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こんこんと、繋目を叩いて音を聞く。
船底を船首から船尾にかけて破綻がないかじっくりと目視し、感触を確かめるように手で触れる。水の抵抗を減らすために、その手触りは滑らかで、美しい隆線に歪みはない。
流石、本場ケンドルオールの職人が手塩にかけて造っただけあって、精巧なその造りは完璧である。
初めは敵国の船大工の作ったものと警戒していたエレクトラだったが、慎重にチェックをしているうちに不信感は減っていった。思うことあって母国を離れた船大工たちは、短い時間の中でも最大限技術を駆使して仕事をしていた。やっつけ仕事などではない、細部まできっちりと処理されたその仕上がりはエレクトラのような若輩者には立ち打ち出来ない素晴らしい出来栄えである。
最後の一隻の点検を終え、エレクトラはほっと息を付くと、腕を上げて大きく伸びをした。
上向きでの作業が長かったせいで、首と肩が随分と張っている。
疲れはあるが、それ以上の満足感に目を細めて、相棒となる船に手を伸ばした。
「とうとう明日だ。頑張っておくれよ」
「沈める者」と名を付けられた海の狩人。
船大工にとってもこれほどに完成された美しい船は他にない。
船を見上げながら数歩下がれば、マストと畳まれた白い帆。武骨な太いロープが船縁の手すりに括られているのが見えてくる。
明日の戦闘に向けて、準備は万端。エレクトラとて、この点検は自分の気持ちを落ち着けるための一つの儀式にしか過ぎず、祈りのようなものだった。
無事、皆が返ってこられますように。
エレクトラの心にあるのは冬狼への信仰ではない。
祈っても、神は助けてなどくれなかった。
母とエレクトラを助けてくれたのは、海賊シルヴァだ。
幼かったあの頃。
毎日が略奪に怯える日々だった。
領民を守るはずの領主が非道な重税を課し、私兵たちは、横暴を繰り返す。
隣の村が焼かれた。あちらの村は食糧を奪われ、ほとんどが食いつなげずに海に身を投げた。
この村も次に奪い取られたら、もう何も残らん。
逃げるか、死ぬか。
日に日に追い詰められていき、そして、あの日。
とうとう、私兵たちはエレクトラたちの村にやってきた。
突然家に押し入られ、なけなしの食糧を奪い取られて。
「後生ですから、それだけはっ!」
略奪する彼らの足に取りすがり、必死に懇願する母親を足蹴にされ。
駆け寄ろうとしたエレクトラの頭上に振り上げられたのは、剣だった。
母の悲鳴が聞こえる。
エレクトラは呆然とその切っ先と、兵士の歪んだ笑みを見上げ――――
その大きな身体がぶれた様に思えた次の瞬間、吹っ飛んで視界から消えた。
「そんなもんぶら下げといて、女子供に手を上げてんじゃねぇよ。屑」
男の飛んで行った方とは真逆の位置から聞こえてきた言葉は、お世辞にも綺麗とは言い難い。
唖然としたエレクトラが見たのは、片足をぶらぶらさせながら抜身の剣を肩に担いだ銀髪の青年だった。
彼は色めき立つ私兵をあっという間に叩きのめし、今にも壊れそうな襤褸船に積み込むと、オールもなしに海に流した。そして、僅かな食糧を分け合って生きていた村人に、手土産だと大量の食糧を置いて去って行ったのだ。
あの時の安堵と感動。
感謝の念。
ぎゅっと抱きしめてくれた母の温かさ。苦しい顔ばかりしていた村の人たちの泣き出しそうな笑顔。
あの時の情景は今もなお、彼女の中で色鮮やかに輝いている。
だから、感情だけで行動出来た子供だった自分にエレクトラは感謝している。
後先も考えず、こっそりと船に乗り込み、無理やり居座って、船大工のじいさんたちに可愛がられているうちに、いつの間にかエレクトラの居場所は出来ていた。
じいさんたちに混じって金槌を振るい、図面の読み方を教えられ、師事しているつもりはなかったけれど、何時しか彼らの自慢の弟子となっていて、船を守ることが、彼を支えることになるとわかるようになると、さらに修行にのめり込んだ。
女らしい生き方ではないだろう。
それでも、その生き方を選んだことを後悔したことはない。
辛い思いをしている人々を助ける彼に憧れた。その力になりたかった。
……初めは子供の憧れと感謝の情。
それがいつの間に恋慕になったのか、エレクトラも覚えてはいない。
彼が完璧な男ならば、まだ此処までのめり込まなかった気もする。
エレクトラの癇癪におろおろしているのを必死で隠して一晩付き合ってくれる所や、飲み勝負で負けた翌日にはナメクジ状態で転がっていたりする所、ちょっといい話を聞くだけで目を潤ませていたり、船員たちとやり合っているから何事かと思えばお菓子の争奪戦だったり。長い時間をかけて見せてくれるようになった色々な姿の中、情けない姿にさえ愛おしさが募るのだから、もう末期だ。
一方通行のこの感情。
わかっている。あの男の中でエレクトラは今でも泣いていた子供だ。
それでも、今は女として見てもらえなくても、いつかはきっと、と小さな希望を抱きながら。
ただ、男の無事を祈る。
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両手を胸の前で組み、首を垂れる。
夜、たった一人で行われる彼女の秘密の儀式。
静謐で息を呑むような美しい光景を、イライアスは静かに見守っていた。
彼女の印象的な紫の瞳は瞼の奥に隠され、見ることは出来ない。
強気な眼差しが隠されると彼女の女性らしい面立ちは強調され、長い睫毛が頬に影を落とすのにさえ色香が漂う。触れたくなるような官能的な唇に誘われたその瞬間、肩から滑り落ちた艶やかな黒髪に口元が隠された。
まるで己の不埒な視線を遮るかのようなタイミングの良さに、思わず自嘲し口元が歪む。
触れられないその距離で、男は改めて自分の思いを自覚した。
(もう、逃げるのはやめた。覚悟しとけよ、エレクトラ)
こんな悪い男に恋をしたお前が悪い、と。
自分の狡さを棚に上げ、男は静かに笑った。