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慣れない船旅であまり眠れていなかったせいもあったのだろう。
その眠りは深く、とても心地の良いものだった。
それでも、日の出とともに起きることに慣れてしまった身体は、刻々と近づいてくる朝の気配に、次第に意識を浮かび上がらせていく。
朧気で曖昧な意識の中で、明け方特有のひんやりした空気に首筋を撫でられて、リュクレスは逃れるように掛物の中に潜り込んだ。もぞもぞと傍にあった温もりに身を寄せる。
……温かい。
柔らかな熱に、ぴたっとくっ付けば、細やかな笑みが空気を揺らした。
抱き寄せられる。
腰に回される腕の確かな重さに、意識はさらに浮上して。
世界一安穏として在れる場所で、ゆっくりと重たい瞼を持ち上げる。
ぼやけた視界が少しずつ焦点を結んでゆき、そうして遭遇したのは。
……笑みを湛えてこちらを見つめる、とびきり美しい人、だった。
枕に預けられた紺青色の髪が陽の光に照らされて絹糸のように煌めいているのがとてもきれいだ。
そう思ってぼんやりと見惚れていたら、
「おはよう、奥さん」
起き抜けの甘く掠れた声が耳元に落とされる。それだけでは済まされず、壮絶な色気を垂れ流しにした彼に耳朶を食まれ、眠気は一気に吹き飛んだ。勢いよく飛び起きかけて、はたっと己の格好に気が付いたリュクレスは、慌てて掛物の中に潜り込む。一糸纏わぬ、と言う訳では無いものの、今着ている寝衣は肩ひもを落とされればするりと脱げてしまうような大変頼りのないものだ。掛物という防御があっても心許ないというのに、腰に回っていたはずの手のひらが裾を捲り上げながら大腿をするりと撫でるから、リュクレスは悪戯なその手に真っ赤になって固まってしまった。
いつ誰に着替えさせられたか、なんて気が付くほどの余裕はなく、清々しい陽射しの中、夜の気配を残している夫の、名を呼ぶことすら出来ない。
思わず涙を浮かべた情けない顔をみて、彼はとうとう苦笑した。
「すまない。可愛らしい姿に、我慢がきかなかった」
誤魔化すように吐き出された声には、まだ燻るような熱さが混じっている。それでも彼は悪戯をやめ、あやすように強張った背中を優しく撫でた。
10歳年上の夫であるヴィルヘルムは、とても優しい紳士だ。
時々狼さんになるけれど、妻の許容範囲をちゃんと推し量りながら触れてくれる。
だから、まるで子供を宥めるような触れ方にほっとする半面、新米奥さんとしては少々自分が不甲斐ない。
「なれなくて、ごめんなさい」
逢えて嬉しいのはリュクレスだって一緒なのに。
それをちゃんと伝えられていない気がして布団に埋もれたまま、しょんぼり返したリュクレスに、彼は笑いながら身体を起こした。
「それがまた、愛らしくて仕方ないのだけれどね。私からすれば、恥じらう君は大変魅力的です」
そう言って、額に落ちる癖のない前髪を無造作にかき上げる。そんな些細な仕草さえ絵になる人だ。
着ている寝衣は羽織っただけで釦はひとつも止められておらず、鍛え抜かれた逞しい身体が惜しげもなく晒されているから、リュクレスは目が泳ぎそうになる。
けれども、ここで掛布の中に逃げ込んだままでいるわけにはいかない。
謝ってばかりでは駄目だと思うのだ。
多少は成長しなければ。
心の中で気合を入れて、火照った顔もそのままに彼女は夫にならって身体を起こした。
陽に照らされて透ける黒髪が肩を滑って前に流れ落ちる。短かった髪もいつの間にか背中の中ほどに近い長さにまでなっていた。今までこんなにも髪を伸ばしたことが無いから、肌を滑る感触がくすぐったいのだけれど、切ろうとは思わない。
貴族の女性が髪を伸ばすのは当たり前だから、というよりは。
……優しく髪を撫でる、その手が大好きだから。
「久しぶりに会えたせいかな。随分と伸びた気がしますね」
心地さに目を閉じると、するりと梳いた髪の一房に触れたまま、ヴィルヘルムが感慨深そうにそう言った。
伸びた髪が示すのは、彼らが出会ってから共に過ごした時間そのものだ。リュクレスは笑みを浮かべて目を開いた。
「はい。だから、少しだけ切り揃えようかって話をしていた所なんです」
「伸ばしっぱなしなのですから、そろそろ毛先を整えるくらいはしませんとね」と、にっこりほほ笑む侍女頭の顔を思い浮かべて、リュクレスはそう告げた。彼女らしく在れるのであればそれでよいと思っているヴィルヘルムとしては、妻に貴族らしさなど求めていないから、髪を切ることに是非はない。
が、しかし。
「まさか、自分で切る気ですか?」
気になったのはそちらの方。
何故かと言えば、リュクレスが大概の事を自分でしてしまうからだ。ドレスを着るのは流石に難しく手伝ってもらっているが、それ以外で手伝いを望むことはほとんどなく、それどころか邪魔にならない範囲でと料理長と一緒に料理をすることもあれば、お茶も自分で入れているし、部屋に飾る花も庭師と和気藹々と話しをしながら自分で選んで切ってくる。気が付けば掃除や洗濯なども使用人に混じって楽しそうにしていることさえあるくらいだ。
そして、夫の髪を切るのは彼女の役目なのである。
自分の髪くらい自分で切ってしまいそうだと思われてしまっても仕方ないだろう。
それが、とリュクレスはこてりと首を傾けた。
「そうしようと思っていたんですけど……トニアさんが切ってくれることになりました」
トニアとは、リュクレスに髪を切ることを提案した張本人、屋敷の侍女頭である。温厚でとてもおっとりとしている女性なのだけれど、リュクレスは一度として彼女の押しに勝てた試しがない。今回のことも、話しているうちにいつの間にかそういう事になっていたのだ。にこにことした笑顔が侮れない人ではあるが、リュクレスにとってはとても頼もしいお母さんのような存在だったりする。
それに、誰かに髪を切ってもらうことも随分と久しぶりだからちょっと嬉しい。
「ええ、その方がいいでしょう。彼女もとても器用ですからね」
はにかむ妻に、ヴィルヘルムもつられて口元を綻ばせると、頭元に用意してあったショールを広げて羽織らせた。
自分で着せておきながら、目に毒だなとは、なんとも情けない感想である。
見上げる藍緑の瞳が嬉しそうに煌めいて、まろみを帯びた柔らかな頬に赤みが差す。
「ありがとうございます」と、幸せそうに微笑まれて。
堪え性のない男は、その唇に己のそれを触れさせた。
まるでいつもの朝が戻ってきたようだ。
安らかで穏やかで、温かな日常。
だが、それは。きっと、そうであることを望み、彼女がいつも通りに微笑んでくれるからなのだろう。
聞き分けの良過ぎる娘は、不安も寂しさも自分の中に飲み込んで、ヴィルヘルムを甘やかす。
彼女の中の喪失の記憶は、その慟哭は……まだ、深い傷となってその心に残っているはずなのに。
それがいじましく、そして、もどかしい。
だから、どうか。
頤に軽く添えた手と逆の腕で包み込むように妻を捕らえる。
僅かに離れた唇の隙間から零れ落ちる吐息が甘い。そっと胸に添えられた小さな手の感触に、ヴィルヘルムは誘われるようにもう一度、唇を重ねた。
(君の本心を、……どうか聞かせて)
控えめに身を寄せ、懸命に唇を受け止める妻の健気な愛情表現に、深くその吐息さえも飲み込んで。
角度を変え、何度も唇を触れ合わせる。
貪るようでありながら、それは恋い慕う相手を一途に求める愛情だ。
一方的ではないのはリュクレスが拙くも受け入れてくれるから。
満たされる思いと同時に身の内で膨らむ情欲を柔らかな肌に煽られながら、ヴィルヘルムはゆっくりと唇を離した。上気した顔で呼吸を乱す妻の額にこつりと己の額を触れ合わせる。
「寂しい思いをさせてすまない」
唐突な謝罪に、リュクレスは目を瞠った。
言葉が出なくて、ただ、ふるふると首を横に振る。不意を突かれたせいで、一気に溢れ出してしまいそうになった感情を堪えようと、慌てて唇を噛み締める。
逃げるようにシーツへと落ちた視線を頤ごと持ち上げられて、リュクレスはヴィルヘルムを見つめた。
きっと今、自分はとても情けない顔をしているに違いない。
なのに。
まるで誘うように、戦慄く唇を親指でするりと撫でられる。
「言ってくれ。君の思い、君の望み。俺にどうか叶えさせて?」
柔らかく細められる灰色の瞳に。
……胸が疼く理由は、なんだろう。
ぐらぐらしているのは我儘を言ってはいけないと思う理性で。
でも、大好きな人の体温を感じて、愛しい腕に囚われて。
温かい。
――――ああ、生きている。
そう思ってしまったら。
こみ上げてくるものに我慢は砕け散った。
少しだけ。
そう言い訳して、そっと手を伸ばす。震える指で、きゅっと、シャツの裾を掴んだ。
「もう少し、一緒に居たい、です」
たどたどしく望みを告げれば、彼はふんわりと微笑んだ。
「おいで」
その声に、その言葉に。優しい瞳のその色に。
リュクレスは躊躇うことなく、彼の懐に飛び込んだ。
ヴィルヘルムが、しっかりと受け止めてくれる。
安心させるように、ぎゅっとしてくれる力強い腕に泣きそうになって、胸板に頬を引っ付ける。ヴィルヘルムの鼓動が響いてリュクレスの心音と重なった。
抱きしめる腕はそのままに、宥めるように大きな手が頭を撫でてくれるから、抱き着いたままリュクレスはぽろりと涙を零し、情けない声を上げた。
「なんだか、甘えん坊になってしまったみたいです」
ぎゅっと抱きしめる腕の力が強くなった。柔らかな笑みが旋毛に落とされる。
「ふふ、もっと甘えてくれて構いませんよ。君ならばいくらでも、甘やかしてあげます。君に頼られるのは嬉しい。私無しではいられなくなればいいと、本気で思っていますからね」
(……もうとっくに、なっているのに)
ひと月会えなかっただけで、心はこんなにヴィルヘルムを求めて泣き出してしまっているのに。
「これ以上我儘になったらきっと、ヴィルヘルム様、困りますよ?」
そういって顔を上げれば。
「お互い様ですから、いいんですよ」
彼はリュクレスの涙を拭いながら、嬉しそうに笑った。




