アーデルハイドではないと?
確かにわたしは百合奈という娘を知っているが彼女は黒髪に黒い瞳をしていた。
その髪はどうして金色なんだ?どこからどう見てもリリーナだ。」
「あ……それは。わたし、お父さんが外国の人なの。それで本当の髪の色は金色で、瞳も緑がかってるの。
でもそれで学校で虐められていたから、ずっと黒く染めてカラコンを入れてたけど、大学生になったからもう隠すのをやめたのだけど、どこかおかしい?」
大学やカラコンという言葉は理解できなかったが、百合奈の言葉に嘘は無いと感じた。
「圭が来るかもしれないと、あの森へ行ったの。
ねえ、どうして今ここにいるの?ここはどこなの?」
それにその格好は?と言い掛けた百合奈は口を噤んだ。
この白い部屋はホテルの部屋ではない。
いつかインターネットで見た豪華な城の一室のような調度品が室内にあって、天蓋付きのベッドに寝かされている。そして自分を覗き込む圭も、壁際に立つ女性もまるでコスプレのような、時代がかった衣装を着ているのだ。
とりわけ圭の衣装は金糸銀糸の艶やかな刺繍の施された豪華な服で、それはまるで王子様のようだった。
圭は嬉しそうに百合奈を抱きしめた。
「ああ!百合奈、本当に百合奈なんだね!僕が渡したあの石が君を導いてくれたのだとしたら、何という奇跡なんだろう!
君に会いたかった。君を忘れる事はなかったよ。」
「わたしも、ずっと圭の事を考えていたわ。どうしたら貴方に会えるのかしらって。
それより、ここはどこなの?ホテルの部屋ではないの?」
「ここはファビラウス城だ。」
「お城?」
「百合奈は突然森の中から現れたんだ。衛兵達が警戒して君を取り囲んでいる時に、リリーナを知る者がいて、君がリリーナ姫だと騒いで、それで慌てて城内に運び込んだ。」
全く話の内容についていけない百合奈は黙り込む。
「君を平手打ちした衛兵は処分したから安心してくれ。」
「え、、処分って?」
「それは聞かない方がいい。とにかく、僕の大切な百合奈を傷つける者は許さないという事さ。」
蕩けるような微笑みで、圭は百合奈を見つめている。
「それより、リリーナって誰なの?さっきも圭は、わたしの事をリリーナって呼んだ。」
「百合奈は何も考えずに体を癒せば良いんだよ。」
圭は優しくそう言うと、百合奈の額に軽く唇を寄せた。百合奈は再び目を閉じ、眠りに誘われた。
*
ケイン・ファビラウスは定められた未来を粛々と受け入れていた。
父はこの地の領主である。一人息子のケインはやがて領地と爵位を継ぐ事が決まっており、10歳の頃には既に婚約者も決められていた。
婚約者の名前はリリーナ・アーデルハイド、同い年の幼馴染だ。美しく気高く聡明で非の打ち所のない淑女、それがケインの婚約者リリーナだった。彼女を婚約者に望む声は幼い頃から数多くあったが、リリーナの父親が選んだのはケインだった。
ケインはリリーナを大切に思っている。婚約者であり幼馴染であり、これから先の人生を共に闘う同志のような存在、それがリリーナだ。
そこに愛はあるのかと問われれば、親愛の情はあると答えただろう。ケインはまだ恋愛を知らなかったが、リリーナと共に過ごす未来は容易く思い浮かべることが出来た。誰もが羨む美男美女が並び立つ姿は、それだけで民衆からの敬愛を受け取れるのだ。
リリーナの父アーデルハイド伯は武門の誉れ高く、質実剛健で真面目な人柄から民衆から好かれ、周りの貴族達からも一目置かれている。爵位は伯爵であるが、それは本人が陞爵を断り続けているからであり、大公家の嫡男との縁談には何の支障もなかった。むしろリリーナ以上に相応しい娘はいなかっただろう。
アーデルハイド伯は新たな王家を補佐する人材として最適な人間であり、その娘リリーナは、いずれ王妃となるに何の不足もない完璧な淑女だった。
ケインにとって運が良かったのは、本来なら王太子妃に望まれても不思議では無いリリーナを、国王も王太子も「たかが伯爵の娘」と蔑んで見向きもしなかった事だった。
そのおかげで、至宝のような娘をファビラウス大公家は取り込む事が出来たのだ。
ケインの父は現国王の弟であり、王位継承権は2番目、ケインは3番目なので、本来ならケインが国王になる予定はなくあくまでスペアに過ぎないのだが、現国王の悪政に苦しむ民衆の声に押され、心ある有力貴族達はケインの父親を旗印にクーデターを目論んでいた。
ファビラウス大公は兄国王と甥である王太子を廃して、自分が新国王として立ち、ゆくゆくは息子ケインによる国作りを補佐する事を考えていた。国の行く末を憂う貴族達はこぞってファビラウス大公支持に回った。後は時期を選んで実行に移すのみである。
人々の、正義という名の奸計にこの国は揺れ動いていた。
まだ15歳のケインも、自分に降りかかる期待と責務の重さに潰されそうになりながらも、相応しい人間になるべく勉学と武道に精進しているのだった。
そんなある時、古代の戦術が記された本を求めて入った城の書庫でケインは一冊の本を見つけてしまう。
『異世界への転移について』と書かれた手書きの薄い本だ。
禁断の書物には、時空を超え異世界へ渡る方法が書き記されていた。
ケインは夢中で読み耽った。何度も脳内でシュミレーションして、確信した。これは正しく真実だと。
この本を記した人間は、何度も異世界への小旅行を叶えているようだった。行きっぱなしではなく、戻ってきてこの本を記したからこそ、これはここにある。
どのような結果になるかわからないが、時空を超えてみたい、異世界という所へ行ってみたい、とケインは切望するようになった。
父親達のクーデターはやがて決行され、それは必ず成功するだろう。父への信望は厚く、民衆は閉塞感の漂うこの国に新しい風が吹く事を望んでいる。
異世界を覗き見るだけで良いのだ。自分の魔力ならどのみち長くは留まれないが、帰ってくる事が前提のケインにとっては都合が良かった。望まずとも進まねばならない決められた道を行く前に、ほんの少し寄り道がしたい、とケインは思った。
*
その頃、婚約者のリリーナは体調を崩して寝込んでいた。
側近から知らされたケインは花束を抱えて見舞いに行ったが、会わせて貰えなかった。
それどころか、アーデルハイド伯爵に、娘との婚約を解消してほしいと言われたのである。
理由がわからないケインだったが、クーデターに向けて着々と準備を進めている今、婚約解消は嫌だという自分の我儘を押し通す事は出来なかった。アーデルハイド伯は敵に回してはいけない存在なのだ。
そのアーデルハイド伯爵が、ケインとの離縁を望んでいるという事は、リリーナは何か政略の駒に使われるのではないか、とケインはそう理解した。
それならば自分が口を挟める事ではない。大人同士の考えに従うべきだと無理やり納得する事にした。
クーデターという大きな目的を前に、息子の婚約解消は父にとっても些末な事でしかないのだろう。リリーナは確かに得難い娘ではあるが、新しい王家となる自分達にとっては一家臣の娘に過ぎない。
恙無く2人の婚約は解消された。
*
さて、禁書を読み込んで、研究を重ねたケインが異世界渡りを決行する日が訪れた。
理論的には問題はない。要は魔力の量の問題なのである。その魔力も、今のケインならば申し分ない。
手順を踏み魔力を溜めた魔石を握りしめたケインは、城の前に広がる森の中に一人立ち尽くした。
体内の魔力を放出すると金色の光に包まれたが、気がつくとそこはやはり森の中だった。
「なんだ、いつもの森じゃないか。」と、がっかりして城に戻ろうと歩き出すと違和感を感じた。
「違う、魔力を感じられない。ここは異世界か?」
*
ケイン・ファビラウスはどうやら本当に異世界にやって来た事を実感した。
彼の世界では生きとし生けるもの全てに魔力があり、そして王族に連なるケインはその魔力を感じ取ることができる選ばれた人間だ。
彼の体内に備わる魔力の量も相当なものであり、王家や王族はその魔力を政治や国防のため費やす。それが王族の務めでもあった。
そんなケインですら、この森からは魔力が一切感じ取れなかった。そもそもここは魔力のない異世界なのだから当然である。
ケインは森の中を歩き回った。小動物を見かけるが、ケインの世界の生き物とは微かに違っている気がする。奥の方には何やら大型の肉食動物の気配が感じれたが、それらはすぐに消え、ケインはほっとした。戦えない事はないが、魔力をなるべく温存しておきたかったのだ。
やがて人の声が聞こえてきたので、ケインは木立の影に隠れた。
少女の後を、やはり同じくらいの年の少年が追いかけている。
『百合奈、お前もう少し素直になれ。父さんだって母さんだって、お前の事を心配してるんだ。』
『おせっかい。弟のくせに。』
『なんだよっ!一つしか違わないし。お前がかってに拗ねて孤立するのが見てられないだけだろ。』
少年が少女を咎めている。少女は背を向けているので顔が見えなかった。
やがて2人は黙って戻って行ったが、その少女が帰り際にちらりとこちらを振り返った時、ケインは息が止まるかと思った。
「リリーナ、、、、」
*
なぜリリーナがここに居る?
ケインは混乱した。ひと月前に、リリーナとの婚約が解消されたが、相変わらず体調不良だというリリーナと最後に会う事も叶わなかった。
リリーナを嫌っているわけではないし、大切に思っている。それが恋愛かどうかはわからないけど、リリーナと一緒にいるのは気持ちが楽だ。
それなのに、俺は…
ケインの胸に苦いものが込み上げてきた。
「君とは政略結婚だ。幼馴染で1番近い存在だから婚約者になったのだと思うよ。リリーナだって僕の事を愛しているわけじゃないのだろう?
それに君はあの護衛騎士と随分と仲が良いみたいじゃないか。」
その後に続く言葉を告げようとした時に
「畏まりました。」と言ってリリーナは踵を返して、早足で
去って行った。
ケインはため息をついて、聞かせる相手がいないまま、言葉を続けた。
「美しく聡明なリリーナだから、他国の王族からも婚姻の申し込みが来ていると聞く。僕でなくても良いのだろう?むしろ平凡な僕では、君に釣り合わないさ。それに……」
告げられなかった言葉を、ケインはそっと呟いた。
「本当は君は、あの護衛騎士を愛しているんだろう?」
喉元まで出かかった言葉を飲み込んだのは、それを言えば全て終わると思ったからだ。
しかし、言葉に出さずとも同じ事だった。
ケインとリリーナの婚約は解消されてしまったのだから。
*
ケインは森で見かけた少女がリリーナに酷似していたのに驚いていた。違うのは髪の色くらいだ。
あの娘に会いたい、ケインはそう思った。しかし、会える手段は無い。
どのみち明日の夜中には戻る予定である。余り遠くに行くのは危険だと考えたケインは、森周辺を散策しているうちに夜になったので、手頃な石に腰を下ろして、魔力を込めた魔石を弄っていた。
サクサクという足音と共に、リリーナにそっくりな娘は突然現れた。
「こんな所で何をしているの?ここは危ないよ。」
不思議な事に言葉は通じるようだ。少女はびくりと体を震わせた。
「君、名前は?」
「……百合奈。」
「百合奈?」
顔だけではなく名前まで似ているのかと、ケインは驚いた。自分はケイだと名乗った。
「ケイさんは、外国の人なの?」
黒髪に黒目と、この異世界の人間の風貌と似ているケインだが、顔立ちや骨格は随分違うようで、百合奈はケインの見た目にびくついていた。
「うん。僕は旅人なんだ。明日には戻るんだけど。君は?」
「わたしは、、、家族とそこのホテルに泊まりに来てるの。」
「家族が心配していない?ひとりで森に入ってきて。」
ケインは百合奈に、隣に座るように声をかけた。
「誰も心配なんてしないから。いいの。」
百合奈は何でもないように答えたが、昼間のやりとりを知っているケインは、何も聞かずにいた。
やがてぽつりぽつりと、百合奈が自分の話をして、ただケインは聞いているだけだったが、百合奈の頭をぽんぽんと撫でてやると、彼女は真っ赤になっていたが嬉しそうだった。
ホテルへの道がわからなくなったと言う百合奈を、森の出口のホテルの側まで送ると、ケインは
「明日の晩も待ってる。」と声をかけた。
それが百合奈と圭ことケインの出会いだった。
*
ケインの魔力を込めた魔石はきっちり2日間だけ異世界へ連れて行き、そして戻ってくる。
空になった魔石に魔力を溜め込むと、次の年もその次の年も、ケインは百合奈に会いに行った。
百合奈にねだって、異世界の子ども向けの星座の本を手に入れて、あちらの星空の勉強をした。これが面白くて、ケインは夢中になった。この世界には月はたったひとつしか無いのだから面白い。
何故か字は書けないが読むことが出来たので、この世界が地球と呼ばれる惑星である事を知った。
百合奈と知り合って4度目の夏、ケインにとってこれが最後の異世界渡りとなった。
この4年間に、クーデターは成功して、ファビラウス大公は国王になった。
ケインは自分に課された役割を果たす為に、転移に使っていた魔石を封印することにした。
ケインの叔父一家は辺境の地に幽閉されることになり、ケインは今や王太子である。
アーデルハイド伯爵は新国王の懐刀として、宰相を打診されたが、彼はそれを固辞したばかりではなく、全ての公務から引退させてほしいと願い出た。
何故ゆえか?と問う国王に、アーデルハイド伯爵は答えた。
「最愛の娘、リリーナが4年前から意識のないまま寝たきりなのです。もう長くないと思うので、わたしは、リリーナの側についていてやりたいのです。」
国王もケインも、その時初めてリリーナがあれからずっと眠り続けていることを知った。アーデルハイド伯爵がリリーナを隠して、外へ出さないようにしていると考えていたのだ。
ケインは無理を言って、最後に一目で良いので合わせて欲しいと懇願して、それは許された。
リリーナはベッドに横たわっていた。
痩せ細った身体に管がつけられ、ただ生かされているだけの状態に見えたが、その顔は以前のように美しく、血の気のない白い肌はまるで白磁のようで、ケインはその気高い姿に涙を禁じ得なかった。
ふと思いついたケインは、あの転移に使っていた自分の魔力を練り上げて作った魔石をリリーナの手にそっと握らせた。
ほんの少しでも、魔力を受け取る力が残っているのなら、リリーナは眠りから目覚めるかもしれない、そんな軽い気持ちだった。
しかし、その数日後、リリーナは目覚めたのである。奇跡だと誰もが喜んだ。
そしてリリーナの目覚めと同じ日に、はるか異世界から時空を超えてひとりの娘が、この世界へとやってきたのである。
お読みいただきありがとうございます。
後3話の予定です。