鍵飲んだの?それ大丈夫?
遠く離れた異世界になってしまった日本。お腹が空けば美味しい食事を買える。街も安全で道で酔っ払って寝ても殺されない。ある程度、贅沢しなければ生活に困らない。今思えばなんて幸せだったのだろう。
街の人たちも皆優しかった。そういえば私も、道で倒れていた人がお金が無いと言うので、お金をあげた事もあったな。懐かしい。
◇◇◇
ふと気がつけば手にスプーンとクロスを持ったまま、木製のダイニングテーブルに突っ伏して寝ていた。落ち着かない時や考え事をする時「物を磨く」のが私の癖。絶対前世の趣味が影響していると思われるこの癖のおかげで、靴磨き職人の親方に拾ってもらえたようなものだから……前世での趣味に感謝すべきなのだろう。
(……あれ? そういえば親方戻ってきていないの?)
しっかり施錠したとはいえ、玄関ドアの鍵は外から鍵で開けることができる。鍵を持っている親方を締め出してしまう事はあり得ない。
雨戸まできっちり閉めた窓の隙間から外の様子を伺うと、日が沈み三日月が夜空に浮かんでいる。そのまま目線を玄関の方向にやると、よく見えないが地面に横たわる大きめな影。「何だろう?」と思って目を凝らしてよく確認すると……
「親方!?」
信じられない気持ちで玄関の鍵を開ける。外に飛び出すと、やっぱり地面に転がっていたのは親方だった。
「親方! どうしたの……」
と言いかけた所で、他にも人が沢山いることに気がつく。後ろ手に縛られた親方に、街を守る兵のように武装した人達。そして、
「やっと出てきたか。まったく、せっかく同居の老人を捕まえたというのに鍵を丸呑みして中に入れさせないから予想以上に時間がかかってしまった」
昼間出会ったアルマン・ラピエース男爵が、親方のすぐ側に立っていた。月明かりに照らされた黒髪が美しすぎて目を奪われてしまう。
「ジゼル! 駄目じゃすぐ家に……ぐっ」
少しでも目を奪われた事を後悔した。親方を足蹴にするなんて許せない!
「親方に何するの!?」
すぐさま親方の元に駆け寄ると、兵達に取り囲まれ私も後ろ手に縛られてしまう。
「ちょっと離してよ!」
「やっと名前を吐いたか。じゃあ次は年齢でも聞こうか」
兵が親方に向かって剣を突きつける。冗談だと思いたいが、どうやら本気のようだ。
「じゅ、十七……」
言う事を聞かないと親方が殺される! そう感じて声を震わせながらも即座に年齢を答えた。
「ジゼル、ワシは気にせず逃げるんじゃ……!」
そんな事言われても親同然だと思って暮らしてきた親方を見捨てられるわけがない。
「じゃあジゼル、貴女には私の物になってもらうよ。拒否権は無い。それは分かるね?」
「……はい」
悲痛な顔で涙する親方。すまぬ、ジゼルをこんな目に合わせてしまうとは、と謝られるが、これは親方のせいなんかじゃない。
キッと男爵を睨みつける。親方を人質に取ってまで私を連れ去りたいなんて、一体どういうつもりなんだろうか。
「ああ、逃した時はどうしようかと思ったが、やはり女神は私に味方するか」
怒りが腹の底から湧いてきている私とは対照的に、恍惚とした表情を浮かべる男爵。申し訳ないがその表情から「変態男爵」と言われる理由がとてもよく理解できてしまう。
「私はどうなっても構いませんので、親方にだけは手を出さないでください。それを守っていただけるなら、何でも致します」
できるだけ怒りを表さないように、男爵に頭を下げた。
とにかく親方を守らなければ。ずっと私を大切に育ててきてくれた親方に何かあったら……私は耐えられない。
「勿論。貴女の横顔が手に入るならそんな老いぼれに用はない。ジゼル、貴女が私の屋敷に入った瞬間に老人は開放し、ジゼルが私の元にいる限りは手を出さないと約束しよう。……連れて行け。顔だけには傷を付けないように」
私の返事に満足したのか、親方につきつけられていた剣は下げられた。その代わり私は縛られたまま兵に乱暴に馬車へと詰め込まれる。
(こんなの……ただの誘拐じゃない)
非情にも馬車は直ぐに出発し、私の名を叫ぶ親方の声がどんどん遠くなっていく。叫ぶのが許されているという事は、本当に親方には手を出さないでいてくれているのだ。そう考えて自分を強く保ちながら……私はこの先自分の身に何が起こるのかと身構え身を固くするのだった。