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5

 


 昼食が終わると挨拶もそこそこに、リュクレスはヴィルヘルム自ら彼の滞在している客室へと案内された。

 手を引かれ、ソファへと促される。


 室内を見回せば、華美な装飾の一切ない、簡素とさえ言えそうな内装であった。

 質素なわけではない。確かにごてごてと飾り付けるような派手さはないが、機能的な間取りに、洗練された装飾は細部にまで拘りを感じさせる見事なものだ。磨き抜かれて黒光りする漆塗りの柱や梁、扇形の塗り痕が美しい漆喰の白壁。白と黒で統一された調度品の中にさりげなく置かれた銀製品。全体に硬くなりがちな色彩を乳白色のカーテンが和らげている。

 引き締まるような緊張感と、居心地の良さが両立するようななんとも不思議な空間の片隅に、見たことのある荷物が置かれているのを見つけて、リュクレスは小さく声を上げた。


「どうしました?」


 軽く首を傾げたヴィルヘルムに視線を合わせ、少し躊躇ってから、気恥ずかしそうに荷物を指さした。


「あれが屋敷から運び出されていく時、ヴィルヘルム様のもとに届くんだって思ったら……羨ましくて、いいなぁ、あの中にこっそり紛れ込んだら会えるかなぁ……なんて、思ったのを思い出して。子供みたいですね、私」


 会いたいのに会えなくて、寂しい気持ちがいっぱいな時だったから、ちょっとくらい、そんな願望が胸を掠めたとしてもしょうがないと思うのだ。

 誤魔化すように笑うと、伸びてきた腕にひょいと持ち上げられて、気が付けばソファの上に仰向けに転がされていた。


 上から触れてくるその手が熱い。


「ヴィルヘルム様……?」


「余り煽らないでくれ。冗談でなく、君を抱きつぶしてしまいそうだ」


 きっと、色々なものを堪えているのだろう、切迫した声は僅かに掠れて、いつもよりもずっと低く響いた。

 見下ろすその美貌は何処か苦しそうで、リュクレスは形にならない愛おしさを言葉に変えた。


「大好き」


「こら」


 こつりと額を合わせ、ヴィルヘルムが困ったような顔をする。


 燻る熱はより一層強く揺らめいて。


 それでも、高ぶる感情を抑え込み、慣れない旅に疲れているだろうリュクレスを慮る夫に、彼女は甘えるように微笑んだ。


 手を伸ばし、すぐ近くにある唇にそっと触れる。



 少しだけ驚いた顔をしたヴィルヘルムはその手を取り、――――それから。


 堪え切れない愛おしさに観念して、妻に懇願のキスを送った。











 ****





「どうせリュクレス嬢に甘やかされたんでしょ?」


 部屋から出てきたヴィルヘルムに向かって、チャリオットがにまにまと笑った。


「あの子は主に甘すぎですから。休憩をいれてから、こちらに連れて来たのは正解でしたね」


 その横で、ソルが大きくため息を付く。チャリオットと違いルクセイアに残っていたソルがリュクレスに再会したのは、出迎えに行った港でのことだ。心配そうな顔をしたチャリオットに手を引かれて歩くリュクレスを見て、彼は眉間に深い皺を刻んだ。

 今回彼女が乗ってきたのは軍用の移送船だ。

 一般用の旅船と異なり、速度を重視している分、乗り心地には非常に難がある。端的に言えば、相当に揺れるのだ。船に乗ったこともないリュクレスが船酔いに悩まされたであろうことは想像に難くない。気分転換に甲板に出ようにも、彼女の足で揺れる船内を歩き回れるはずもなく……。結果、移動の間中、狭い船室でじっと耐えてきたらしい。

 だから、「もう少しで会えると思えば嬉しいばかりで辛くなんてないんですよ」と微笑んで、チャリオットの心配を感謝するばかりの少女に、将軍と早く会わせてあげたいと思う反面、その体調を気遣うのは当然のことであり、合流したソルとチャリオットは、有無を言わさずリュクレスを港で休ませて、その顔色が戻るまで馬車に乗せようとはしなかったのだ。遅刻をしたのはそのせいだが、彼らに反省するつもりは毛頭ない。


 ソルはじっと主を見つめた。


 こちらが言わなくとも彼女が本調子でないことに気が付いたのまでは良かったが、そのあとが頂けない。食事も無理をさせず、胃に優しいものをほんの少しずつ食べさせていたから、安心して二人にしたというのに。二人きりにした途端、我慢が利かないとは、いい歳した男が一体何をしているのか。

 視線だけで苦情を垂れ流す遠慮のない従者を振り返り、ヴィルヘルムは顔を顰めた。


「甘やかされたのは事実だが、流石にあの状態のあの子を抱くほど、余裕がない訳じゃないぞ」


「ほう。で、彼女は今どうしています?」


「ベッドでぐっすり眠っている」


「手、出してるんじゃないですか」


 呆れた視線を向けられて、我慢の利かなかった自覚のあるヴィルヘルムはついと視線をそらした。


「……あの子が可愛いのがいけない」


「人のせいにしない。……といっても、リュクレスですしね。仕方ないか」


 ヴィルヘルムの鋼の意思を揺るがすのは、彼女の可愛らしい甘えだけだ。

 それも、自分のためじゃなく、大抵はヴィルヘルムを甘やかすものなのだから、ソルも溜息を飲み込み諦めるしかない。


「まぁ、でも、目の前に人参リュクレスぶら下げられたってことは、早く片付けて戻ってこいってことだから、頑張るしかないよね」


「単純に書類仕事の手伝いが欲しいとかいう理由だったら、容赦しないがな」


 あり得そうな理由にチャリオットは温い笑みを浮かべると、ヴィルヘルムの後を追って歩き出した。

 その背中を、ソルはじっと見つめた。扉の前に佇んだまま、一つ溜息を付くと、大きくはない声を投げかける。


「で、貴方はいつまであの子に思い出を重ねるつもりで?」


 ぴたり、二人の足が止まった。

 肩越しに振り返ったヴィルヘルムの視線がチャリオットに向けられる。チャリオットは苦笑して、ソルを振り返った。


「何のこと?」


「呼び方」


「ああー。ほら、リュクレス嬢もまだ、夫人とか奥方って言われるの慣れてないじゃない?だから、もう少しだけ良いかなって」

 

 いつものように明るく言ってみるも、ソルは冷たい視線で容赦ない。


「で、本音は?」


「いろいろ片付くまで待ってほしい、かな。将軍、これ終わったら少し休暇を頂けません?」


「かまわんが。……休暇でいいのか?」


 何も言っていないのに、彼はやはり気が付いていたのか。

 チャリオットは、肩を落として苦笑する。


「知ってたんですか?アルタフスから手紙が来たこと」


「グレンダル当主の印璽があればさすがに報告が来る」


 グレンダル家、その当主はアルタフス公国の現宰相である。詳しいことを伝えているわけではないが、しがない一介の兵士でしかなかったはずのチャリオットが宰相と個人的に関わりがあることに、おそらくヴィルヘルムは気づいている。


「ああ、確かにねー。俺がアルタフスと通じてるように見えるもんなぁ。でも、検閲入ってなかったよね?」


「しなければならないような内容ならば、お前が持ってきただろう?」


 将軍の信頼はピンポイントで胸に突き刺さる。動悸と高揚する気持ちを隠して、チャリオットはいつものようにへらりと笑った。


「……信用されてるなぁ、俺」


「俺を裏切ってリュクレスに泣かれる気は無いだろう?」


「それは、勿論」


 ぐらぐらと人を揺すっておきながら、自分でさえ覗ききれない心の最奥から揺るがない答えを引き出す。こういうところは、やはり人たらしだ。

 チャリオットは張り付けた笑みを消して、はくと息をついた。


 両親と物心つく前に殺されてしまった弟と妹、置き去りにしてきた故郷。

 色褪せて錆びついてしまった思い出が、何の変哲もない日常の風景の中に溶けて解けて、柔らかに色付いたのは、リュクレスの見つめる景色が生き生きとして、とても優しいものだったからだ。彼女が、冷たい記憶ばかりではなく、胸温まる優しい記憶もあったのだとチャリオットに思い出させてくれた。

 高々呼び方で何かが変わるはずないとわかっている。それでも恐れたのは己の心の在り方だったのだろう。臆病風に吹かれるなんて本当にらしくないけれど。拘り続けていたのは、きっと、そのせいだ。

 そして、リュクレスがそれに気づいていて受け入れてくれていたから、つい甘えてしまった。


 ステンドグラスの冬狼の眼差しが足踏みするチャリオットの背中を押す。

 丸まりそうだった背中をしゃんと伸ばして、チャリオットはヴィルヘルムへと向き直った。


「……クビにしようとしないでくださいよ。休暇でいいです。アルタフスに戻る気はありませんから。でも、やり残してきたことをちゃんと片付けて来ます。そしたら、ちゃんと呼ぶから」


 最後の言葉はソルに向けて。

 そして、にまりと口元に弧を描き、いつものお調子者の顔を取り戻すと、妻が大好きな夫に尋ねた。


「だから、何て呼んだらいいか教えてね?将軍」

 

 






お兄ちゃんソルダメ出しをする」の回です。


そして、チャリオットが適切ではないとわかっていながら、「リュクレス嬢」と呼びを続けていた理由は、こういう訳でした。

「曇天」でチャリオットが見た光景は、きっと彼の中で一生消えないのです。



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