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それなりの数の人間がいると言うのに、小会議室の中は大層静かなものだ。
擂粉木のこすれる音や硝子小瓶の触れ合う音、簡易遠心分離器や蒸留器から発せられる些細な物音は当然しているが、話し声と言うものはついぞ聞こえてこない。
目の前の混合に集中していたリュクレスは傍で零された溜息にふと我に返り、溜息の主を見上げた。
精悍な顔は疲れているのか、ほんの少しだけれども精彩がない気がする。
「ソル様、疲れましたか?」
何もせずにじっとしていると言うのは、案外疲れるものだ。気遣い屋で世話焼きなソルのことだから、それなりにそつなく手伝いをしているものの、護衛という立場上、この部屋から離れられないのは相当に退屈だったのではないだろうか。本当は忙しい人だと知っているから、他にやりたいこともあっただろうと思うと、余計に申し訳ない気持ちになる。
「じっとしているのには慣れていますから、疲れてはいませんよ。単純に貴女の集中力に呆れていただけです」
「ええと……」
これはまた、迂闊、というやつだろうか。
「穴が開くんじゃないかってくらいに見られていたのに、本当に気が付かないんですから」
言いながら彼が視線を流すと、薬師達が揃って頭を下げた。
「すみませんでしたーっ」
「申し訳ありませんでしたっ」
「だって、気になるじゃん。あの将軍との新婚生活!」
「そうそう、全然私生活を感じさせない将軍の普段の顔!」
「あの人でも人並みに夫婦生活って送るのかなーとか!」
「下世話ですね」
謝罪の後に続いた言葉に、ソルは半眼閉じて冷ややかに言った。
抑えきれない好奇心に前のめりになる薬師達にリュクレスの方はと言えば、目が点である。
夫婦生活と言われても……とりわけ何か変わったことがあるかと言えば、そんなことはない。
将軍と言えど、家に帰れば唯の家庭人だ。
「ええと、普通、ですよ?」
首を傾げるリュクレスに、若い青年がいやいやと首を振った。
「普通とかありえないし!だってあの将軍だよ?」
「そうそう」
隣の青年も同じように頷く。
将軍に憧れを抱く若者は多い。英雄視する彼に自分たちの理想を重ねているのだろう。そんな人が普通な訳はないと、単純に思ってしまうのだ。
リュクレスは少しだけ返答に困って逡巡した。
恐らく彼らの望む答えを、リュクレスは持っていない。
憧憬を抱き、彼に感謝を伝えたいと思っていたあの頃ならば、もしかしたら返せたかもしれない。
でも、今は。彼の信念の強さや誠実さだけでなく、狡さも弱さも優しさも、意地悪なところだって知ってしまった。見せることのない葛藤や、苛烈な怒り、時に仄暗い独占欲さえも。
それはたぶん、ヴィルヘルムと言う男の人の姿。
でも、薬師の青年たちの言う将軍は、祖国の英雄としての想像の彼だ。
その乖離を彼らがどう受け取るだろうかと考えれば、安易に答えられるものではない。
それに。
実を言えばこっちが本音なのだけれども、リュクレスだけに見せてくれるその姿を誰かに教えたくはないのだ。妻として、このくらいの我儘は許してほしいと思う。
リュクレスは誤魔化す様に、にっこり笑って、口元に人差し指を乗せた。
「内緒、です」
きょとんと眼を瞬かせる彼らに、でも、と前置きして。
「少しだけ話すなら、家族を大切にしてくれて、家族との時間を大切にしてくれる、とても素敵な旦那様です」
柔らかな眼差し、差し出される大きな手。包み込んでくれる温かな腕。
言葉を惜しまず、甘やかな声音で囁かれる睦言。
口にしたら、ヴィルヘルムの一つ一つの仕草や言葉を思い出してしまって、なんとも照れくさくなってしまった。顔はとても熱いけれど、でも、胸の奥はぽかぽかと温かいから。
恥じらうように頬を染めるリュクレスに、青年たちはぐっと鳩尾を押さえた。
「なんだろう、この膝から崩れ落ちそうになる感じ……」
「うう、胃の辺りが重たい……」
「あれ、涙が……」
凹んだ彼らを慰める気にもならず、薬師長は白けた眼を向け止めを刺した。
「惚気に充てられたんだろ。独り身が余計なことをするからだ。これに懲りたら、人の私生活を根掘り葉掘り聞くような野次馬根性は控えるんだな」
「そうですよ。この子の惚気はまだ可愛らしいものですからね?主に聞かれたら間違いなく態と甘くも重い惚気を延々と聞かされることになりますよ。泣いても絶対に逃がしてくれませんから。そんな拷問を味わいたくなければ、余計なことは言わないことです」
ソルが真剣な目で諭す。
その無言の剣幕に、彼らは震えながら全力で頷いた。
それを見て、ふとリュクレスは思う。
(あれ、……ヴィルヘルム様のイメージ変わっちゃった……?)
せっかく彼らの中の理想像を変化させないよう言葉を選んだはずなのに。
何故だろう、思わぬ結果に繋がってしまった気がする。
困惑するリュクレスを宥めるように、ソルが肩を叩いた。
「気にしないでもよろしい。そもそも隠す気ないでしょうし、主本人がその辺全く自制していないんですから」
表情も変えずさらりと言われて、リュクレスは何とも言えない顔でソルを見上げた。
「……ソル様。私、何も言ってないですよ?」
「顔に書いてあります」
呆れたように言われて、ふにっと頬を摘まんだ。
そんなに顔に出ているのだろうか?
ぺとぺと顔中触ってみるけれど、やっぱりよくわからない。
首を傾げたら、クルフに苦笑された。
「なんとも、可愛らしいものだな」
「その言葉、此処だけにしておいて下さいね。この子に関してはあの人本気で大人気ないですから」
忠告と言うには情けなくも笑みを誘う言葉だ。素直に頷こうとしたクルフだったが、薬師の中でも数少ない女性達が押しのけるようにしてそれを遮った。
「そこのところ、もっと詳しく!」
目をきらきらと……、否、ぎらぎらと輝かせる同僚の勢いに、男性陣の口元が引き攣る。正しく嫌な予感しかしない。
「是非是非、惚気話とやらをお聞かせ願いたくっ」
「幼妻を溺愛する将軍っ、きゃー妄想広がるー」
きゃっきゃと盛り上がる女性たちに、彼らは押されるばかりである。
ドン引きする男性薬師を横目に、ソルは一歩も引かなかった。
彼女達にものすごく残念そうな眼差しを向けてただ一言。
「嫌ですよ」
面倒くさそうに首を振った。ソルからすれば聞きたければ当人から聞けと言いたい。しかし、聞くときには絶対に退室させてもらう。何が悲しくて可愛い妹の恋愛話を聞かされなければならないのかと言うのが彼の言い分である。
「そんな、殺生な。あんなに興味深い話を耳にして、続きが聞けないなんてっ」
「そんなに興味があるなら夜会にでも出ればいいだろう。実物を目に出来るだろうよ」
よよよと、泣き崩れた振りをする彼女たちに、その演技力を褒めるべきなのか、窘めるべきなのか、微妙にわからなくなったクルフが嘆息して言うと、ぎんと睨まれる。
「薬師長、私たちが社交場苦手なことを知っていて言ってますね?」
突き刺さる視線をクルフは肩を竦めて軽く躱した。将軍に睨まれるのに比べれば可愛いものだ。
意識せず視線を流したその先で、夕日を浴びた白壁が淡黄色に染まっていた。壁に映る自分の影が随分と長くなっていることに気が付いて、クルフは壁際の燭台へと足を向けた。火を灯すと柔らかな暖色の明かりが室内を照らし出す。
「そろそろ刻限ですね」
同じように窓の外に目をやり、夕映えに目を眇めていたソルが言う。
噂通り過保護らしい将軍のことだ。これ以上引き留めてしまえば、彼の機嫌を損ねることになるのは明白だろう。女性陣の追撃をかわすにも丁度良いタイミングだ。
燭台から離れるとクルフはソルとリュクレスを振り返った。
「本当に助かった。今日だけと言わず、また手伝いに来てもらえると助かる」
労いとともに今後の協力を乞えば、リュクレスが反射的に頷きそうになった。
是非にと返したいのは山々だが、勝手にそれを口にしていいものか憚られたのだろう。リュクレスがソルの顔を見れば、半ばわかってましたけどね、と諦めた様に彼は苦笑した。
「この子が気に入られることは予想通りなんですが、同じくらい、主の機嫌がどうなるかも予想出来るんですよね。と言う訳で、主の許可次第ということで、後ほどお返事いたしましょう」
返された答えに、クルフは快活に笑って頷いた。
「良い返事を期待している」
薬草で染まった手を軽く上げる。
それに礼で返し、二人は薬師達に挨拶をした後、主館へと戻って行った。
「また、来てくれますかね?」
「来るだろうさ」
同僚の質問にクルフはそう答えて、口元で笑った。
それは確信。
(この手にあれほど眩しい目を向けるあの娘なら、きっと来るだろう)
薬師に対する純粋な賞賛と憧れ、そして尊敬の念。
あの藍緑の瞳は言葉よりもずっと確かに、それを伝えていたから。




