転機
開かれた窓から気持ちの良い海風が入り込み、カーテンを揺らしていた。揺れる度にちらちらと零れ落ちる陽の光が、白いシーツを柔らかく照らし出す。
換気のためだが、心地の良い風だ。
(……と、先ほどまでは思えていたんだがな)
心の内で溜息を漏らし、ノース・フェルノはそっと天を仰いだ。
先程までの長閑さは儚くも消え去り、今室内に満ちているのは緊張感を孕んだ硬い空気だ。吹き込む風の心地良さを感じる余裕など欠片もない。
情けない話ではあるが、捕虜となった時点で決まった覚悟は、手厚い治療を提供されているうちに戸惑いに混じって解けて緩んでいたらしい。唐突な面会に思っていたよりも動揺している自分を自覚してノースは苦い思いを飲み込んだ。
寝台からゆっくりと身体を起こし、来訪者へと顔を向ける。同じ軍人という立場上、彼の名を耳にすることは多かったが、こうして会うのは初めてだ。
オルフェルノの英雄、冬狼将軍。
噂に違わず、眉目秀麗を絵に描いたような大層美しい男であった。均整の取れた体躯はまるで理想の対比で作られた彫像のようであり、洗練された身のこなしに、縁なしの眼鏡を掛けた理知的な雰囲気は、一見して軍人には見えない。だが、ケンドルオール軍を完膚なきまでに叩きのめし、この部屋の空気を作り出している張本人が唯の優男のはずもなく、ノースは唯々横たわる沈黙に耐え、彼からの言葉を待った。それが分かったのだろうか。
「身体の調子はどうですか」
会話の取っ掛かりとしては何とも当たり障りの無い言葉が投げかけられる。詰めていた息を吐き出し、病床ながら居住まいを正すと、ノースは将軍へと向き直った。
「治療、感謝する。私も部下も皆軽快に向かっている」
「それは何より。軍人だけあって体力があったのが幸いしたようですね。そうでなければ、もっと死者は増えていたと、うちの軍医が言っていました」
男はふと微笑み、それから表情を改めた。
「死者はこの国のやり方で丁重に葬らせていただきました。そちらの国の葬祭方法に則った方法でないことはお許し願いたい」
端的な謝罪にぐっと唇を噛み締め、首を横に振る。
拳を着き、ノースはその場で深々と頭を下げた。
死者に鞭打つようなことをせず、礼節を持って仲間たちは送られていた。そのことに、全身の力が抜ける程の安堵を覚える。
踏み荒らせ、奪い取れ。
ケンドルオールが敗戦国に対して、この国のように誠実に対応したことが今まで一度としてあっただろうか。
……答えは否だ。
死者を冒涜するような行いを繰り返し、その国の礼節を踏み躙り、それを強さであると勘違いしてきた。
それが、どれほどに醜く傲慢で、哀しく、そして憎まれる非情な行為であったか。
敗者の立場に立って初めて、自国の非道を痛感し、言いようのない羞恥と後悔の念に彼は唇を噛み締めた。顔を上げることの出来ない男に目を向けたまま、将軍は短く嘆息する。
「捕虜解放のための交渉を貴国は拒否しました。上に立つものがあれでは、報われませんね」
声に滲む憐れみの色に、握りしめていた拳が震えた。
ノースの胸の奥に落ちてきたのは屈辱などではない。それは、暗澹たる母国への、失望。
(見捨てられたのか。俺たちは)
容易く捨ててしまえる駒だったのか。
ならば、戦いに散っていった命は一体、何であったのか。
(散り逝こうとするのを必死に留め、生き残った我々は……っ)
湧き上がる激情に噛み締めた口元から嫌な音が響いた。鋭い痛みが走り、鉄錆の味が口腔内に広がる。口の端からしたたり落ちた血が、白いシーツの上にぽたぽたと赤い染みを作っていく。
肩を戦慄かせ激昂するノースを見定めながら、将軍は口を開いた。
「今のケンドルオールは海賊の国というよりただの卑怯者の国ですね。矜持の無さと、国民を大切にしないその行動はまるで、カフェリナの王族のようだ」
滅びゆくあの国と同列に扱われること、それは西の大陸においては最大級の屈辱であった。だが、今のノースには反発することが出来ない。否定する言葉など、何ひとつ浮かばない。
品物のように売り捌いてきた国民と安価で購入した奴隷たちに国を滅ぼされたカフェリナと、自国民をあっさりと見捨て、侵略してきた国の民を蔑ろにして憎悪を向けられるケンドルオール。
何が、違う?
忍び寄る破滅の足音が、背後で聞こえた気がした。
「国を変えたいと思いませんか」
己が信じてきたものが軋みを立てる中、聞こえてきたその声は、初めと変わらず静かだった。だが、耳に届いたその声音の強さに。
ノースははっとして顔を上げた。
峻厳とした狼の目に見据えられ、心臓が跳ね上がる。
「王が変わらなければ、何もかわらない。未来は今、貴殿が想像したとおりになる。ですが、それを変えたいと望み、変える意思があるのであれば。……力を貸しましょう」
それは、まるで悪魔の囁きのようにノース・フェルノの心を揺るがした。
正に渇きに苦しむ者への水の様に、後のない彼を唆す。
だからこそ、惑い傾こうとする心に重石を乗せて、彼は将軍に言い返した。
「……だが、国王を打倒したところで、国の苦境は変わらない」
言われるがままに王を変えたとしても、ケンドルオールを取り巻く状況が変わる訳ではない。
自国に見捨てられた上に、オルフェルノにまで捨て駒にされるなど御免だ。
口にされない思いは、強い眼差しに隠しようもなく滲んだ。
そんな彼に、将軍は薄く笑った。
冷たい瞳の中、ひれ伏したくなるような強く鋭利な光が浮き上がる。
「変えてみせるのですよ。貴殿も予想しているように、今回のことで占領国は独立の動きを活発化させるでしょう。そして、それを留める力はもはやケンドルオールにはない。搾取するばかりでは、恨みを買うのは必定。ならば、独立を認め、そのうえで少しばかり有利な条件で結んで交易を続ければいい。どれほど素晴らしい交易品があろうとも、輸送方法がなければ利益に繋がらないことは彼らも承知しているはずです。確立された航海路と大型船。それは、これからも変わらず貴国の大きな強みとなるはずだ」
搾取などしなくとも、多くの国から資源を得られる。
その優位を生かして、同盟に参加を求めればいい。
「弾かれないはずです」
断言する将軍に、ノースはしかし、と躊躇を見せた。
「実際、一度は弾かれた同盟だ。何故そんなことが明言出来る?」
「簡単なことです。カフェリナが落ち着かない中、ケンドルオールまでも倒れることがどういう意味を成すのか、よくよく考えればわかることだからですよ」
カフェリナ王国は今もなお立ち直る気配を見せていない。どの国からも援助を断られ、国境は閉鎖され難民として逃げ出すこともできない、孤立無援の状態だ。
人を人として扱ってこなかったカフェリナ王やその周辺貴族が虐殺にあったのは心情的に理解が出来る。だが、カフェリナの民は自ら畑を焼き、略奪に明け暮れ、知識人を甚振り、難民が出ることを予想して状況を確認していた他国の貴族まで手を掛けた。
「虐げられてきた我らが何故畑を耕し、国を立て直さなければならないのか」
彼らが高らかに叫んだあまりにも他力本願で傲慢な言葉に、周辺国はカフェリナを見捨てることを決意した。あの国はゆるゆると滅亡に向けて進んでいる。
「ケンドルオールは大国です。カフェリナのように国境を閉鎖するだけでは済まない。面倒ごとを最小限にするとするならば、ここで倒れてもらっては困るのですよ。自衛のためにも、同盟国は参加どころか、資金援助さえ拒むことはないでしょう」
何の展望も見いだせなかったところに、余りにも具体的な行動を示されて、ノースは呆然と将軍を見つめた。
「…………俺たちに出来るのか」
「できるか、ではなく、するのです。東の大陸まで攻めてきたのはそちらにも守りたいものがあったからでしょう?フェルノ殿、貴殿がいなければ、私はケンドルオールを完膚なきまで叩き潰すつもりでした。我が国に噛みついてきたのはそちらです。二度とそんな気にならないよう、牙を抜くのは当然のこと。しかし、直接手を下せば禍根が残る。ですから、自滅するように追い詰めようかと思っていました。……が」
「なぜ、気が変わった?」
「私が今提示した方法は貴殿らが、搾取した国々に誠意をもって対応できなければ頓挫します。どの国にもそこで懸命に生きている人間がいる。貴殿が己の行いの非道さに気が付けた様に、ケンドルオールの民が自身を顧みることが出来るのであれば。今からでもやり直しは利く、とそう思ったからですよ。……妻が私にこう言ったことがあります。『皆が、自分の中の優しさに気が付ければいいですね』と。貴殿の中の家族や仲間を思うその優しさを、他の国の人々にも向けることが出来るのであれば、それだけで何か変わるものはあるはず。互いにそうやって思い合えるのであれば、どの国も、争いを生むことをほんの少しでも忌避するようになるのではないかな」
どれ程にも容赦なくケンドルオールを叩き潰すことを計画し、実行できる男がここに来て見せた慈悲。その理由は余りにも甘く。
「……まるで夢物語だ」
ノースは思わず、口を滑らせていた。将軍は不快な顔をすることもなく、同意見だと言うように苦笑して頷く。
「ええ、本当に。夢物語のように綺麗で眩しい。人は欲深く醜いものだ。自分の為ならば他人がどうなろうと全く気にせず、それどころか人の苦しみに愉悦を感じる者さえいる。けれど、同時に。人は誰かを信じ、誰かとともに生きたいと願う生き物でもあるのでしょう。世界にどれほどの数の恋人が、夫婦がいると思いますか。気の置けない仲間たちと生きる者達がいるでしょう?互いに命を預けて戦ってきた貴方たちだって、目に見えない絆を信じて生きている」
それは夢ように儚く、雲を掴むような曖昧なものだろうか?
否、確たる思いがそこにはある。
「私は強欲な人間です。ですからね、夢物語であろうとも、それを望み叶えたいと思ってしまったのならば、それを諦めようとは思わない」
そして、それに心を揺らされてしまったのなら、それは波紋となり繋がっていく。
温かで綺麗な夢の連鎖となって。
その波紋は間違いなく、ノースの心を揺らし、捕らえた。
信じる仲間たちが笑い合える国を。そして、他国の者達と手を取り合えるそんな国を。
望め。
夢物語と誰かに嗤われようとも。
背を押され、躊躇いなく己が意志で手を伸ばす。
「……どうすればいい?」
決意を漲らせた瞳が、灰色の双眸を見返した。
****
数日後、見張りの騎士達を襲撃したケンドルオールの捕虜たちはオルフェルノを離脱した。
改修されたレギオンが港に寄せられるとの情報を得た彼らは、集団発起し船を奪取したのだ。
脱走を計画し、彼らを率いたのは先鋒の将官であったイワン・バルトリング。
オルフェルノを出し抜いて帰還した彼らを、ケンドルオールは歓喜して迎え入れた。
だが、時同じくしてオルフェルノの使者たちが姿を消した。それに気が付いた一部の者達は、バルトリングへと猜疑の目を向けていく。
賞賛と不信の目が彼、イワン・バルトリングへと集中する。
そして、数か月後。
――――ノース・フェルノ率いる解放軍により、ケンドルオールに革命は起きる。




