百合奈と圭
月の綺麗な夜だった。
夏だというのに高原の夜は寒い。百合奈はカーディガンの前を合わせて少し震えた。
「星、綺麗。圭と一緒に見たかったな。」
夜空の明かりを頼りに毎年訪れているホテルから抜け出す。
あれは弓張月。弦を張った弓のような月が、星を散りばめた天空に矢を射ろうとしている。
その矢のように、願いが届くと良いのに。
もう一度、貴方に会いたい。
*
『あれが夏の大三角、わかる?』
『えー、星が多すぎてわかんないよ。』
百合奈が少し唇を尖らせると、宥めるように圭は優しいキスを落とした。
初めての事に百合奈は真っ赤になってしまう。
圭の手元には、百合奈がプレゼントした星座の本がある。
『ほらあれがベガとアルタイル。織姫と彦星だ。僕たちみたいだね。一年に一度しか会えない。』
『そうだね。』
『百合奈。君の事を絶対に忘れない。どこにいても。』
『なあに、それ。まるでこの世界から居なくなるみたいじゃない。』
圭は寂しそうに笑うと『忘れないで、僕の事。』と言った。
そしてその夜、圭は消えた。
百合奈の前から、この世界から。
*
百合奈と圭が知り合ったのは5年前。百合奈はまだ中学生だった。
毎年家族で訪れる高原のホテルの、その裏手に広がる森の中で2人は出会った。
母の再婚で出来た新しい父と弟に馴染めずにいた百合奈は、食事の後ひとりで森に出かけたのだ。
母と新しい家族達は仲良く笑い合っている。自分だけが仲間外れ、その疎外感もあって何言わずに抜け出したが、どうせ誰も気にしないだろう。
このまま消えれば、あの人たちは、少しは悲しんでくれるだろうか?と森の奥へ奥へと、百合奈は足を進めた。
満天の星の下、突き動かされるように入り込んだその森の中で、圭と出会った。
『こんな所で何をしてるの?ここは危ないよ。』
人に遭遇すると思ってもみなかった百合奈が恐怖と戸惑いで立ち竦むと、その男は距離を保ったまま百合奈に声を掛けた。
*
外国人のような彫りの深い綺麗な顔立ちをした若い男は、この辺りに住んでいると言った。
『夜が更けると大型の動物が出てくるんだ。危ないから帰った方がいいよ。』と言われて、百合奈は気がついた。
『ホテルの方向、わかりますか?』
百合奈は森の中で迷ってしまったのだった。先程から携帯電話は圏外のようで、繋がらないから、連絡をして迎えに来てもらう事も出来なかったのだ。もっとも百合奈が電話をかけても迎えに来てくれるかどうかは自信は無かった。
圭と名乗った少年は苦笑いをしたが、送っていくよと手を差し出した。
躊躇う百合奈に、怖い?と尋ねると、首を横に振って差し出された手をそっと握り返した。
百合奈は学校でも家でも、自分から話しかけることはなくただ人の話を聞くばかりの内気な娘だった。
外見からイジメを受けた事があるので、他人と関わるのが怖かったのだ。
母親が再婚する時、百合奈には何の相談もなくいきなり顔合わせがあり、突然父と弟が出来た。
新しい父は優しかったが、百合奈はうまく話す事が出来なくて母を悲しませたようだ。
『お母さんを苦しめたいの?』その言葉は百合奈を責め苛み、もともとの自己肯定感の低さもあって、百合奈はさらに殻に籠るようになってしまった。
決して彼らが嫌いなわけではなかったが、母親も含めてどのように接して良いかわからなかっただけなのだ。
誰も話を聞いてくれようとしない、一度感じた疎外感はなかなか払拭できない。
しかし、森の中で出会った少年は、百合奈に寄り添って、彼女がぽつりぽつりと話す身の上話を我慢強く聞いてくれた。
(こんな話をするつもりではなかったのに。)
新しい父と弟と、それから自分に無関心な母の話を聞いてもらい、百合奈はなんだか安堵して、帰宅したら貴方に手紙を書いても良いかと少年に尋ねた。
『僕は毎年この時期にここに来てるんだ。君の家族もそうなのでしょう?
だからここで会おう。来年も、その次の年も。』
軽く拒絶されたと感じた百合奈は、傷ついた顔をしたが、自分がつまらない人間だから仕方ないのだと無理やり納得して笑顔を作った。
『また、会えたら奇跡ね。来年も来るかどうかわからないから。』
なんとか絞り出した言葉に、今度は少年の方が傷ついた表情をした。
『事情があって住んでる所とか教えられないのだけど、僕の名前は圭。来年の夏、ここに来て名前を呼んでくれたらいい。これ、渡すね、次に会うまで持っていて。』
『何、これ?』
百合奈の手のひらに乗せられたのは鎖のついた透明な石だ。
『君と僕を繋ぐものだよ。身につけていて欲しい。』
百合奈は頷くと首から掛けた。一瞬、透明な石が光った気がした。
*
それから3年間、毎年夏の夜に百合奈と圭は森で会って話した。
圭は百合奈の話を聞いて、慎重に言葉を選んで百合奈を肯定し、僕がついているからと、安心させてくれるのだった。
4年目の夏の夜、圭は『君の事を絶対忘れない』と言って、百合奈の前から消えた。
文字通り、目の前から忽然と消えた。
本来ならパニックになりそうなところを、百合奈は何故か、ああ、帰ってしまったのね、と受け入れた。
あり得ないような現象をどうして受け入れたのかわからない。しかし握りしめていた胸元の石がほんのりと熱を持っていることに、百合奈は気がついていた。
(圭は、孤独なわたしが作り出した幻想だったのかもしれない。)
遠くから百合奈を呼ぶ声が聞こえる。
「――りな――、ゆ、り、な――」
これは……数年前に家族になった弟の声だ。
息を切らしながらやってきた弟が、百合奈を抱きしめた。
「お前、こんな明け方まで何してたんだよ!父さんも母さんも心配してる。母さんなんて半狂乱だぞ。」
「え?嘘でしょう?夜のうちに帰ればあの人たちが気付くはずないよ?」
「馬鹿野郎!夜だったらいいのか?誰も見ていないうちに戻ればいいと思ったのか?
俺たちがどれだけ心配して、毎年お前が戻るのを待っていたかわかってんのか!」
百合奈は黙り込んだ。
「お前、この高原に来た夜に、1人で森へ向かってただろう。知ってるんだ。俺、毎年見てたから。
そんなに俺たちと一緒に居るのが嫌だったのか?」
「だって、わたし邪魔者でしょう。あなた達家族にとって要らない存在だもの。」
義理の弟とこんなに長く話したのは初めてだと、ぼんやりした頭で百合奈は考えた。
「なんで勝手に自己完結するんだよ!お前にとって俺たちの方が邪魔者だと、勝手に壁を作っているのはお前の方だろう?」
弟は泣きながら百合奈を抱きしめていた。何故だかわからないけど、百合奈もまた弟に抱きついていた。
目からこぼれ落ちるものが涙だと気がついて、こんな自分でも涙は出るのだと、百合奈は驚いた。
*
その後、母に泣かれ、父からはもう少し家族を信じて欲しいと請われた百合奈だったが、20歳になるのだからと、家を出る宣言をして一人暮らしをする事になった。
あの夜以来、自分に構ってくる弟が、心配だから俺も一緒に住むと言い出して、宥めるのに苦労した。
そして今年も夏が来るが、もう家族では高原へは行かない。
百合奈はひとりで、あの高原のホテルに泊まることにした。
そしてひとりで、夜空を眺め、弓張月に願っている。
「わたしのこの想いを矢のようにつがえて、圭のいる所へ、飛ばして欲しい。
大好きだったよ、ありがとうって。」
百合奈は願う。
会った時間にすればほんの僅かでしかない彼が、自分に与えてくれた勇気と、自分以外の人を好きになる心を与えてくれた。
その彼がどこか知らない場所にいても、幸せでいてくれたら嬉しいと思った。だから、彼の、圭の幸せを願う。
(圭が好きな人と一緒になれますように。)
「もう来年からは来ないね。いつまでも圭を思ってジメジメしてたら怒られちゃうもんね。
貴方の事忘れないよ、一生忘れないから。」
百合奈はそろそろと来た道を戻った。何度か通っていると、さすがに帰るべき方向はわかっている。
サクサクと下生えの夏草を踏み分けうっすら明るい方向へと足を進めると、明るい大きな館が見えてきた。ようやく森を抜けてホテルに着いたのだと、ほっとした百合奈が、目的のホテルを見上げると、そこにあるのはホテルではなかった。
「え?これはいったい何?」
百合奈の目の前に広がるのは、クラシカルなホテルに良く似ているが、全く異なっており、大きな門扉の向こうには尖塔が三つある城のような建物があったのだった。
百合奈が慌てていると、どこからか現れた中世の騎士のような出立ちの男たちに取り囲まれた。
「いきなり現れた怪しい奴、どこから来たのだ?」
何が起きたのが理解できず恐怖に震える百合奈の腕を、騎士のような男が乱暴に引き掴む。
「間者か?見たところ子どものようだが、怪しい身なりだな。牢屋にぶち込むか。お館様が戻られたら尋問する。」
百合奈は声を出す事も出来ず、ただ恐怖に震えながら、胸元の石を握りしめた。
(た、たすけて、圭……)
「ん?こいつ、何やら胸元に隠しているな。何だ、出せ!」
百合奈が嫌がって体を捻ると、ひとりの男が百合奈の頬を平手で打った。
「おとなしくせよ!怪しい奴めが!」
百合奈は痛みに泣きながら叫んだ。
「助けてっ!助けてーーーー!圭、どこにいるの?圭っ!助けて、圭………」
そして気を失う寸前に見上げた空には、月が二つ。
上弦と下弦の月が向き合っている。
百合奈は絶望しながらそっと目を閉じた。
お読みいただきありがとうございます。