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 ルクセイアの冬の訪れはオルフェルノの中ではおそらく一番遅い。

 それは温暖な海流が齎す恩恵なのだが、反面、晩秋から初冬にかけるこの時期は、船の出港にさえ影響を及ぼす程の強い風が海側から吹き抜ける。

 少しばかり困った冬の報せではあるが、それでも、この地で生活している者達は、その風をそれほど厭うてはいない。

 風吹きすさぶ荒天も、時過ぎればすっかりおさまりを見せ、蒼天を齎すのだと。

 彼らは、経験上知っているから。


 エレクトラは片手で陽を遮りながら、顔上げた。

 空を覆っていた雲は風に流され、今は千切れ雲が薄く棚引く程度である。そよぐ風の心地良さに目を細め、彼女は止めてしまった歩みをゆっくりと再開させた。視界の先に伸びる坂道をのんびり登っていく。なだらかな傾斜の石ころ道だ。板状の石や歪な丸石、大きさも形も疎らな石がたくさん転がっていて歩き易いとは言い難い。とは言え、通い慣れた人間にとってはそう苦になるものではないから、程なくしてエレクトラは目的地に辿り着いた。

 視界一面に見渡す限りの海が広がる。

 その手前、断崖の際には寂れた風情の教会が崩れ落ち、石壁だけを残してそこに在った。隣には寄り添うように巨木が一本、どっしりと根を下ろしている。

 遮るものの無い明るい光が石壁を、大木の葉を、青草を照らし、所々にむれ咲く野の花に戯れる風が花弁を攫う。崖の向こうに広がる海は荒天の名残を残すことなく凪いでおり、紺碧の波は輝いて、揺らめく波紋の中に泳ぐ魚の影さえ確認できるほど澄んでいる。

 美しくも見慣れた光景を眺めながら、エレクトラは航海の安全を祈る方尖柱を通り過ぎ、深い緑影を落とす木の下へと向かった。

 途中で、先客が居ることには気付いていた。それでも近づいたのは、そこに居たのが見知った少女であったからだ。その行動原理は、正しく好奇心だった。

 木漏れ日の中に座る彼女へと歩み寄る。

 だが、彼女一人だと思っていたエレクトラは、後少しという距離まで来て、それが誤りだと気が付いて足を止めた。少しだけ躊躇ったものの、目敏い少女にぺこりと頭をさげられて、まあいいかと、また歩き出す。

 そう、彼女は一人ではなかった。傍には夫が居たが、彼は妻の膝を枕にして気持ちよさそうに眠っていた。丁度、木の幹が邪魔をして見えなかったのだ。

 それにしても、色男は寝ていても色男なのが腹立つ。

 思っていたようなろくでもない男ではないと知ったからと言って、基本男嫌いエレクトラが好感を持つはずもない。

 彼女が好意的な興味を持ったのは、男の妻に対してだけであった。


「座っても?」


「どうぞ」


 尋ねれば快く返されて、彼女の隣に腰を下ろす。二人分ほど距離を開けたのは、自分でも邪魔者であることを認識しているからだ。

 それにしてもと、首を傾げる。


「こんなところでデートかい?」


 この景色が風光明媚であることは否定しない。遠目に望める水平線も、碧く輝く海も、確かに美しい。しかし、それにしても此処は辺鄙過ぎやしないか。

 意外そうな顔のエレクトラに、「デート」と小さく繰り返した少女は、気恥ずかしそうに頬を染め頷いた。


「はい。海を見に行きましょうって、誘ってもらったんです」


 はにかむ少女は大層可愛らしい。つい頭を撫でたくなってしまったエレクトラは、それをぐっと堪えた。何しろ、相手は人妻だ。それも、夫は非常に心が狭いときている。

 誤魔化すようにエレクトラは視線を外し、周囲を見回した。


「こんな何にもない所じゃ、すぐに飽きるだろう?せっかく領都に居るんだから、街の海沿いに行けばよかったのに」


 同じ海を見るならば街の方が海沿いの洒落たお店で食事も出来るし、港町らしい市場で買い物も出来る。こんな所よりもっと楽しめたはずだ。

 何しろルクセイアは貿易の要所、オルフェルノの海の玄関口。王都とはまた違った賑わいや異国情緒を堪能できる、とても刺激的な街なのだから。

 リュクレスは頬を緩めると、少しだけエレクトラの方に顔を寄せて、内緒話をするように囁いた。


「それも楽しそうですけど、それじゃあ、二人だけでのんびりお昼寝は出来ませんから」


 悪戯っ子の顔をして、楽しそうに笑う。そんな彼女に、エレクトラは同じ女性として自分が無粋だったと悟って、苦笑した。


 クレメントと騎士団の共闘関係について話し合う時くらいしか、エレクトラは将軍と関わることはない。それでも、この夫婦が忙しく動き回っていたことは知っている。

 イライアスから話を聞くに、将軍は戦後処理と並行して駐留する騎士団の最終調整をしながら、侯爵とリディアム領の今後の交易と関税について話を詰めていたという。


「奴の頭の中はどうなっているんだか。同時並行であそこまで整然と処理されると言葉が出ねぇわ」


 単純な賞賛をするには見事すぎて、イライアスは呆れて天を仰いでいた。

 そして妻であるリュクレスの方はと言えば、貴族婦人らしく部屋で刺繍……などではなく、薬師たちに混じって調剤の手伝いをしていたらしい。こちらは薬師たちと交流のある船医ラジオルからの情報である。ちなみに、薬師たちの育てた薬草と修道女たちのレシピで作った彼女の軟膏はとてもよく効くらしく、我が船の船医と怪我人達が絶賛していたのは記憶に新しい。

 何とも働き者の夫婦だと思う。そんな二人がこんなところで逢瀬とは。

 そう思いながら、それを言葉に出来なかったのは、二人の穏やかな雰囲気のせいだった。どこか壊したくないような、柔らかくも温かな空気は素直に、いいなと思える。

 それは、きっとほんのりとした羨望。

 羨ましく思うエレクトラを、しかし、リュクレスもまた同じような目で見つめていた。

 肉感的なその姿をじっと見つめて、自分の慎ましやかな胸元に視線を落とす。

 ため息もなく、落胆に肩が落ちた。


「どうしたらエレクトラさんみたいな素敵な女性に成れるんでしょう」


 ぽろりと零れ出た疑問に、エレクトラが不思議そうに首を傾げる。


「体格的なことであれば無理じゃないかい?」


「やっぱりそうですよね」


「食べる量も全く違うだろうし、あたしは大工だからね。肉体労働が主だけど、あんたは違うだろう?」


「はい」


「なに、そんなに女らしくなりたいの?そこの男は全然気にしていないみたいだけど」


 その言葉にリュクレスは何とも申し訳なさそうに眉尻を落とした。


「ヴィルヘルム様は何も言いません。でも、私が相手だとヴィルヘルム様が幼女趣味だとか、色々言われるから。何か努力できないかなって」


 思わず、エレクトラは鼻で笑った。


「男ってのは女を自分好みにしたいもんさ。何も言わないのであれば、今のあんたが好みなんだろ。あんたはそのままでいい。その方がそこの男が喜ぶんじゃないかい?」


 そりゃ変態扱いされたって文句は言えないけどな、という言葉は当然飲み込む。

 それにしてもと、エレクトラはまじまじとリュクレスを見つめた。


「あんた本当にその男が好きなんだねぇ」


 何処か呆れた響きに気が付いていて、リュクレスは素直に頷いた。


「はい。とても大切な人、です」


 囁くように言って微笑む。

 それを見て。


 ……誰が子供のよう、だなんて思うだろう。

 慈しみ深くも柔らかな表情にエレクトラはそう思った。


 ゆっくりと男の髪を梳く彼女の手は優しく、男の眠りを守るその瞳は静謐を湛えて酷く美しい。

 その、人をはっとさせるような美しさは、彼女が幼げな容貌であるからこそ触れてはいけないような禁忌を感じさせる。


 それこそが、そこの男を狂わせるのか。

 淡く危うい魅力は、彼女がふわりと笑うと、春風のように温かく溶けて消えた。










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