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 からん、と足元の方で小さく乾いた音が小さく響いた。

 どうやら足を伸ばした拍子に何か弾いたらしい。

 粗削りな石材が敷き詰められただけの武骨な床だ。小石でも蹴ったのだろう。

 音を立てた原因にたいして興味も持てず、男は薄暗い天井を仰ぎ見た。座り込んだ床の冷たさも構わずに、硬い岩盤を直接削っただけのごつごつした石壁に背中を預ける。

 地下特有の土の匂いが混じった湿った空気の中、高い天井の端にある明り取りから差し込む光だけでは、日差しの恩恵など当然得られるはずもなく、室内は夏だと言うのを忘れてしまいそうなほどひんやりしていた。

 まあ、牢の中なのだから、居心地が良いはずもない。


 深い溜息が零れ落ちる。


 陽に焼けた肌に、彫りの深い顔立ちをした精悍な男であった。

 年の頃は30半ば、というところか。

 草臥れた綿のシャツに厚手のジレを羽織り、下は幅広の黒いズボン、腰には紫色のサッシュベルトを巻いている。その上から締められた黒革のベルトには、いつもであれば愛用の武器が差してあるのだが、取り上げられてしまって今はない。

 寛げられたシャツの胸元からは逞しい胸板が覗く。そこには刺青タトゥが彫られており、一見して粗野な風体である。

 だがそれに反して、彼から齎される印象は何処か落ち着いたものだった。

 とても静かな瞳をしているからなのかもしれない。

 投獄されているにも関わらず、彼の瞳には怒りも恐怖も、焦りさえ浮かんでいなかった。

 ただ、誰もいない空間で、吐息と共に張りつめたものが解かれれば。

 孔雀藍ピーコックブルーの双眸に滲んだのは、紛う事ない自嘲の色だった。


「こんなにも簡単に捕まるとは……俺も落ちたものだな」


 へまをした。


 負け惜しみではない。

 何しろ、捕まったのは慣れ親しんだ港町の中だ。

 確かに大きな町ではないが、網の目のように入り組んだ路地は地元の者でなければ迷ってしまうほどに複雑で、逃げるには格好の場所だった。

 そんな所で捕まったのだから、これをへまと言わずになんと言う。

 領都ならばいざ知らず、片田舎の町に詳細な地図などあるはずないと高を括り、地の利はこちらにあると油断していたのがそもそもの間違いだったのだ。

 前もって、彼らは徹底的にあの町を調べ上げていたのだろう。

 そして、男とって偶発的な遭遇から始まった追走劇は、あちらにとっては周到な下準備の元、綿密に計算された捕り物劇だった、という訳だ。


 流石は騎士団。

 あまりの見事さに他人事のようだが、そう思うしかない。


 皮肉交じりに相手を賛辞し、己の油断に臍を噛む。

 しかし、後悔だけではない複雑な己の心情など、誰よりも自分が理解していた。

 苦い笑みが口元に浮かぶ。


 ……結局のところ、この展開を望んでいたのは己自身だったのかもしれない。


 イライアス・ライル・ガレ・シルヴァラント。


 長らく口にしたこともない真実の名。

 それが示すとおり、彼は貴族であった。

 とは言え、すでに領地も爵位も失った、名ばかりの貴族だ。

 15年前、リディアム侯に領地を奪われてさえいなければ、この地を治めていたのは彼の父、もしくは彼自身であっただろう。

 だが現実は。

 手のひらを見つめ、空っぽの手を握りこむ。

 俯いた拍子に、日に焼け艶を失くした長い銀髪が肩を滑り落ちた。手枷の掛けられた拳に掛かるのをぼんやりと視界に捉える。


 この15年、男は海賊として生きてきた。

 だからこそ、この時が来ることを考えたことが無かった、とは言わない。

 だが。


 捕らえられたなら、もっと苛立ちが湧くものだと想像していた。


 こうでもしなければ、領民は守れなかったのだと怨嗟の念を吐き、贖われることのなかった罪を白日のもとに晒してやる、と。

 だが、そんな風に憎しみを滾らせていたのは、……一体いつの頃までだったか。


 穏やかに微笑む両親の姿を思い出す。


 父であるシルヴァラント伯爵は、民に慕われる誠実な領主であった。

 大らかな両親が治めるシルヴァラント領はとても平穏で、イライアスは健やかに、今では考えられないほどに純粋に育てられた。そんな穏やかな日常が当たり前に続くと信じていた彼の耳に、民の悲鳴が聞こえてくるようになったのは、青年期を迎えた頃のことだっただろうか。

 リディアム侯や彼に加担する貴族たちが自己の利権を求め、民に重税を課し始めたのだ。

 先の王の日和見主義が彼らを助長させたのかもしれない。

 それは年を追うごとに、重く厳しいものになっていった。


 富める者は富み、貧しい者は一層貧しく。


 苦しみ喘ぐ彼らに、躊躇うことなく手を差し伸べたのは、父だった。

 当然、その行為は他領との軋轢を生み、方々から掛けられる圧力に領地の運営は次第に苦しいものとなっていく。

 それでも父は、毅然としてリディアム侯らと対峙し続けた。

 そして、アズラエンへと向かったのだ。

 王へと、進言するために。


 その結果。


 両親は帰らぬ人となった。

 ……反逆の意志ありと、在りもしない罪を捏造され、首を刎ねられたのだ。

 ガレ家は断絶、シルヴァラントの領地は反乱を未然に防いだ功としてリディアム侯に与えられることになった。

 唯一の救いの手であったシルヴァラント伯を失い、気まぐれな海からの恩恵で生きる者たちの生活はより一層、厳しいものになっていく。


 想像できるだろうか。


 痩せ衰え、冷たくなった幼子を両腕に抱き、空を引き裂くような慟哭を上げる彼らの苦しみを。


 彼らは慎ましくも逞しく、海と共に生きていた。

 その生活を、気骨を奪われようとしている彼らの窮状を目の当たりにし、両親の死に打ちのめされながらも汚名を雪ごうとしていた若き日の彼は、もどかしい現実に直面することになる。

 汚名返上には余りにも多くの障害が付きまとい、正当な手続きを踏むとすれば、年単位の月日が掛かることを理解したからだ。

 その間、領民は辛酸を嘗め続けることになる。


(目の前には悪政に苦しむ領民たちが空を仰いで落涙する姿があるというのに……!)


 イライアスは苦悩の末、決断した。

 正当な手段を放棄し、貧しき者たちを助けるために、略奪者となることを。


 こうして自分が堕ちなければ、誰も弱き者を助けないではないか。

 絶望に染まっていた領民の瞳に希望の灯が点る。

 それを見て、彼は自分の判断が正しかったことを確信した。

 一時は正義の味方を気取って、高揚した気分になったこともある。

 海の英雄と祭り上げられ、子供たちが笑顔で憧れの眼差しを向けてくる。

 その事実が、己の行動が間違っていないのだと信じる力となった。


 だが、状況は変わった。

 16年前、それは先王の時代。


 そして今。

 若きアルムクヴァイド王の治世となり11年。


 彼が望んでいた変革は、確かにこの国の端々にまで及びつつある。

 憎んだリディアム侯は断罪され、新たな人物が侯爵に代わって久しい。彼は不当な徴税を撤廃し、疲弊した領民を励まし支えながら、領都ルクセイアを中心に商業を活性化させた。

 健全なギルドを介して行われる交易は各々の利益を守る役割を担い、漁師達の生活の糧である新鮮な魚は適正な価格で取引されるようになった。おかげで荒廃していた漁師町も漁業を中心に活気づき、彼らの生活は安定するようになった。


 そうなってしまえば、憎しみを向ける相手どころか、憎しみ自体曖昧になっていく。


 いつの頃からだろう。


 自分がしていることには何の正当性もないのだと、自分を信じて付いてきた者たちには決して言えない本音を抱えるようになったのは。


 己を支える根幹が傾いで歪んだ音を立てている。

 その音が届いていながら、耳を塞ぎ、聞こえないふりをし続けた。


 ……だから、ちょうど良かったのかもしれない。


 耳を塞ぎ続けるのも、気が付かないふりをし続けるのも、もう限界だったのだ。

 潮時だったのだろう。

 船や港を襲う海賊も、これからは国の騎士たちが討伐していくはずだ。

 今の王であれば、この国を良い方向へと導いてくれる。


「贖罪の時が来たな」


 誤魔化しきれない己の罪に笑みを浮かべたその時、重たい音を立てて扉が開いた。











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