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「ヴィルヘルム様、そろそろ起きないとお仕事遅刻しちゃいますよ」


 時計の短針は8と9の真ん中を指そうとしている。

 もう朝と言うには少しお寝坊さんな時間に、リュクレスはちょっと困った顔で回された腕をぽんぽんと叩いた。ヴィルヘルムは眠ってなどいないのに、機嫌の良さそうな声で「もう少し」なんて言って、起きようとする素振りさえ見せないのだから、リュクレスの方がはらはらしてしまう。

 明け方の時には起きようとしていたのだから、これはやっぱりリュクレスが甘えてしまったせいだろうか。そんな心配をしていると、考えを読んだように、


「私だって深刻に君が不足しているのです。もう少し補充させてください」


 なんて言われて、苦しくならない程度にぎゅっと抱きしめられる。

 どうしよう、流されそうだ。

 だって、ここはどこよりも心地よい。

 うっとり、目蓋を閉じかけて――――リュクレスははっと我に返った。

 ふるふると顔を振って、甘い誘惑を振り払う。

 危ない、危ない。

 不足と思われるくらい求められるのは素直に嬉しいのけれど、いつまでもこの温もりを独り占めしている訳にはいかない。


(だって、ヴィルヘルム様、絶対に今日はお休みじゃないもの)


 新米であろうとも、リュクレスだって奥さんの端くれ。

 こういう時は、ちゃんと夫をお仕事に送り出さなければならないのだ。

 

 そのためにはまず、起きてもらわないといけない。


(どうしたら、ヴィルヘルム様は起きてくれるかなぁ)


 降ってわいた命題は中々に難問だ。解決しようと、リュクレスは懸命に思考を巡らせた。

 うむむと、唸って考えて。

 そして、不意に思いついてしまった案にぼかんと顔が赤くなる。


(……効果、あるかな?)


 少し恥ずかしいけれど、効いたら嬉しい。

 羞恥心と好奇心でぐらぐらしつつ、ちょっぴりの期待にリュクレスは意を決してヴィルヘルムの名を呼んだ。


「はい?」


 ほんの少しだけ腕の力を緩めたヴィルヘルムがリュクレスの顔を覗き込む。その顔にそっと手を添えて、リュクレスは背筋を伸ばした。

 上半身を起こし、彼の口元に顔を近づけて。

 ちゅっと、触れるだけの口付けを、落とした。

 目を瞬かせてヴィルヘルムの動きが止まる。

 じわり湧き上がる恥ずかしさに顔が熱い。

 リュクレスは慌てて火照る顔を隠すように顔を伏せた。


「ほ、補充になりましたか……?」


 返答がない。


(……あれ?)


 ちょっと心配になるけれど、まだ顔は上げられなくて。

 暫く待ったけれども、やっぱり返事はない。

 そう言えば、さっきからヴィルヘルムが動いていないことに気が付いて、そろそろと顔を上げる。

 そこには仄かに顔を赤くしたヴィルヘルムがリュクレスを見つめていた。

 目が合うと、彼は小さく笑う。


「十分補充になりました。が、余計に君と離れ難くなってしまったな」


 言いながらリュクレスの手を優しく取り、ゆったりとした動作でその手をシーツに縫い付けた。そのまま彼女へと圧し掛かる。


「君から口づけをもらえたのは、いつ以来かな?」


 見下ろす灰色の目が細められ、双眸の奥底に情火が揺らめいた。

 それに気が付いて、リュクレスは少しだけ口元を引き攣らせた。

……久しぶりにやらかしてしまった、らしい。間違いなく、リュクレスの足は今、狼の尻尾の上だ。

 結婚してから、あれだけ色々と反省をしたというのに、この大失敗。こんなことだから、折に付けソルに迂闊だと注意されるのだ。

 怪しげな視線に、近づく距離。唇が触れ合う瞬間。

 がぶりと丸かじりを覚悟したリュクレスの耳に届いたのは、朝食を告げるソルの声(救いの手)だった。


「あいつ……いい所で」


 喉元で呻いたヴィルヘルムが珍しく悪態を付いた。しぶしぶとリュクレスの上から退くその顔はまだ狼さんのままだけれど、その表情とは全くそぐわない優しい手つきで彼はリュクレスを起こした。

 幾ら離し難くとも、据え膳食わぬは男の恥であろうとも、妻に食事を抜かせるという選択は男の中に一切ないのである。そして、ソルはそれをちゃっかり理解した上で行動しているのだからヴィルヘルムが舌打ちをしたくなるのも無理は無い。

 身支度を整えて寝室を出ると、食事の準備されたテーブルに向かう。

 その間にもソルは颯爽と給仕を進め、ヴィルヘルムに文句を言わせる間もなくさっさと部屋を退室していく。

 ヴィルヘルムのいい所は邪魔するが、無駄に二人の時間を邪魔したりはしない。

 忌々しい所もあるが、彼は主夫妻の意を酌む大変出来た従者なのである。基本的に。

 

 これで使用人も誰もいない、夫婦水入らずだ。


 久しぶりの二人だけの朝食。


 たったそれだけのことなのに、どこかふわふわと浮かれてしまうのだから、リュクレスだって十分ヴィルヘルム不足だったのかもしれない。

 そんなことだから、用意された彼と自分の朝食が違うメニューだということに気が付いたのは、ヴィルヘルムにエスコートされ席についてからのことだった。

 リュクレスはきょとんとして、二人の皿を見比べる。

 目の前に置かれたお皿は可愛らしく綺麗で、ヴィルヘルムのものより一回り小さい。そして乗せられている量はさらに控えめだ。けれども、その代わりとでもいうように品目は増やされ、彩り豊かに美しく盛り付けられている。どう見たって、ヴィルヘルムに出されているものより、リュクレスのものの方が手の込んだ力作のようなのだ。


「ええと……」


 なんで同じものではないんだろう?

 戸惑うリュクレスの前で、ヴィルヘルムは反対側の席に着きながら笑う。


「昨日、昼食後に給仕に料理人への伝言を頼んだでしょう?」


「伝言……?」


 天井を見上げて、記憶を辿る。

「残してしまってごめんなさい。でも、本当においしかったです。ご馳走様でした」

 たぶん伝えたのは、そんなようなことだ。


「私もリディアム候も食べられればなんでも良いというたちですし、クレメントや騎士たちは質より量の大喰いばかりですからね、料理人としては何とも食べさせ甲斐のない人間が揃ってしまっている中で昨日の君の反応と感謝が余程嬉しかったのでしょう。喜々として君の好みをソルに確認していましたから、もしかしてとは思っていましたが……、まさか此処まで喜んでいるとは思わなかったな」


 少しだけ申し訳なさを滲ませてフォークとナイフを手に取ると、ヴィルヘルムは手元のソテーを綺麗に切り分けた。

 リュクレスのためにお菓子を作ろうと大失敗をして以降、料理と言うものを作る人間には尊敬の念を抱いて対していたつもりだが、その気持ちを慮るまでは至っていなかったらしい。

 いつだって相手に感謝を忘れないリュクレスのその思いやりは、意識せずに行っているからこそ真似をするのは難しく、向けられた側は素直に感情が揺さぶられるのだろう。

 そうして、こんな風に誰かを思う優しい行動に繋がっていく。ヴィルヘルムはその温かな連鎖を愛おしく思う。


「これは、君があまり食べられないと知った料理長の配慮です。同じでないのは、恐らくこれでは私の腹に溜まらないと踏んだからでしょう。気にせずに食べなさい」


 料理とヴィルヘルムの顔を交互に見て、考え込んだリュクレスは少しして真面目で頷いた。


「頑張って食べます」


 意気込むリュクレスにヴィルヘルムは苦笑する。


「無理し過ぎないように。ああ、そうだ。ヤンもこっちにいるのだから一度診察してもらいましょうか」


 ニヒルな無精髭の医師の顔を思い浮かべ、リュクレスは目を瞬かせた。


「フェロー先生もこちらに来ているんですか?」


 ヤン・フェローはヴィルヘルムの4つ年上の幼馴染である。黒髪に混じる若白髪とけだるげな態度のせいで年齢よりも年上に見える落ち着いた人だ。王家の専従医なのだが、幼馴染の気安さもあってか、リュクレスの怪我の治療以来、定期的な診察も請け負ってくれている。


「ええ。彼は軍医ですからね」


「ああ、そうでしたね」


 王家の専従医には宮廷医と軍医とがあり、彼は後者だ。普段は王都で騎士たちの診療や体調管理を担い、戦争となれば従軍する。


「でも、それならフェロー先生お忙しいんじゃないですか?」


 なんと言っても戦い後なのだ。

 優先されるべきは当然、戦って生き抜いた人々だろう。

 見た目と違いリュクレスは頑固な質である、優先順位を間違えることはない。

 我儘は言っちゃだめなんですよと、言葉ではなくその瞳でやんわりと伝えられて、ヴィルヘルムは口元を緩めた。


「大丈夫、彼はそれほど忙しくはしていません。仕事に追われていたのは薬師たちの方ではないかな」


「薬師……お薬が足りなかったんですか?」


「ええ。今回戦闘を担ってもらった海賊たちの治療には影響していませんが、捕虜の数が思いのほか多くてね」


 大型船から振り落とされ海面に叩き付けられた彼らは、混乱の中で多くが溺れた。泳ぎの得意な者達も溺れる仲間を助けて水を飲み、溺れた者、溺れるまではいかなかった者も多くが高熱を出し、診療所で治療を受けている。

 診断は肺炎。

 怪我は想定していたが、溺水による肺炎の治療が主となるとはさすがに予想していなかったため、必要な薬が不足する事態となり、薬師たちは不眠不休で薬を調剤に勤しむこととなった訳だが……治療薬となる材料が手に入りやすいものであったことだけがせめてもの救いである。


「まあ、それも大分落ち着いてきたのではないかな」


 と言うことは、薬師達はようやく休息を得られると言う事だろうか。ひと先ずは安心だけれども、一足飛びに薬師たちの負担がなくなるという訳ではないだろう。

 救護院での経験から、リュクレスはそれが理解できてしまう。


「ヴィルヘルム様、私も何かお役に立てませんか?」


 寒さの厳しいオルフェルノでは肺炎と凍傷の治療と言うのは一般的なものだから、リュクレスもその手の薬ならば作ったことがある。宮廷薬師達と同じようにとはいかないかもしれないが、薬の調剤方法は一通り教わっているから、僅かばかりかもしれないが手伝うことが出来るかもしれない。


「体調は大丈夫なのですか?」


「ぐっすり寝ましたから、もう平気です」


 ヴィルヘルムを見れば、彼もリュクレスを見つめていた。


「確かに君の腕は確かなので助けてもらえるのならありがたいのですが、本当に無理はしていませんか?」


 確かに顔色は悪くないが、と心配そうな顔でヴィルヘルムがリュクレスの頬に手を添える。リュクレスはその手に自分の手を重ねて、幸せそうに頬ずりをした。


「大丈夫です。私これでも頑丈なんですよ?」


「その華奢な身体でそう言われても、信憑性は皆無なのですけどね」


 疑惑の眼差しを吐息を落として苦笑に変えると、ヴィルヘルムは諾と頷いた。


「無理はしないこと、ヤンに診察を受けること、その二つの約束を守ってくれるのなら、ソルを護衛に着けて許可しましょう」


「はい!ヴィルヘルム様、ありがとう」


「お願いしてるのはこちらなのですけどね?全く君は人がいい」


 感謝を告げるリュクレスに仕方のない人ですねと微笑みながら、名残惜し気に手を離す。

 そうして、ヴィルヘルムは流れるような所作でナプキンを畳んだ。

 何気なくその手元に視線を落とし、リュクレスは目を丸くした。

 皿の上にあったはずの料理が、いつの間にか綺麗になくなっていたのだ。空っぽのお皿に乗っているのは、並べて置かれたフォークとナイフだけ。

 上品な笑みを湛える彼を、リュクレスはぽかんと見つめた。

 一緒に食べて、お話していたはずなのに。それも、話していたのは断然ヴィルヘルム様の方だったはずなのに。

 一体いつの間に、お皿の上の食べ物は彼の胃袋の中に消えたのだろう?


「ヴィルヘルム様、いつ食べてたの?」


 ヴィルヘルムとお皿を何度も交互に見て、不思議そうな顔をしたリュクレスに、彼は茶目っ気たっぷりに片目を瞑った。


「仕事柄食べるのは早いのですよ」













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